第3巻第10号 1990/7/1
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DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY
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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]
(PDC00137, dmori@c1shin.cs.shinshu-u.junet)
久しぶりに頭を「ガーン」と叩かれたような気がする本を読みました。静岡大学の村越先生発行の読書案内(90年版)に載っていたので、読んでみようと思ったのですが、タイトル・装丁・出版社を見ての第一印象は「いのちを大切にしよう」的なヒューマニズム臭ぷんぷんの本かなというものでした。ところが、読んでみてビックリ、いきなり「ニワトリを殺して食う」話です。しかも、小学校4年生の子どもたちの目の前で、まさに生きているニワトリの首を手でひねって殺し、その場で、子どもたちに羽をむしらせ、料理させて、食べさせるというスゴイ話なのです。女の子たちは「かわいそう」と泣き叫びます。
なぜ、そんな残酷なことをするかというと、(1)生きるということは、ほかの生きもののいのちを取り入れることである、(2)だから、自分が生きるために奪ったそのいのちは、自分が生きるためにぜんぶ使うのでなければならない、ということを教えるためだといいます。「殺す人と食べる人とが分離されている現代では、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないといって平気で食べものを捨てて」いるのが現状です。著者の鳥山さんによれば、「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほんとうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。」というのです。これはとんでもない考え方のようにも聞こえます。しかし、よく考えると確かにその通りなのです。
今年のDOHC5月号で取り上げたゴミ問題の根本にも、ゴミを出す人とゴミ処理をする人とが分離されてしまっていることがありました。人が生きていく限り必ずゴミ(や糞尿、産業廃棄物)が出ます。生きるということは環境を汚すことなのです。ところが、ゴミは人目につかないように捨てられるため、ゴミを出すことが生きることと結びついていることがわかりにくくなって、その結果、「キレイ好き」な人ほど、「朝シャン」をし、使い捨ての「除菌クリーナー」を使って、ゴミを大量生産しているのです。
このように、同じところでつながっている問題の一方に気づきながら、もう一方にはまったく気づかずに、「卵焼きはいいけれど、ゆで卵というのは、どうもいのちそのままという感じで気持ち悪い」などと平気で言い触らしていたのですから、「ガーン」と頭を叩かれた気になるのも当然です。でも、こういうショックを受けることも読書の醍醐味の一つなのです。あなたも頭を叩かれてみませんか? (守 一雄)
【これは絶対面白い】
鳥山敏子『いのちに触れる:生と性と死の授業』
太郎次郎社 1,648(税込み)
上に紹介した食べものといのちの問題の他、原子力発電所の問題、ゴミ処理の問題、人間に食べられるためだけに生きる豚や牛のいのちや性の問題、などが小学校の授業を通して見事に結びつけられている。ただただ「マイッタ」。 (守 一雄)
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html化1996.5.18