毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]
(kaz-mori[at-mark]cc.tuat.ac.jp)
http://www.avis.ne.jp/~uriuri/kaz/dohc/dohchp-j.html
この本だけは、少なくとも3年に一度はこの『DOHC月報』で紹介することにしていましたが、2007年に農工大に移った後は紹介するのをすっかり忘れていました。気がついたら、前回の紹介から丸8年間も経っていました。初めての紹介の時に「学生時代にこの本1冊を読むか、それともこの本以外の400冊を読むかのどちらかを選ぶとしたら、この本1冊を読む方を選ぶべきだ」と書きました。この考えは今も変わっていません。厚い本ですが、読み方のガイドは3度目の紹介文をご覧下さい。(守 一雄)
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(c)紀伊国屋書店 |
この本で著者のリチャード・ドーキンスが主張しているのは以下の2点である。
1)すべての生物は遺伝子を残すために生きている。
私たちは生物の個体に焦点を当てて、個体を中心に生物を見ている。だから、ニワトリは次の世代を残すために卵を産むと考える。ヒトも卵子と精子を受精させることで新しい生命を作り出すと考える。しかし、ドーキンスは発想を逆転させ、遺伝子に焦点を当てて生物を見る。すると、同じことが違って見える。ニワトリの遺伝子は自分の複製を作るためにニワトリや卵という「生存機械」を作り出したと考えるのだ。私たちヒトも、ヒトの遺伝子がその遺伝子を代々複製していくために、人体という「生存機械」を作ったのである。(この本が日本で最初に翻訳された際には、『生物=生存機械論』という書名になっていたのはそのためである。)
個体に焦点を当てるか、遺伝子に焦点を当てるかは単なる見方の違いであって、どちらが正しいとは決められない(とドーキンス自身もこの本で述べている)。しかし、遺伝子はその誕生以来数十億年生き続けてきたのに対し、個体はヒトのように比較的長生きな種でもせいぜい数十年間を生きるにすぎない。どちらを主とすべきかはおのずと明らかではないか。ただ、個体を主とする視点を放棄することは、不愉快でもある。しかし、地球が世界の中心ではなかったように、「私という個体」も私の「主」ではなかったのだ。
2)すべての遺伝子は自分が生き残ることに関して徹底的に利己的である。
この本の原題(The Selfish Gene)が意味しているのはこうした遺伝子の特性である。「利己的」という言葉は、ついつい個体レベルで考えがちなため、遺伝子レベルでの利己的ということの意味が誤解され、本を読まずにその誤解に基づく的外れな批判がなされることも多かった。しかし、「遺伝子レベルでの利己性」とは「その遺伝子が生き残ること」を意味している。だから、地球上に現存する生物の遺伝子はすべてきわめて利己的であったということになる。利己的だったからこそ生き残ってきたわけだからだ。これは、ダーウィンの進化論の基本原理である「適者生存」と同じ考えである。というより、「利己的遺伝子理論」はダーウィンの進化論そのものなのである。
遺伝子レベルでの利己性はその遺伝子が作った個体が利己的であることを意味しない。それどころか、むしろ個体は遺伝子を残すために利他的に行動することの方が多いのである。親が子どもに無償の愛を捧げるのも、個体レベルでは利他的に見えるが、なんのことはない「自分の遺伝子を残そう」としているにすぎない。遺伝的な姻戚関係にない個体が助け合うのも、結局はその方が自分の遺伝子の存続にとってトクだからなのだ。利己的遺伝子理論は、人にとって最も根源的な問いである「人はなぜ生きるのか」への答えを提示した。さらに「愛とは何か」「道徳的であることが良いのはなぜか」「そもそも人にとって善とはなにか」といった宗教的で哲学的な問いに対する答えも見いだしたのである。(守 一雄)