第18巻第4号              2005/1/1
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DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY

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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)

 新年あけましておめでとうございます。今年もDOHCをどうぞよろしくお願いします。

 昨年の個人的10大ニュースのトップは「科研費2件採択」でした。特に、基盤研究Bという大きな研究申請が認められたのは私も初めてで、国内の共同研究者や海外の研究協力者へ実験機器を貸し出したり、ニュージーランドで開催される国際学会でシンポジウムを企画したりであわただしく1年(というか5月からの半年)がすぎました。目撃記憶研究の世界的権威であるLoftus博士にも参加してもらうことになっているそのシンポジウムのために、この3日からはニュージーランドに出張します。年末はそんなわけでぎりぎりまで学会発表の準備に忙しかったのですが、この本は早く紹介したくてそんな忙しい中で紹介文を書きました。これは心についてのコペルニクス的大発見です。

 
(c)筑摩書房


【これは絶対面白い】

前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』

「私」の謎を解く受動意識仮説

筑摩書房\1,900


 気がついたらオヤジの後を継いで「社長」になっていた。自分の会社のことは何でも自由になった。大きな会社を自分の思い通りに経営するのは面白いものだった。ところが、古典的な『経営者分析』という理論で、実はどんな会社でも「社長」の知らないところでいろいろな不祥事の処理がこっそりなされていることを知った。そういえば、オレの女遊びの後始末も「専務」がこっそりやってくれていたらしい。それでも、そうした陰の部分は会社の本業とは無関係だと思っていたのだが、よく考えてみると「社長」なしでも主力工場のほとんどは自律的 に操業しているし、「心臓部」の工場は仮にオレが操業停止を命じても止められないこともわかった。さらに『サブリミナル・プレジデント』という本では、「社長」が決定しているように思える事柄も実は取締役会議に上がってくる前にほとんど決まっていて、「社長」は側近が耳元で囁くことをあたかも自分の判断であるかのように会議で提案するだけだと書かれていた。確かにそんな気もする。この間、購入を決めたシャンプー設備も、いろいろな選択肢の中からオレが選んだつもりだったが、よく考えてみると、部下の誰かが提案してきたものを「よしっソレだ」と根拠もなく決めただけだったように思う。ホントに決めたのはヤツだったのだ。それでも、「人事権」だけはオレが握っている。「指先」工場の工場長を呼びつければ、ヤツはすぐにやってくる。「足先」工場だってオレが命じれば自由に動く。だから、「人事権」はオレの「社長」としての最後の砦だった。しかし、アメリカの「社会組織学者」リベット博士が、巧妙な「組織学」実験によって、「社長が命じてから工場が動くのではなく、工場が動き出してから社長が命じている」ことを明らかにしちまった。結局、オレが自由に動かしていると思っていたオレの会社は、オレなしでもすべてが勝手にうまく動いていたのだ。オレはただ「それを動かしているつもりになっていただけ」だったのだ。もっとも、オレだけがそんな惨めな「社長」なのではない。隣の会社も取引先の会社も「社長」はみんな単なる飾り物なのだ。じゃ、「社長」は何のためにいるのだ?会社はなぜ「社長」を作ったのか?

○     ○     ○

 その答えは「社史編纂(=エピソード記憶)」のためというのがこの本の主張である。オレには会社を動かす力はない。オレが会社を動かしているのではなく、オレは会社の一部にすぎない。オレが「指先工場を移転」と書き記したために工場が移転したとばかり思ってきたが、それはオレの思い違いだったのだ。オレは工場が移転したことを記録に残していただけだった。ただ、それじゃオレのプライドが許さないから勝手にオレの方が先に決めたかのように思いこむことにしていただけなのだ。あ、そうだ。今年から肩書きを変えようと思っている。これからは「社長」の代わりに、より実態に近い「社史編纂室長」と呼んでくれ。

(守 一雄)

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