第17巻第2号              2003/11/1
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DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY

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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)


 先月号で紹介した『ダイオキシン 神話の終焉』についてネット上の関連するサイトを覗いていたら、この本を見つけました。前々からなんとなくリサイクルのうさんくささを感じていましたので、早速、最近の発行のものを中心にアマゾンで5冊ほど購入して読んでみました。著者の専門は分離工学だとのことですが、リサイクルの根元的な矛盾がよくわかる本で、久しぶりの「目からウロコが落ちる本」でした。武田氏の一連の本を読んだ後では、つい最近出た寄本勝美『リサイクル社会への道』(岩波新書)は単なる脳天気な空論に思えます。                         (守 一雄)

 
(c)文藝春秋社


【これは絶対面白い】

武田邦彦『リサイクル幻想』

文春新書\660


 著者の主張は明快である。「リサイクルは原理的に不可能である」というのだ。

 以前にこのDOHCで紹介した本の中にも、リサイクルや環境保護運動の間違いや矛盾を指摘するものがあった。たとえば、「アルミ缶をリサイクルする」ために、「ビール瓶を繰り返し洗って使う」という優れたシステムが壊れてしまったことや、自治体が古紙回収を始めたため、古紙がだぶつき古紙相場が暴落して、従来の古紙回収業者が倒産してしまったこと、などなどである。しかし、こうした問題点は一時的な歪みであって、いずれリサイクルのシステムがちゃんと確立すれば、リサイクルはうまく行くものだと思っていた。ようはやり方なのだと。

 ところが、この本を読んで、こうした考えが甘い幻想にすぎないことがよくわかった。この本を読みながら、「リサイクルは永久機関の話に似ているな」と思った。部分部分を見ているとAがBを動かし、そのBがCを動かし・・・と外から力を加えなくてもいつまでも動き続ける機械を作ることは可能なような気がする。しかし、全体として考えると「そんなうまい話はありえない」のだ。リサイクルも同じことなのだ。

 著者はリサイクルが最も効率よくできた場合を想定して、そのときに使われるエネルギーを計算している。その結果は明らかである。リサイクルはエネルギーのムダなのである。「すべてのものをリサイクルしてゴミゼロ社会を作ろう」という夢のような考えは、所詮「夢」の世界の話だったのだ。人が活動すれば必ずゴミが出る。そのゴミを片づけたり、リサイクルしたりすることも人の活動に変わりはないため、その活動からもゴミが出て、結局、リサイクルすればするほどかえってゴミは増えてしまうのである。(一時、「牛乳パックをリサイクルして手製のハガキを作る」なんてことがもてはやされたが、あれも結局ゴミを増やしただけだったではないか。)

 では、どうしたらいいのか。著者の提示する解決策は意表をつくものであるが、今行われている「リサイクル活動」よりもずっと合理的である。まず、ゴミは分別しないですべて焼却し、熱源とする。手間(=人間の活動)がかかるゴミ処理方法は、結局、新たなゴミ(=ゴミ処理のための活動によるゴミ)を増やすことになる。だから、ゴミ処理はできるだけ手間のかからない方法をとるべきである。つまり、ただ集めて焼却すればよい。そして、焼却の際にはできるだけ熱エネルギーの回収に努める。うーん、合理的。

 次に、焼却後の灰は一カ所に集めて「人工鉱山」を作る。焼却後の灰には、人間に有用な金属類が含まれている。だったら、将来の「リサイクル」のためにもできるだけ一カ所に集めておく方がよい。これは人工の鉱山を作ることに相当する。今の科学技術ではそれらをうまく分離する方法がないが、将来は可能になるかもしれない。人工鉱山の周りには鉱毒の問題が発生するが、自然鉱山の場合同様、それは受け入れる覚悟が必要である。

 そして、私たち一人ひとりが「リサイクルは不可能であること」をしっかり心に刻むことも重要である。リサイクルができない中で資源を有効利用するとすれば、物を大事に長く使う以外にない。「リサイクルできるからいいや」とリサイクルを大量消費の免罪符とすることを止め、「物にも命があること(=リサイクルできないこと)」を知って、大事に使うべきなのである。

                       (守 一雄)


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