第16巻第5号              2003/2/1
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DOHC(年間百冊読書する会)MONTHLY

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毎月1日発行[発行責任者:守 一雄]

(kazmori@gipnc.shinshu-u.ac.jp)


 
(c)小学館

【これは絶対面白い】

最相葉月『絶対音感』

小学館文庫(\657)


 ちょうど5年前(1998年2月)に出版された単行本(小学館刊\1,600)は、いくつかの賞を受賞しベストセラーにもなったのだが、「絶対音感」については知っているつもりだったし、今更それを賛美するようなノンフィクションが面白いとは思えず、「食わず嫌い」的に読まないでいた。しかし、これは早とちりだった。文庫になったので、出張の時にあさま号の中で読んでみたのだが、引きこまれる面白さで、新幹線を降りるのが早すぎて残念に思われるほどだった。

 「絶対音感」とは、ある音を聞いたときに、ほかの音と比べなくてもラやドといった音名が瞬時にわかる能力で、これがあると、一度曲を聴いただけで楽器を弾いたり楽譜に書いたりでき、小鳥のさえずりや救急車のサイレンの音程がわかったりもする。過去の偉大な音楽家のベートーベンやモーツァルトも絶対音感をもっていたとされるが、意外に身近にも絶対音感の持ち主がいたりする。どうやら、母語の習得のように生まれてすぐから音楽を聴いて育てられると絶対音感の習得がなされるらしい。一方で、英語を大人になってから習い始めてもどうしてもネイティヴスピーカーのようにはなれないように、ある程度の年齢以後に学習を始めたのでは「絶対音感」もけっして身に付かない。だから、一流の音楽家の中でも小さい頃に親に「絶対音感」教育をしてもらわずに育った場合には、自分に「絶対音感」がないことにコンプレックスをもつのだという。

 という程度の知識がこの本を読む前の私の「絶対音感」観だった。小学校の頃から音楽の時間は嫌いで、楽器の演奏や階名で歌わされることに苦労したいやな経験しかない私のような音楽音痴には、想像もつかない世界だったが、いざ読み始めてみると、「音感」とはつまり「音の高さの知覚・認知」であり、認知心理学の一分野であることに気づいた。学部生の頃には音声学や音響心理学に興味を持ち勉強したこともあったので、もともとよく知っている分野だったのだ。北大の阿部先生とかなじみのある心理学者の話も出てくるし、一昨年に少し関わった鈴木メソード研究プロジェクトでお会いした愛教大の村尾先生とか国立音大の繁下先生とかも出てくるのだ。

 一方、苦手分野だった音楽の世界の話は、新しい知識がたくさん仕入れられて、その奥深さに驚いた。なかでも私が一番驚いたのは、音階を構成する音の高さが楽器ごとに違うということだった。音階は学校のピアノの鍵盤に対応したドレミファソラシドがそれこそ「絶対的な基準」となるものだとばかり思っていたが、ピアノはヴァイオリンなどと違って演奏者が演奏ごと音の高さを微調整することができないため、2つの音が最も美しく響きあう純正律ではなく、妥協の産物としての「平均律」にしてあるのだそうだ。逆に言えば、ヴァイオリンなどの演奏家はそれこそ楽譜に記された音符を演奏ごとに微調整して、最も美しく響く音を出しているのである。エレクトーンなどの電子楽器では、自動演奏もできるし、いろいろな楽器の音も自由に出せるのだから、ヴァイオリニストなどのプロの音楽家はそのうち必要なくなるのではないかと思っていたのは、まさに「素人考え」に過ぎなかったことがよくわかった。

 そういう微調整が可能な楽器とピアノなどがハーモニーを奏でるオーケストラでは、楽器間の調整をどの程度おこなうかのバランスが必要になるわけだから、オーケストラの指揮者がいかに大変な仕事をしているのか、そして同時に演奏されている中でどれか一つだけが違っていてもそれを感知できるだけの能力が必要なこともよくわかった。その一方で、いろいろな考えをもつプロの演奏家たちをまとめていくためには、指揮者にはある種のカリスマ性も必要であるため、そうしたこともハッタリかもしれないというのも社会心理学的に興味深い話だった。その他、有名な天才ヴァオリニスト五嶋みどりとその英才教育を行った母五嶋節、みどりを越える天才ではといわれる弟の龍の話にも感激した。

 さらには、こうしたいろいろな知識が最相葉月という「指揮者」によって、一つの推理小説のような話にまとめられていることが、この本の最大の魅力なのだと思う。    (守 一雄)


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