◆1950年代  群馬県岩宿遺跡の旧石器発見から4年後の昭和28(1953)年12月、吹雪の野辺山高原矢出川遺跡での発見が、日本にも細石刃文化が存在したことを証明しました。吹雪でかじかむ手のひらには半透明の黒曜石でできた細石刃石核がありました。その幕を開けたのが、地元で研究を続ける由井茂也さん(現佐久考古学会顧問)、芹沢長介先生(現東北大学名誉教授)、岡本勇先生(故人)といった人たちでした。また、同じ年の夏、芹沢先生と由井さんは、川上村馬場平遺跡でローム層中に尖頭器の文化が存在することをつきとめていました。
◆1960年代  杉原荘介教授や戸沢充則先生ら明治大学考古学研究室による矢出川遺跡の第二次調査が実施され、さらに詳しい細石刃文化の様子が解明されています。
◆1970年代  70年代後半には、京都女子大考古学研究会の仲間たちが、由井さんや鈴木忠司さんの指導のもと野辺山をくまなく歩き回り、詳細な旧石器時代遺跡の分布が把握されるにいたりました。その成果は川上村誌 -先土器時代編- として92年に発刊されています。
◆1980年代  さらに80年代には戸沢充則教授の指導のもと明治大学考古学研究室を中心に矢出川遺跡群の総合調査が行われました。考古学ばかりでなく古環境・火山灰・狩猟民俗などを含めた総合的な調査が実施、大きな成果が収められ、旧石器時代総合研究のモデルケースとなりました。
◆1990年代  90年代には,八ヶ岳旧石器研究グループによる中ッ原遺跡群5B地点・1G地点などの調査により、矢出川遺跡とは異なったもうひとつの細石刃文化の存在が明らかにされ注目を浴びています。
◆2000年に
向けて
 このように八ヶ岳野辺山高原は、日本の後期旧石器時代研究の新しい扉を開いてきた重要なフィールドといえるでしょう。2000年以降には、いままで発見されていなかった後期旧石器時代前半の石器群や、さらに夢はふくらんで3万年以前の中期旧石器の発見も期待されるところです。

八ケ岳旧石器関係文献一覧表
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人物クローズアップ


由井茂也(ゆい しげなり)さん

 「小指の爪先ほどの小さな石器が、1万年以上前の細石刃というものだと知ったとき、夢見るような懐疑と好奇心から、この石器とのにらめっこが始まりました…」
 由井さんは目を細めながらその当時の心境を話されました。矢出川遺跡の、そして日本細石刃文化の発見者である由井茂也さんは、1905年生まれの93歳。90歳を越えてさらに学究心は旺盛で、佐久考古学会顧問として研究会にもしばしば参加されます。先生と呼ばれることが嫌いなので、親しみを込めて由井さんと呼ばせていただきます。考古学に限らず、すべての物事に対する由井さんの旺盛な好奇心と情熱が形成されたのは、おそらく昭和初期の農民運動を通じてからのことです。八ヶ岳のふもと川上村の由井さんのご自宅には、いまも野辺山出土のたくさんの旧石器が大切に保管され、1万年以上前の歴史を静かに語っています。
 いつまでもお元気でいてください! 由井茂也さん


写真でつづる"発見の八ヶ岳”

@ 1954年の矢出川遺跡第二次調査


A 矢出川遺跡の細石刃と細石刃石核

B 馬場平遺跡の調査


右から由井茂也・岩崎卓也・麻生優・芹沢長介・吉崎昌一、一人おいて戸沢充則

C 京都女子大学の野辺山原分布調査メンバー


D 明治大学の矢出川遺跡総合調査


E 矢出川遺跡での戸沢充則明治大学教授

F 八ヶ岳旧石器研究グループによる中ッ原5B地点の調査


G 矢出川遺跡に立つ由井茂也さんと芹沢長介先生(1992年)

 「…途中からはひどい吹雪になりたいへんな踏査行になったのだが、この日(1953年12月26日)に日本ではじめての「細石刃文化」を野辺山高原の凍りついた土の中から三人のスコップが掘り出したのだった。なにか熱病にとりつかれたかのような、あの頃の私たちの旧石器探求へ向けての心の昂ぶりは、四〇年後の今でも、まるで昨日のことのように思い出される。私が頭の中に描いていた日本旧石器時代の構想と、南佐久の高原地帯で由井さんがその眼と手でがっちり把握していた考古資料とがはしなくも遭遇して、馬場平から矢出川までの発見がなされたのであろう。」  (由井茂也著『草原の狩人』芹沢長介序文より)


H 野辺山の細石刃を観察する由井茂也さんと芹沢長介先生(1992年)