このコーナーは、日本の旧石器考古学に大きな業績を残した考古学者を随時ご紹介します。現役でバリバリの研究者・故人の研究者問わずご紹介します。

2000年2月1日 オープン

更新 2000年6月8日 <6>が新規追加

<1>森嶋 稔 1931-1996
写真左から 宮下健司・堤 隆
 森嶋稔 芹沢長介
 <1992年野辺山>
写真左から 森嶋稔・芹沢長介・
由井茂也<1992年野辺山>
jomon110211B03.pdf へのリンク
「前向きなんて甘い、前のめりに生きろ!
 森嶋稔はこういって、若い研究者を鼓舞した

 森嶋は、1931年長野県に生まれ、32年間にわたり教鞭をとった。その間、考古学研究の道を歩み、長野県考古学会長を努めた。1970年に「千曲川水系古代文化研究所」を設立、多くの若手研究者を育てあげた。

 森嶋の旧石器との邂逅は、赴任先の木曾郡開田村の柳又遺跡において、樋口昇一・小林達雄氏らと「柳又ポイント」と移された有茎尖頭器を発見したことによる。
 長野市上ケ屋遺跡の調査では4系統の石器群を検出、杉久保系・茂呂系・東山系・国府系のそれぞれの石器文化のもとに成立したとの学説を唱えた。これが、森嶋のオーリジナリティー「系列文化遍年」の素地となる。出土した特徴的な彫器は「上ケ屋型」と命名された。
 
 真田町唐沢B遺跡において、自ら「神子柴型石斧」と称した重厚な石斧10点を検出し、さらには、神子柴系文化のルーツの探求のため、1974年にはおよそ半月ほど旧ソビエト連邦への研究旅行を敢行。シベリア極東の旧石器文化についての造詣を深めた。
 1975年、道路開発にともなう和田村男女倉遺跡の調査が実施されると、黒曜石原産地における旧石器文化の実感解明にあたった。とくにそこでは、特殊な尖頭器製作技法である「男女倉技法」の提唱がなされた。

 森嶋をご存じの方は、すぐにあの堂々とした体躯を思い出すことができるだろう。それは堂々とした学風の表れであり、考古学研究者のみならず教師として教え子たちへの愛情をもった包容力をも体現していた。しかし残念ながら65歳という若さで他界した。


<2> 相沢忠洋 1926-1989     2000年 2月20日記載

相沢忠洋(1926-1989)  写真:笠懸町教育委員会1989より


 1949年、相沢忠洋が群馬県岩宿の切り通しから発見した1個の黒曜石の石器が、日本の旧石器研究の扉を開けた。

 そして50年、岩宿に落とされた最初の1点から、今日では5000ヶ所にもおよぶ旧石器遺跡が日本列島において発見されている。

 相沢が赤土にかけた執念が、今日の旧石器考古学に結実している。

<3> 日本の考古学者 番外編  世界の考古学者

セルゲイ・
セミョーノフ博士

 使用痕研究の父
 旧ソビエト科学アカデミー
 名著 『先史時代の技術』
 ヒゲがイイ感じの先生です
 新しい学問を創生する
       
人類学者と考古学者
●後列左から
 スミス、バーヨセフ、ジャン-フィリップ、ウォルポフ
  ビンフォード

●前列左から
 ジーン・アウル、ストリンガートリンカウス、ホワイト、ビュイクストラ

  ※ ジーン・アウル氏は「大地の子エイラ」の小説家

 

<4> ドクトル・マンロー

 スコットランドで生まれたマンローはエジンバラ大学の医学部を卒業後、30歳で日本に医師として渡った。
42歳で日本に帰化、1905年神奈川県早川・酒匂川で下部旧石器と呼ばれるものを発掘、日本の旧石器存否論の魁になった。。
 その後軽井沢サナトリウムに院長として勤務、軽井沢茂沢や御代田宮平遺跡などの発掘もおこなった。
 また、北海道二風谷のアイヌ・コタンにも暮らし、アイヌの人々の無料医療を行なうとともに、イオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残した。
ニール・ゴードン・マンロー博士
(1863-1942) 没年79歳
 写真:軽井沢でのマンロー
  1940年 (御代田町誌1998)より




遠間栄治

遠軽町先史資料館提供
<5> 遠間栄治
● 遠間栄治は、明治三十七年北海道紋別郡湧別村(現遠軽町)に生まれた。すでに二十歳の頃から大形の黒曜石石器に関心を持ち、昭和初期には黒曜石の尖頭器や石刃などを郷土誌に資料紹介している。一方で遠間は、遠軽町町会議長を務めた人物でもあった。昭和三四年、遠間は、幌加沢遺跡から採集された大量の石器を公開すべく、私財を注ぎ込んで遠軽町郷土資料館を設立し、自ら館長を務めた。
● 遠間の収集した膨大な資料は、散逸することなく、新しくなった遠軽町先史資料館に収められている。陳列ケースに並ぶ、尖頭器・両面調整石器・石刃・石刃石核・細石刃石核・細石刃などの石器類は、本州の同種の石器の数倍という巨大さで細石刃石核と呼ぶには、はばかられるシロモノも多い。
● 遠間資料は、今日筑波大学の研究グループの努力によって写真・図化され、『湧別川』という報告書として資料化がなされている(筑波大学遠間資料研究グループ編一九九〇)



<6> 森山公一 さん

森山公一さんは、信州を代表する旧石器研究者で、故森嶋先生の一番のお弟子さんである。
 森山さんは、残念ながら、99年2月28日亡くなられた。まだ40代半ばという若さであった。
 森山さんの研究は、尖頭器の実験製作など、実験考古学研究に優れた研究能力を開花させた。
 また、くさび形石器などの数多くの研究も残した。

写真上:右端が森山さん
写真下:左から二番目のノッポの人
      (下茂内遺跡の現場で)