戸 石 城 と 

砥 石 城

 当事務所より眺める砥石城   画:桶田明夫

2001年1月30日


 二つの書き方のある城址です。上田市の観光パンフや教育委員会で使用しているのは「戸石城」です。

伊勢山の陽泰寺の額には「砥石」と記され、伊勢山のお宮は「砥石健城神社」とされ、

神科小学校の校歌には「空にそびゆる砥石山、、、、」と歌われています。

どちらが正しいのか分かりませんが、私は地域を愛する者として「砥石」を使い

上田市など公的に表現する時は「戸石」と使うようにと心がけています。

 

 かつての古地図をみると「砥石」「戸石」と両方の文字が使われていたようです。

どうやら当字的に使われていたのかも知れません。しかしこの二つの文字にはちゃんと意味があるのです。

砥石の取れる山から「砥石」。戸板のように険しい山から「戸石」呼ばれるようです。

 

 上田市史誌編纂委員の桜井先生に聞いてみると、どちらの字も正しく、間違いでもないのだそうです。

かつての時代の当字のロマン、これが間違いだとするなら

現在残る地名を大改名しなければならなくなることでしょう。

という事で、「砥石」「戸石」とどの字を使っても良しとしましょう。

 

(麻蒔林檎園から見た伊勢崎の砦)

 

砥石城の地形的背景


 上田市の北東部、神科地区の北東部には高さ50メートルほどの丘があります。

東太郎山山塊の延長が神科田んぼに突き出ており、ここから、扇形の扇状地が広がります。

山塊の東側は神川の浸食により険しくけずりとられ、 先端は「伊勢崎」

(おかいこ山、虚空蔵山)と呼ばれ砥石米山城の支城「伊勢崎の砦」と呼ばれ

かつては「伊勢先」と書かれたようです。

 

 その山手が「伊勢山」と呼ばれ、「伊勢」の「先」に対し「山手」として「伊勢山」と

名付けられたのではと話す学者がいます。

「お伊勢様」なのか、なにか信仰の対象になっていたのでは?と聞きます。

信仰を伝えるのには、「巫女」とよばれる修験者がいて、各地を渡り歩いて

情報を集めやがて忍者と呼ばれたのかもしれません。

そして新屋の七つ塚、五中のカンカン塚、横山の陣場塚とこれら山魂を囲むように古墳があるのも

なにか訳がありそうです。この一段高い丘を中心に「上野」と呼ばれ 。

上田から上州への道として大きな難所で古代より重要な要害となっていたようです。

 

 古代の上州街道は川原柳から蛇沢、金井、長島、そして長島坂(長島の人は上野坂と呼ぶ)から

旧愛日学校跡を通り、伊勢山のお宮の前を通り市神、陽泰寺、稲荷神社を

通り傍陽の大庭へ繋がっていたようです。

いや旧上州街道は陽泰寺まえから上坂をおり下原へ抜けていたのかもしれません。

(中村広明さんの伊勢山の歴史参照ください)

http://www.avis.ne.jp/~torebi/iseyana3.html

 

 砥石城は四城からなり、米山・砥石・本城・枡形と城塞が構成されています。

一番奥が枡形とされていますが。地元伊勢山の長老は一番奥を本城といい

真中を枡形と呼んでいます。ある歴史家を案内したところ。

一番奥の城「ここが将棋場だね!」と語っていました。

また本城と記された名板を付けられた近くに「石垣跡」と看板が付けられています。

長老の話によると大正時代に山を開墾したおり、散乱していた石を集めて、石垣にしたと云います。

もしかしたら、これらの石が砥石城の屋敷の礎石であったのではないだろうか

と考えてしまうわたしです。

そして、ひとつひとつの石を下の神川から、担ぎ上げた先人の行為を感じ取れない現代

史実とはなんであろうか?

 

 

 (陽泰寺瓦)

 

私の感じる歴史的背景


伊勢山は砥石城の城下町として村上氏、真田氏により整備されてきたと伝わります。

陽泰寺の山門には「州浜」の模様の瓦が付いており、これは 海野の戦い

(天文10年村上・武田・諏訪の連合軍に海野氏が敗れた戦い)で滅んだ海野一族の家紋と聞きます。

真田氏は海野家の一族で生き残り、上州に落ち延びます。やがて真田家の家紋を「六紋銭」にかえ、

武田氏に命ごえしたんでしょう。そしてじっくりと砥石城の取り返しを企てていったのでしょう。

その間村上氏により砥石城と城下町を整備され天文20年の真田幸隆は血を流さず

砥石城を落としてしまいます。

「高白斎記」に「砥石ノ城真田乗取」と記されているそうです。

智将である幸隆はかつての海野一族の血の繋がりのある武士と内通し。みごと砥石城を取り戻したのです。

そして、砥石の城で真田昌幸は上田城構築の夢を育んだのです。

上田に本城を構えるのだ、真田昌幸は血炉の間を飛び出し「馬を引け!」と叫んだ。

(池波正太郎「真田太平記」より) 天正11年 (1583年)のことでした。

(焼き米)

 

小宮山城と焼き米伝説


 米山城はかつて小宮山城と呼ばれた時代があったようです。

小宮山氏は海野氏と密接な繋がりがあったようです。

金剛寺の人々は「城」(ジョウ、あるいは城山)と呼び、砥石城が築かれる以前に

小宮山城があったようです。

一説によると、この山は穀物の祭典の場であった、とも云われます。五穀豊穣の祭りが山の上で行われ

黒く焼かれた穀物を撒いて、お祭りしたとも云われます。

 

 近年ある歴史学者が米山城の焼き米は金剛寺人が毎年撒いていると説明した事に、私は腹をたて

「金剛寺のどなたが撒いているんですか? 自分も焼き米を、毎年子どもたちに拾われ

無くなってしまうのではないかと心配して、自分も焼き米を焼いて見たのですが

トッカンしてしまうんです。黒く炭化させるには大量に蒸し焼きにしないと出来ません。

金剛寺の人が撒いているという裏づけはどこにあるのか?」と抗議したことがありました。

後日金剛寺の人にこの話をしたら大騒ぎに発展してしまい。村中の長老や保存会の皆さんが集まり、

某歴史学者と主催者を相手に大騒動でした。金剛寺には焼き米を撒くいている人は誰もいないのです。

 

 それではなぜ焼き米を拾っても、焼き米はなくなっていかないのでしょう。

それはそれほど大量に焼き米があるからにほかなりません。

その焼き米はどうして出来たのか?が問題です毎年撒く焼き米の量が、

現在の神主さんがおはらいに撒く量とすれば、一合に満たない量です

もし毎年一合の焼き米を撒いたとして、

10年続けて一升です、100年続けて一斗です。いかがなものでしょう

この程度の焼き米を山の頂上に撒いて、現代の子どもたちに発見できるだけの量には程遠いと

私は思うのです。

山の上には穀倉があったと伝わります。数百表と思われる穀物が倉とも蒸し焼きとなり

その燃え残りの焼き米が現在でも出てくると考えたほうが、よさそうです。

(信方のお墓)

 

砥石崩れと白米伝説


 天文19年(1550年)上田腹の戦いから2年後、村上Vs武田の戦いが再び火蓋をきったようです。

上田原の戦いの苦杯から、信玄は慎重に砥石城を包囲し、水を断ち切り、じりじりと攻めたようです。

真夏の1ヶ月に及ぶ攻めに、砥石城に水の蓄えがあるはずがありません。

そのとき、村上義清は米倉から白米を桶に入れてもってこさせ

馬の背に白米をかけ馬を洗って見せたのです。

目の前の鐘かけの松に陣取っていた。信玄の部下はその驚きで立ち往生すると

すかさず「ものども続け〜」義清は馬にまたがり、砥石城を駆け下りました。

その戦いのすさまじさが、今でも血の川、血の池の伝説となり残っています。

陽泰寺の山すそから「いのき屋」の裏にかけて「なめり川」と呼ばれる血の川があります。

この戦いで武田軍は1000人に及ぶ戦死者をだし、武田24将の一人横田備中の守高松が戦死しました。

横田備中の守のお墓を探すのですがどこにも見つからないのです。

上田原には板垣信方のお墓があります、松代には山本勘助のお墓があります。

戸石の戦いで戦死した横田備中の守のお墓は無いのです。

これはこの戦いがあまりに凄まじかったことを物語るそうです。

これが後に信玄の「砥石崩れ」として語られた「講談」のようです。

(この講談のくだりをご存知の方torebi@avis.ne.jp まで教えてください。)

 

 

 

砥石こぼればなし


 明治39年 東郷元帥が上田を訪れ、砥石崩れで有名な砥石城に登りたいとのことでしたが、

案内できる人はおらず、いばらで覆われた、道なき道ということで

千曲川と依田川の合流するあたりで、鮎で接待したそうな。今でもその舟が祭られているそうです。

長瀬から尾野山への橋桁に「東郷橋」名付けられています。

 

山崎さんの紹介する戸石城のHP


 http://homepage1.nifty.com/YAMAZAKI-HOME/toishi/toishi-index.htm

 

 

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