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石と人間との関わりについて |
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2001年という新しい時代の幕開けに、地球が育んできた自然の恵みの中で生活できたことに感謝です。 しかし、私たちは、地球の大切な資源である化石燃料の大量消費により、 二酸化炭素の増大により、環境の異変が起きております。 下記URLの後半をごらんください。 http://www.avis.ne.jp/~torebi/new28.html
石と人間との関わりについて語ってみましょう 人間が誕生したのは森から草原に出て、二本足で立ち、棒や石を道具に狩をし、やがて言葉を使い、 火を使い出したときから始まったようです。そして天然の岩穴が住居となったようです。 火を使い、洞穴に煙が充満する為に、肺がんで苦しむ人は多かったようです。 排煙のために岩を砕き、快適な住まい環境を工夫してきたようです。 石を割り、鋭利な切片でナイフを作り、石の道具が狩をする上で大変重要なかかわりがあったのでしょう。 石を研磨し斧などの道具をつくり、鍬をつくり、そして平地に穴を掘りそこに草木をかぶせて縦穴式住居がはじまり 集落を形成していきます。入り口には石の階段が据えられ、土止めに石が積まれ、平らな石を敷き詰め、 (信州は鉄平石の産地です、その鉄平石を敷き詰め石畳も見られます) 住居の中央に石の囲炉裏をつくり、石を組む技術が大きく進歩します。 自然物を崇拝し、信仰をしたのでしょう。信仰のために石が並べられ、 石を加工され「なぞの石」が出てまいります。 東部町常田には「でいだらぼっちの足跡」と呼ばれるなぞの巨人の足跡とされる、石の窪みがあります。
(でいだらぼっちの足跡) なにかの信仰のために使われたのか? 大きな天然石には20〜30センチほどの窪みは、穀物を潰したり、餅を搗いたりしていたように思えるのです。 常田の東部中学の南側の畑の中に「でいだらぼっちの足跡」として今尚あります。 やがて、古墳の時代に入り、石を積み上げる技術がほぼ出来上がります。 このころは石を加工して積み上げることはあまりなく、近くにある石を巧みに積み上げ、 ずり落ちない石積みの技術に感動します。 使いようの無い石は古墳の周りに埋められ、石積みの眼力は見事なものです。
そして築城の時代となり、各地に名城ができていきます。 滋賀県に穴太衆が積んだ「あのう衆積み」というみごとな石垣がみられます。 築城に際し、各地の石垣を筑いできたようです。この地は花崗岩質の岩が多く、 この石の特徴は四角く割れる性格があり、自然にサイコロ状の石として産出します。 この石を人間が上りにくく手や足がかかりにくく積み上げる技術が「穴太衆積み」だとされていますが。 実際は技術といいより石の形状と勾配により、上の石を迫出して積むことにより、 安定し、積みあがることが自分の体験からわかってきました。
群馬県甘楽町にはユニークな石垣があります。一見小石を積み上げ。 いかにも強度を感じさせない石垣にみえるのですが、 実は素晴らしく合法的な石垣で構造上も理にかなっています。地域の特産を生かした石垣なのです。 一見10センチ程の小石に見えますが、実はその奥行きは3倍5倍と控えがあるのです。 (コッペパン状のように長い石です)石積みの条件の一つに「控えを長く」という条件があります。 これは表面で見えない石の奥行きにより、構造を強くさせるためなのです。 甘楽町の川原の石にしても、畑を掘っても長さ20〜50センチ程の長手の石が沢山あるのです。 この地域にある石を巧みに利用した知恵の産物の石垣であるのです。 このすばらしい石垣の文化を築いた甘楽町の先人に大きな拍手を私は贈ります。
空積みの模式図
注意*根石に丸太も使われた。注意の石は尻が上がっている為上の石がずり出る。 石積みの条件 1.控えを長く 2.尻を低く 3.水が抜けるように
上田城の石は太郎山から産する「緑色凝灰岩」という約2500万年前に海底火山の噴出物が堆積した岩です。 この中で火山灰が中心に固まった岩が板状に割れやすく、墓碑や石橋、 井戸枠などや火に強いところからかまどにも利用されました、 この石を利用して真田昌幸さんは上田城を築城しました。 上田市の東部山魂には安山岩質のなかなかの名石「矢沢石」があるのですが、 運ぶ経費からみて若干質の落ちる太郎山の石を使ったのでしょう。 1993年ごろの上田城石積み補修工事のときのことでした。 崩れた石の補修のため、崩れた部分を取り除いてみると、そこに石を崩す原因になっている部分が現れてきました。 その石は上の石がずり出るように据えられ、 (尻が下がっていないのです。ようするに石積みの基本が出来ていなかったのです。) そして驚く事は奥行き2メートルにわたり裏込めのグリ石が詰められていたのです。 しかもその石は太郎山の石ではなく、千曲川の石でもなく、 上田城の河岸段丘を構成している地層の中にある石と同じでした。 要するに「堀」を掘ったときに発生した土の中から出た、グリ石が集められ、 それを裏込めに使用するという実に現場発生材の有効利用がされていた訳です。 財力と権力の象徴である大阪城の石を四国から運ばせた太閤さんは別格で、 地域の武将は地域でまかなえる材料を巧みに利用して、それぞれの地域の特色有る石垣の文化を築いたのでしょう。 この時代の石垣は移動できる範囲で、それぞれの石の形を巧みに組み合わせて、 実に味わいの有る石垣の美を構成してきたのでしょう。明治になり鉄道が各地を繋ぐようになり、 外国から来た技術者の指導により、間知石という規格の石が刻まれ、 コンクリートにより積み上げられる時代となって来ることにより、石垣の趣が大きく変わってしまいました。
私は中学生のころから石に魅せられ、旅先の石を拾い集めていました。 石には形状があり、どのようにしてここにあるのか想像できます。 千曲川の石は平べったい石が多く、それらが流れに流されまいと並んでいきます。 上流にいくと、角のある石、つまり流れて日の浅い石になります。下流ほど角が取れ、丸くなるのです。 そしておだやかに並んでいくのです。
千曲川と大きく異なるのが木曽川です。木曽川の石は花崗岩質の石でこの石はもともと 四角く割れる性質があるのです。その石が木曽の激流を流れるのですから。 巨石が転がりやすいうえに、木曽谷の激しさがよけいに石が落ち着かず、 安定の場所まで移動しようとしているのです。 千曲川の石が平べったいのは、鉄平石の原産地が信州にあることで想像できるでしょう。 安山岩質の岩が板状に割れる、ことを板状節理と言います。この板状節理が発達したのが鉄平石なのです。
数多くの親水公園を見てきました。しかし心有る石組はほとんどありません。 ただ一つ気に入っているのは奈良井宿の木曽大橋の親水公園です。 大橋の付近のみですが、川の中に据えられた「飛び石」しかり、護岸石組しかりです。 これには造園の「遊び心」が必要です。千曲川の川原で一石の巨石を上流の波を受けるように据えれば、 川の流れの厳しさを表現できるし。また小さな石を上流に逆らって据えたらどうなるのでしょう。 これが造園の技なのです。
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