生活、農業用水としての「堀越堰」

田園空間整備事業 「古城の里整備事業」への手がかりに?

本城

矢沢城

砥石城

私たちの住む上田市の北東部は「神科」と呼ばれ、大字名で「古里」「上田」「住吉」「上野」と

四っの大字名があります。

意味合いの深そうな名前のとおり、「古里」は信濃国府がおかれた場所ではないかと云われ古瓦、

古器など沢山出土するようです。長島のお宮は東條神社と呼ばれ荘園の東端であるのではと云われ、

西側に荘園があったのではと云われます。すると金井・山口が荘園にあたり、ここが「上田」であり、

長島周辺が「住吉」であり。北東部の山魂が「上野」となり、随所に史跡、遺構が残っております。

        (洗い場)

 

かつての堰

かつての堰

水車

右手に水車の水路跡が見える

郷土の文化を見直し、未来の子供たちに繋いでいく。郷土の文化とはなにか?

 自然であり、農耕文化であり、信仰(?) 

そんな中から、日本の代表的寡雨(かう)地帯の当地は、塩田地区の溜池に対し、堰が発達したようです。

堀越堰は生活用水として、古代より竹樋により,神川から導かれたと伝えられる、生活用水路なのです。

 私の家の前には川が流れ、川というより「堰」です。

神川の水を岩の間を掘りぬき、水を導き、農業、生活用水として利用されてきました。

家の前には洗い場があり、桶をかついで飲み水を汲みに来る人、洗い物に来る人、村人の交流の場でありました。

川幅は狭く、水量が多いため、流され事故に合う子供が沢山あったそうです。

私の妹も三才のとき流され、近くの住人に救われたこともありました。

私の家には水車があり、その水路跡が今尚残っています。

 

 この伊勢山地区は堀越堰の水を利用して水車の連立していた地域です。

私の家から郵便局までの間に4っの水車があり、郵便局の下に一つ伊勢山駅の隣に一つ、

その下にもう一つ、私の家の上流に2箇所、、、そして樋之沢に2ヶ所、合計11ヶ所は私が記憶しています。

かつての書物「神科村誌」(昭和43年刊)によると10ヶ所の水車が伊勢山にあったと記録されています。

 その水車の最後の面影が、平成9年度の堀越堰改修工事をきっかけに消えていきました。

この水車は私の子供の頃は木製の水車でした。子供たちはこの輪の中に入り、

水を流し、水車を回し、まるでリスのように遊んでいたのです。

今考えるとゾット恐怖を感じる遊びをしていました。忍者のようにすばしっこい子供たちだったんですね。 

 

別冊歴史読本「戦国の奇襲戦」1990−8号「真田忍者履歴帳」を見ると、「歩き巫女」(忍者のこと)が諸国

を巡回しており、ときには口寄せ,祈祷などして、人の目をあざむいていた。上田伊勢山村25人、諏訪形

村8人、松代真田領のうち牧ノ島村5人、東條村6人、と言う数字が残っている。と記されています。

な〜るほど 忍者の末裔の住む伊勢山には機敏な子供たちがいたことがうかがわれます。

(神川沿いの山魂 「おかいこ山」)

ここでなぜ忍者が登場するのか、疑問に思われるでしょう。

それは、一つに真田町と上田市との間には太郎山山魂があり、神川が山塊を険しく削り取り、

太郎山山塊の延長が要害のようにそそり出ているのです。

その先が伊勢崎の砦と呼ばれ、かつては伊勢先と書かれたようです。

(虚空蔵山、別名おかいこ山と呼ばれ、お蚕の形をした、地域のシンボルです)

(伊勢山の家並み)

(伊勢山の縦町)

その山手が「伊勢山」と呼ばれ、「伊勢」の「山手」に対し「先」と名付けられたのではと、話す学者がいます。

「お伊勢様」なのか、なにか信仰の対象になっていたのでは? と聞きます。

信仰を伝えるのには、「巫女」とよばれる修験者がいて、各地を渡り歩いて、情報を集め、

やがて忍者と呼ばれたのかもしれません。

そして新屋の七つ塚、五中のカンカン塚、横山の陣場塚とこれら山魂を囲むように古墳があるのも、

なにか訳がありそうです。

 

そして「伊勢山」の発祥は五中のカンカン塚辺りで、この北部には「番山」と呼ばれる円錐形の山があります。

ここは神科田んぼを全貌できる適地で、監視の番人をおいた所といわれます。

(神川が岩をけずる、岩の中にトンネルがある)

(トンネルの出口)

 

 

 先人がいつの時代に伊勢山に移ったのか分かっていないようですが。

伊勢山には七つ井戸と云われる古井戸がありますがあまり美味しい水でなかったようです。

神科で水の美味しいのは金剛寺と山口です。

この二つの沢は深くそして、緑色凝灰岩と呼ばれる岩の中を通ってくるために、

水が浄化され適度のミネラルウオーターとなっているのです。伊勢山の場合は、

緑色凝灰岩の上部の地層「黒色頁岩」を通ってくるため、白色の濁りがあり、

美味しくなかったために神川から竹樋により水を導いたのかもしれません。

後の時代になり。農業用水の需要が高まり、「黒色頁岩」の岸壁を貫き、トンネルを掘ったのでしょう。

しかしもろい岩のために毎年堰の補修が大変であったようです。

現在のトンネルは昭和46年に完成されたものです。

私の小さいころは毎年「せんげさらい」があり、そのときは堰の水が止まります。

子供たちは一斉に川に入り魚を捕るのです。カジカ、ハヤ、サソリ、ヤマメと楽しんだものです。

一部の石垣の下には丸太が伏せてありその丸太の下部がところどころ、えぐれていまして、

そこが意外と魚の巣になっていたのが不思議でした。

その他シジミはいるしザザ虫やマゴタロウ、トンボのヤゴも沢山いましたね。そうですメダカもたくさんいました。

 

堀越堰とは

1.日本の代表的寡雨(かう)地域の主用用水路として導かれ、生活用水、特に飲料水として、農業用水として、

 またなによりもコミニケーションの場として、幅広く利用されました。

2.水のせせらぎが、すずしく、四季の風情をあらわす。初夏の蛍、夏の清風、

 秋のモミジやハタンキョウの実が流れてくる、冬は氷河のように凍てつき、春は桜の花びらを運ぶ。

3.豊かな水量は水車を回し、ときには子供を飲みこみ。

 

神科小学校の蛍水路

http://www.avis.ne.jp/~torebi/new08.html

 1993年高速道路の関連事業として小学校の中を通る堀越堰の改修工事がされました。

PTAや学校側からは蛍水路が欲しいという話があったのですが、親水公園として整備されたのです。

月日とともにヘドロが溜まり、危険な状態で子供たちが近づけない状態になってしまいました。

創立100周年を迎えるにあたりPTA自らのボランティアによりコンクリートを割り、

石や粘土の水路をつくり、水性生物が共生できる環境を作りました。

 また1998年(?)に伊勢山横町から伊勢山簡易郵便局までの堀越堰が改修されました。

本当にこの改修で良かったのか、、、?

(改修された堰)

(改修された堰 この右先に水車があった)

 蛍は水面に覆い被る樹木や草、苔に卵を産み付けます。

孵化した幼虫はカワニナなどの貝類を食べ成長し、5月ごろ上陸します。

このとき、体が乾く前に土の中に潜らなければなりません。

土の中で蛹になるのです、そしてゲンジボタルの場合約50日後に蛍として舞いだすのです。 

 護岸がコンクリートで固められると、蛍は生育できなくなります。乾いたコンクリート上に居られないのです。

蛹になるとき、土で繭を作るのです。水辺に土がなければ蛍は育たないのです。

護岸を石積みするときは基本的にはコンクリートを使わないで,従来の工法である「空積み」という、

古来の工法がもっとも似合って、水辺環境をつくります。

 

          蛍の住める環境の図

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