伊  勢  山  の 歴  史 

故郷は凡てを愛する所なり

砥石山城下に生まれ育った思い出を朝に夕に四季を通じて眺める

城下町伊勢山 

昭和63年4月詞

中村 広明氏

大正15年3月6日生まれ

一、 朝霧り横切る砥石城

松の匂いが流れる春を

風が囁く道標べ

訪ねる人に語る人を

遺跡巡りの仲間達

歩く姿の遊歩道

ああ故郷は城下町

 

三、 お休み場所だと陽泰寺

拝む山門寺の顔を

内小屋線の歴史を語り

行くは本城を枡形戸石

米山城と古代の城が今尚昔を忍のばせる

ああ故郷は城下町

 

二、 庚申塔より村中へ

右に左に歴史の跡を

村上・武田の合戦に

血潮流した血川(なめりがわ)

七ツ井戸の物語り

栄えた標の市の跡と

ああ故郷は城下町

 (伊勢山)

城下町伊勢山地域に目をむけて考えて見よう

昔この場所・市神宮は伊勢山の中心地であった時代がある。

この場所には南北にそって長さ十二尺横幅四尺高さ2尺3寸の二段石積の上に平板石の競台ともゆうか、

そういう見方の出来る場所として作られていた。今考えても重い荷物を背負って行き交う人達の休み場所として何時も

使われており親しみのある場所でもあった。

(市神様)

時代の流れに従って市道拡張のため昭和四十年頃取毀された。

 この市神宮より二百メートル上に登ると内小屋地籍があり村上義清の配下が五百年位前より城を作る為に

住んでいたという。そのために食糧を賄う市が開かれたゆう話し。おもに真田方面との交流が盛んで、

その道筋じは上坂を通り弘美建設工事埋立地の場所(以前池田豊雄宅裏)を下におりて行き水車堰げ取入口より

神川を渡り大畑地籍横沢今朝六代以前本村村長宅前を 通り国道一四四号線に出るこの道順が上州街道の始まり

とも言はれ神川を渡るときは飛石等を利用されていたとゆう。

 横沢さん宅の話ではこの川原は御先祖が水車を経営していて荷車の通る道幅で・大畑・下原の人達が背中や荷車で

大勢が水車を利用されていたとゆう話が言い伝えられている。

横沢宅大畑七二一番地前通が下原と大畑の堺い道で国道一四四号線に繋がる。

その後3百メートル程下流の下原から神川を渉り以前中村公美宅前を通り坂口の坂を登り伊勢山会集所前に出て

中村政博宅前通りから砥石建神社の下に出て西之入より西上野の昔の上野学校跡の前を通り長島に至るこの街道が

上洲街道として一般の人達に伝えられている。

当時神川を渡る橋として川に丸太の材木を並べ幅四尺で,丸太の下を水が流れるというゆう事でところどころ

溝でも作ってあったとおもふ。

大水や洪水・雪解水がでると橋の上に被って流れたという話が伝えられている。

この橋を真田方面から馬の背中や人の背中で食糧品を運んで来ては、市が開かれていたとゆう言い伝えもあり、

この市神宮は上田市の市の発祥の地といっても過言ではないかと思ふ。

 明治一九年に始めて木造木橋が掛けられたとあるが当時の道幅から見て幅六尺位であったかと思ふ。

其の後大正昭和平成と下流に下がって川久保橋として建設され凄まじい発展を遂げている。

市が開かれた市神宮の競台の下に並んで七ッ井戸が掘られている。

これは合戦に供えて水の確保だと思う。内小屋の中ほどには空堀が掘られ土手の高さは四メートルから七メートル

あり空堀の全長約三十六メートル。

(空堀)

この空堀の中からは十キロから三十キロ位の川原石が軽自動車に一台分位は出たと思う。

今でも数十個位は土の中に残っている。

空堀をはさんで手前の畑には縦切十五メートルその先端より中腹に掛けて土留め石が並んで積んであったという、

この畑には傘松といって直径一メートル以上の路地松があった。今残っていると市の重要文化財として又屋敷あ

ととして惜しまれるが、この笠松は、昭和二十三年二月伐採され、伐採に来た本原竹室の親父さんが焚き火を囲みな

がらの話では、こんな素晴らしい松はこの界隈には無い素晴らし松で路地松として上の松の枝が四ヶ所ほど切り

刻まれた後があり切るにも後髪がひかれる思いだといって残念がっていた思いがある。

内小屋地籍の耕地面積は約二千五〇〇坪その中で屋敷跡と呼ばれていた所がこの場所二四七六−番地を含めもう

一ヶ所石黒さん宅地二四六〇番地で明治生まれの人は上(ワゼ)の屋敷上のと呼んでいた場所で城山の設計に当たった

中心人物が住んでいたのではないかと巷の声もあった。

おもに,この辺 稲荷神社手前までの畑は陽泰寺の敷地に含まれるような土地でもあった。

村上・武田の合戦が一ヶ月も綴いたというなかで血の池、血の川といえ本当の合戦があったかの思いがする。

空堀から斜め上に稲荷神社があり石鳥居の見張台の高さ八十メートルの絶壁から

下る黄金の滝は素晴らしい眺めで春三月十日頃より四月中旬まで咲き乱れ人々を楽しませたという

この例祭は三月十日にかけての祭りで九日の夜るは一晩中真田町本原方面に向って神社境内からの太鼓の音は四方に

響き渉り他村からの参拝客も大勢にぎやかであった。

今思い出せば伊勢山区を挙げての祭りでもあった。

祭りの中心的役割は二十歳から十八歳の男子で女装姿捩り鉢巻・法被姿・皆が分担してその忍についた。

お練は大八車で舟方に竹で大きく回し四本柱を大八車に取付て低い二階を作り蚕筵で周囲を回し飾り付けた車に

前もって作ってあった、いろ取りどりのまいだまを数俵分道の両側の見物人に女装姿の若い衆が小さなぼてにいれた、

まいだまを配り歩いた、お練りの出発点は国道一四四号線押しボタン信号機前河合宅より陽泰寺山門前まで

演芸は青年会が中心になって山門を舞台に作って行ない、子供相撲は稲荷神社前の広場で行なったが相撲を盛り上げる、

ために三月十日という寒さの中をお神酒を呑んで褌一本でお練の前を練り歩く勢いの人もいた。

祭りの経費は一般寄附及得し寄附により取り行なわれ来たが、昭和十八年を最後に、

大東亜戰争とゆう戰時の中で中止され今日に至っている思えば懐かしい思い出にのこる祭りであった。

稲荷神社前の畑は三百坪位い土の中から川原石や幾つかの炉のあとが見つかっている。

一説によると長さ十二間幅四間の倉があったではないかとも謂れ、ひとりの地主さんの話によると、

土の中から焼けた麦類や沢山の石が並んで出て来たり隅石らしい石も出たとゆう。

この辺一帯から馬の金靴が固って出て来たり古銭も出た事があった。

戰に敗れた村上勢が焼はらって逃げたと思われる今だに謎の部分が残されている。

昭和二十九年伊勢山上水道浄水池の跡からは、かますにはいった、麦が二つほど掘り出されたが、

風にあたりすぐに風化されてしまったとゆう。

稲荷神社参道は第一鳥居として木炭赤塗りの鳥居があり昭和の始めに傷が激しく処分された鳥居の立っていた。

石台は今も健在で昔を忍ばせている。

(稲荷神社)

第二鳥居は石で出来ており今尚健在である。この稲荷神社は天文十二年丙午年二月吉日に村上源三代が健えられ

新らしく一度立替えられたとの事。

上田小県歴史年表によると村上氏の代神に成っている、幟旗は、正一位稲荷大明神とゆう。

村上義清・真田幸隆とゆう武将によって城下町として生まれて榮て来たが、城の攻勢は市神宮を中心にした、

七ツ井戸内小屋が、この山城の心臓部であるとゆう説もあった。

当時東上野の鐘掛けの松(現在は三代目である)武田信玄砥石攻めの時に鐘掛け松より気勢をあげて一揆に

城の心臓部を攻めたであろう。

水や食糧の確保を断つ事が戰の鉄則であるとゆう話がある。

現に砥石城下の心臓部にそってナメリ血の川として昔から伝えられ合戰の跡が伺いられる。

昔から四百年も綴いた、本城が枡形に換わるなんてどういう事か内小屋から見た、本城は真っすぐに最短距離だ、

ぼうず山になれば、すぐ近くに見える心臓部との連携の取れる随一の山だ飛んだり跳たりしてここで育った人でないと

解らない面もある。翌二十年五月真田幸隆はこの城を急襲して陥たため義清は大きな痛手をうけ以後幸隆の利用する

ところとなった。

砥石城は村上・真田両氏が戰略上重要視し又重要な役目を果たした山城である。

以上について昔からの話や感ずるままに綴りましたがこの鍵を握るものとして、市神宮,七ツ井戸の年代当について

鑑定の必要があると思います。市神宮の石碑は伊勢山では最も古い方だと謂れている稲荷神社が

天文十二年(一五四三)今の石鳥居を見ても解るが市神宮の石碑も古さがしみでている、

七ツ井戸の場所については陽泰寺の入口に一ツあり下は、いのきやさんの畑の隅に、

この区間に七ツ井戸が掘られていた、上州街道筋から上に設けられ合戰の跡が昔から伝えられている。

昭和十八年十一月清水利雄先生と御一緒させてもらい調香のお手伝いをした時も内小屋から見る本城空掘の上の畑、

これだけの堀を作る意味はよほど重要な何かがあった、でわないかと種々話された、この城山の鍵を握る、

水と食糧この場所が何処にあったか地元の人で調奇し考えてほしいとも調れた。

枡形とは山の峰を掘り据えて枡の用に作るから枡形と当時は教えられていた。

城の周辺には耕地面積約四千坪位い、あったと思ふ。おもに桑園として養蚕業が盛んに行なわれて、

城の畑け(じょうのはたけ)とゆって昭和二十九年頃まで毎年親父と弁当物で一升ビンに水を入れての桑切った跡の

かぶつ直しに行ったが、二人で一升ビンの水を呑んで夕方早く家に帰ってお茶でも呑まずわいというほど咽かかわく。

本城と枡形の中腹には水の手とゆう所が有り絞り水が出る場所が有るが村上勢の人達を賄ふ水には程とうい。

出先の呑み水として用いられたのであろうが年間を通して生活の出来る水量ではない。

長年に渡って月々の統計から見ても一ヶ月以上日照りが続けば水は枯れてしまう状態になる水のない城山が

包囲されれば戦わずして落ちる、これを考えても村上義清の権力を現す最後の砦であったではなかろうか。

昭和二十五年頃村上義清の軍資金が舛形の周囲に隠されているというロマンを求め歩き回る人もいた。

城の石積み跡と書いてある石積みも地主が大正四年に松山を切り桑畑けに開墾した最に散らかって出来た、

石を寄積したものである。(上田市で立てた看板)

軍資金の宝を探す人によって石積みが崩されていて又積み替えしたこともあった、空想的な話が飛び交わす人達もいた。

神川の河原石が城山周辺から峰にかけて相当量背負い上げられ、内小屋大手工十一曲がり十二曲がりと

長い道中を背負い上げる様子は今の人達には真似ることが出来ない未だに謎めいた物だが七段畑の南北斜め外廻りには

石が五ヶ位づつ四ケ所ほど置くように埋めたってある、城を築き上げた。

村上勢の人々の苦労した姿が目に見えるようだ。そんな事を考えながら城を一歩一歩廻り時代の流れの中に

多くの人たちに伝えられて来た話として合戦には敗れたとはいえ村上勢のその名は城と供に語り伝えられていくであろう。

この辺一帯は薪山として十五年から二十年位に一回薪木を切り燃料にしていた。

区有地本城も誰々以下◯◯名といったように薪木の入札が行われて来た。

天正十年(一五八二)三月武田代が滅び幸隆の子昌幸はこの戸石城を取り立てて本拠として

天正十一年四月小県郡全域支配のため上田城築いてここに移りその後も戸石城は上田城外護の要害として重要視し

慶長五年(一六◯◯)九月徳川秀忠が上田城を攻撃した際、信幸はじめ家臣を籠らせて秀忠軍を掌制したと

真武内伝筆にも記している。砥石健城神社明治三年の神社名以前宝永の差出帳では十二社諏訪大明神である。

例祭は本祭といって九月三十日の夜から翌日の祭で二反三反五反と幟りが立ち並び三十日夜は宮番によるお祭を

知らせる呼び太鼓がドンドンドンと鳴り響き亘り十月一日午後一時集会場より神主、区長さんを先頭に宮番が

三方にお供物を入れて行列を作って砥石神社前まで行き用意されてあった御清めの水で手を洗い神社へ入る。

神主の厳なお祭りのお祈りが始まる。子供の頃よく参列して紅白の菓子を貰う。

この頃は神仏に対する教育が徹底されていて今の時代と全く違う御時世であった。

子供も親も年に一度の祭とあって心から祭を楽しむ風習があり神社境内には戸板店も並んで参拝者でにぎやかなお祭に

成った。

 砥石神社には庭面と呼ぶ畑があった、その地名は大字上野字上野原一四五一番この番地が砥石神社の庭面で

明治初期に国からの払い下げをうけた二十数名によって開拓され耕作の権利をうる、

この番地筆数一四五一番ノ五八に分筆とある。

手不足になり権利売買も行われていた。人の話や推定によると一方拝位いの面積であったではなかろうか。

鐘掛の松の下にある馬頭観音様は平林喜作さんが発起人で馬に怪我のないように馬小屋前土手に祭っていたものを

馬主さん六七名によって現在地に祭られたという話。

年に一度祭りをしてお互い馬の無事を祈ったという話を聞いている。

この辺は松林があったことも伺っている。東上野の松は根元から切っても芽が出てくると誰かがいった。

そんな笑い話もある。

伊勢山東上野道路に登って始めての場所富士見台四つ辻の交差点から沢入に掛けて全長一三◯◯メートル

横幅六メートル位から十メートル位で斜め帯状の状態。この両側が砥石神社の庭面になっている。

両方から開拓して畑にならない低地の部分が残り水田用の芝取場になっていた。

両側の畑からは横に堰が掘られていて芝取場へ水が流れるような状態でもあった。

ここが鉄砲馬場であり草競馬場でもあった。毎年優勝候補の筆頭は何も小田中源五郎さんの馬だと内の母は話す。

小田中さんの家の庭には樽酒が用意され一等賞の祝賀の宴に大勢の人たちが酔い楽しむ姿を子供の頃から見た母親から

の思い出話し。

 入賞の賞品は弓矢で、束になってたくさんあったが一本残して処分されたとの事。

今は富士見台の園地の中に永遠の語り草となって伝えられるであろう。

元治二年から明治初期には神を祭る信仰心が高く多くの人々が代神様を祭ったという話、

護身体もなく山々に眠っている代神様は沢山ある。

砥石神社右上には、伊勢宮といって二間三尺に九尺の芽ぶきの屋根の建物があった。

地形的にも砥石城主の館跡に絶好の地点でもある。ここにて上田城を設計し上田城下町の構想をしていた昌幸が

見えるような気がする。

この地点が村上、武田の戦場として多くの武将を矢った跡でありこの上に石尊社が祭られ例祭が

八月十九日夜行われ法螺の音は静かな夜空に響き渡り御霊よ安らかに眠ってくれと呼び掛けているような気がした。

砥石神社境内の庭には屋台の店が並び青年団の人達が山口から小リンゴを買い入れてきて戸板店を開いて売り運営資金

にして通り名はリンゴ祭りとも呼ばれ大勢の参拝者でにぎわった。

この祭りも昭和二十年終戦と共に消えていきその面影だけが蘇る。

長野県指定文化財報告によると天正十年十月三日昌幸からその将湯本三御衛門所属の上州地士筆に充てた

安堵状年末拘未候知行屋敷以下、如前々可出廻候猶重思之事者、

羽尾政之上何こも相当に可出置候条伊勢山へ令参上可致訴訟者世云々とあるに依って明らかである。

文中の伊勢山とは砥石城のことである。

 伊勢宮、伊勢山、この辺の砥石山との関連で、できた呼び名ではなかろうか。

昌幸は、この砥石城を取り立てて本拠としたとあるが、ここに砥石城城下町として庚申塔より

村中之右に左に四間−五間位に区割りして左右の堰はきちんと揃えて作ったと聞いているが、

その面影が上州街道周辺から上の方には今でも残っている。

庚申塔並びに二十三夜塔の場所には関所が設けられ通行人や不審な人物を調べたという

正に城下町ならではの光景である。

庚申塔の台石は西上野雨池の畑から庚申塔石碑は東上野丸山畑から何れも青竹を並べてその上を引っ張って

来たという話がある余り素晴らしい石なので上田の殿様が水石に欲しいと謂れ、

上の頭の角を少し傷つけましたとの話し。何つまでも変わり無く人々に親しまれて行くでしょう。

二十三夜塔とは二十三夜祭といって何も娯楽の無かった時代に月々の二十三日の夜、

思い会いのグループが地域をあげて遊び娯しむ日を作った。句論色々の情報の交換の場でもあったようだ。

昔の年寄りの話では三代四代かかって一本の道が開くと謂われた。

上坂時代、坂口時代何れも上州街道時代を経て考えれば庚申塔は寛政十二年(一八◯◯)横町時代に成るまでに

二五◯年以上経っている。

これからは伸々新しい道が開き新上州街道として幾つかの道が開発され発展されて行く姿が見えられる。

虚空蔵山宇賀神社は砥石神社から見て南々東の位置で寛文九年(一六六九)建築された様子

間口五間奥行二間三尺の芽ぶきの屋根お宮の中心には石地蔵の御本尊祭られていた。

呼び名は虚空蔵さんといって例祭は四月十三日の夜から十四日の祭で戸坂店も並んで

子供達は祭を楽しみに待っていた。

 終戦後間もなくお宮の傷みが激しく神社合弁という意味で砥石神社上の右尊社と並んで祭られている。

明治の始め、この地方が大旱魃となり御本尊の石地蔵を神川にかついで運び雨乞いをした所一天俄に曇り引き返すに

間に合わず、大雨降りとなったとの事。それから毎日毎日の雨降りが綴き伝染病が大流行して今の集会場、

以前は釈迦堂薬師堂として作られていたが隔離病舎となって大勢の伝染病患者が収容され死亡者も多数でて

お墓のない人の為に集会場裏土手の上に祭られたという話。今も墓石が眠っている。

当時の伊勢山にとって最大の事件であったという。

 大正十五年虎年生まれ、子供心からを振り返り一番心に残った思い出として水の尊さであったように思ふ。

庚申塔、二十三夜より上に向かって右側が堰といい左側を川と呼んでいた。城山から流れ出る水を塞き止めて使い場と

いって鉄釜や鉄鍋を洗い生活の場として凡ての事に利用した。こうした使い場が二十ケ所前後あったと思う。

上下の家の境界線は堰の中心に屋根から雨水が落ちる所が境界線といわれた。

水は三尺流れれば清められるという該が当時はあり尊い水であった、

井戸は地形上沢山あったが呑水はにない桶等で天秤棒で坂口から堀越堰げに汲みに行く人達、

泉園前の堀越堰に汲みに行く人達、今、考えてみても堀越堰を中心にした日常生活でもあった。

川の水は揉れて流れてくるからお茶が美味しいといって井戸水より喜ばれた。

当時は洗剤もなく下水を流す人もいない比較的綺麗な水であった。

坂口の坂を天秤棒で毎日朝早く水を担ぎ上げて水瓶に入れ明日につなぐ生活で昔の人は苦労したものだ。

漸く昭和二十九年十月伊勢山上水道が新設と共に今までの苦労してきた生活が消えて行き一つ一つの文化が

積み重なって今日の生活があり今後の生活もある。

思えば昭和六十一年七月九日樋之口地区共同施工委員会総会に於て換地を担当する事に成り換地委員の皆さん並びに

委員長はじめ各委員の皆さん市の担当者の方々農協の担当職員の方々のご協力をえまして色々な経過と地権者の皆さん

の大切な財産である土地について心の痛む思いがした。

地権関係者二十五名

施工面積四四.七九八.九一F

換地面積三六.◯六二.三F

減歩率平均十二%

施行に当たり委員長赤岡隆義氏より基盤整備の中に公民館用地を確保したという申し出があり問題点が

種々ありましたが、地権者の御理解をえまして用地の確保ができました。

公民館用地合計総面積一.六五四.一五F

平成六年度特定地域農業振興総合対策事業として、伊勢山生活改善センターが新築落成する。

 

 平成八年上信越自動車道が開通されこうした過程を振り返り今日まで周囲一里に広がる戸数五百を超える

大きな伊勢山に発展され工場有地住宅団地当う上沖田圃を始め畑の面積も段々と減り昔の面影が消えて行く姿を

見ながら寂しいような複雑な思いがする。

十年ひと昔というが近頃は三年、五年がひと昔のようだ御伽噺の話しを思い出しながら古希を迎え

今日まで暮らした来た中の一部の足跡を振り返りながら

 

平成八年 吉日

中村 広明


堀越堰について

 昔、先人である我々の祖先が作り上げた堰であり樋之沢の、故赤羽国武先生の説によると、吉田堰は長堤灯を竹竿の

先に付けて横に並べて夜測量したと伝えられている。

 堀越堰の開通は(村誌)延宝七年説一六七八年余りから三百二二年前、五年説もあるが少なくとも三年ぐらいは

掛かったであろうという話。当時孟宗竹をつなぎ水を通した説や、水を通しながら落差をみて測量されたとも伝えられ、

隊道トンネル全長は一四◯米前後であり、トンネル堀は行灯やランプの明かりで主に、ノミ堀という岩石を砕きながら

掘る先人の苦労が目に見えるような気がする。

 

 このトンネル堀は隊道の中腹に穴をあけて、そこから上下に進む堀かたと、下口から掘る人、上から掘る人、

何れも分散して掘ったのではないかという貴重な話が残っている。参考としたいものです。

生前赤羽国武先生の先人に対する思いやりの心を浮かべながら話された遺志として伝えたい。

昭和四十六年新しく隊道トンネルが完成され水門取り入れ口より秋和、上塩尻に至る。

全堰の改修改良工事も一応整備されつつもあり今後に残す課題としては堀越という地形常自然との戦い、

明日のことは神のみぞしる

明治三年二月吉日、水神社が初めて祭られ以後毎年、関係の委員さんにより掘越の安全な運営を祈願するために、

二月十一日に水神祭が取り行われる。

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