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1. 樋之口 |
ここは樋之口と呼ばれる小字地積です。樋とは水を導く管又は溝を意味し、丸太等を利用してくり抜いたり溝を掘って水を流しました。 |
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2. 中央水道跡 |
昭和28年5月に完成。樋之沢、長嶋、金井、学校、農協などに利用されました。 |
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古くは釈迦堂、薬師堂を公会堂として利用されていました。樋之沢ではお堂がそのまま公会堂として残っています。今でもお年寄りによりお祭りされています。 | |
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棺桶を石の上に置き、ぐるぐる左回りに回って死者と最後のお別れをした所です。 | |
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真田幸村が観音様の前の道を四つ白の馬に乗って通ると、必ず馬が倒れたといわれています。 | |
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7. 高堰 |
堀越堰から分水し、富士見台の下をぐるりと回って新屋の北部まで導かれています。かつては堀越から分水せず、東上野よりのしぼり水を集めた堰ともいわれています。 |
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神科の特色ある生産物、神谷瓦店では昭和43年頃まで生産されていました。門や土蔵に古い瓦が残されています。 | |
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五中の北西にあり、天井石を叩くとカンカンと音がすることからカンカン塚といわれ伊勢山発祥の地とされています。 | |
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10. 番山 |
神科田圃の見張り台として、水田や労働者の見張りをしていたようです。円錐形のきれいな山で古墳ではないかとお年寄りは云います。 |
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富士見台北側にあります。武田信玄が戸石城を攻めた際、この近くに本陣を構え、松の木に鐘を掛け進退の合図をしたと伝えられています。現在の松の木は3代目に当たります。平成元年2代目がマツクイムシに侵され枯れ、平成4年にこの切り株の隣に植えられました。尚、3代目を植えるにあたり伊勢山の老人会や地元の自治会役員さんの熱心なご努力がありました。また、この付近には「鉄砲馬場」や「のち産いけ」がありましたが、富士見台団地の造成でなくなりました。尚、富士見台は「おかいこ山」と呼ばれ、養蚕の里のシンボルです。又、「おかいこ山」の頭の部分は「伊勢崎の砦」と呼ばれ砥石城の重要な支城でした。 | |
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12. 養蚕の村を象徴する気抜きのある屋並 写真 |
昔ながらの家を出来るだけ建て替えず、屋根を葺き替えて古い建築様式を残しているのが見受けられます。 |
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13. 伊勢山の回り場 |
前に同じ |
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14. トンネルと伊勢山駅の跡 写真 |
昭和2年伊勢山まで電車が開通、翌年真田、傍陽まで開通。昭和47年廃止。 |
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15. 水車の水路の分水跡 |
堰板により、水の流れを操作した。 |
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神川より水を引き神科田圃を潤した堰で開削の時期はわかっていないようです。神科田圃にはそれからの堰で水が供給されています。そのため、塩田平のような大きな溜め池はつくられませんでした。この堰にはヤマトシジミが生息しております。こんな貴重な自然を大切にした河川改修を願います。神科小学校を通る堀越堰が親水(しんすい)公園として整備されました。その後1998年横町から郵便局までの間が改修され1993年神科小学校PTAnの皆さんにより、螢の育つ水路の作り直されました。整備されたあと水について、みんなで考えましょう。 | |
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(元神科郵便局)明治28年に出来た神科最初の洋風デザイン、平成8年8月8日に取り壊されました。 | |
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18. 伊勢山に残された最後の水車 写真 |
かつて伊勢山には十の水車があったそうです。1998年改修にて、水車はなくなりました。 |
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伊勢山は縦町と横町とによって構成されています。横町は「よこちょう」とも呼ばれています。 | |
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20. 伊勢山交差点の庚申塔 写真 |
東信一ともいわれる大きな庚申塔。伊勢山のシンボルです。昔々神川の河原に素晴らしい水石がありました。その水石を上田のお城に持って来いと殿様に言われたら大変な事になってしまうということで、夜中に石を割ってしまったそうです。その後にその石を庚申塔として建てられたそうです。 |
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昭和8年に伊勢山青年会により建立されました。 | |
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(上野学校)神科小学校の前身で上野村、住吉村の住民が各区に分散する学校の方が不利であることを考えて、明治8年新築された。 | |
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23. 長島坂と茶屋 |
長島坂の馬頭観音の辺りにあったらしい。 |
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降水量の少ないこの地には小さな池が幾つも有りましたが、ただ一つ残された池です。おたまじゃくしがたくさんいます。 砥石の戦いの時、武田軍はこれらの池の水をおさえて、村上軍を追いつめたと伝わっています。 | |
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神科小学校の新築に際し、校舎が払い下げられ、現在でも土蔵として残っております。その鬼瓦に「愛日」と刻まれている。平林宅と古金宅にこの建物が残っており、明治32年7月31日付けの金315円50銭の領収書が保存されています。 | |
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石とん様、伊勢宮 | |
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戸石城の城下町で最も重要な通りで、往時情緒をしのばせています。 | |
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区の中に山がある地形は珍しいと言われています。その山には50トンとも思われる巨石があり、その上には柱を立てたような穴が刻まれてており、石の北側には石仏(道祖神)が刻まれています。昔の子供たちの格好の遊び場でありました。 | |
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「飯綱城跡」に明治23年に新設されました。石垣はその時築かれたらしい。蔵は昔陽泰寺の下にあったものを移設したといわれ、鬼瓦に大黒様と恵比寿様が祭られています。恵比寿様の持つ大福帳に安政三歳と刻まれているそうです。 | |
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30. 旧上州街道 |
長島より西上野を経て庚申塔を左折して横町を通り公民館前を神川を渡り、下原へと通じていました。元中村公美さん宅の直前は下原に通じていた道です。その川沿いに橋を支えていた石積みが残っています。 |
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31. 血の川(なめりがわ) |
戸石の戦いのすさまじさから名付けられたと思われます。 |
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昔この辺りの村が中心でここで市が開かれていました。 | |
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33. 七つ井戸 |
市神様を中心に七つの井戸があったが、現在埋まってしまったり、蓋がかぶせられてしまいました。その一つに市神様の下方コンクリートの蓋がかけられています。(陽泰寺入り口、お蔵池、市神、いのきや裏、公会堂横(神元宅裏)お宮の下(中山宅横)旧中村徳雄宅竹薮、赤岡喜延宅、中村広明宅裏) |
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34. 産種「小石丸」の生まれし家 写真 |
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35. お蔵池跡 |
旧公会堂の蔵が昔この近くにあった。七つの井戸の一つもここにあると言われています。 |
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36. 陽泰寺 |
海野一族の縁の寺で山門の上に洲浜の瓦が使われています。山門から鐘楼門まで園路階段は屈曲した趣きを感じさせます。山号は「望富士」と称し富士山を望めることから名付けられました。 |
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37. 根上がり松 |
陽泰寺名物赤松の根上がり松です。この付近一帯は「マツタケ山」です。 |
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38. 黄金の滝 |
陽泰寺の東側は神川の侵食により絶壁になっています。ここには野生の「オウバイ」の群生があり、見事な黄金の滝となる。また、岩の中には魚や葉っぱの化石があります。 |
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小屋とはお城のことと言われます。この付近にはかつて武士の住家があったようです。昭和28年頃上水道工事の際に「かます」に入った麦の兵糧米や古銭、火を炊いた炉等がでてきたそうです。 | |
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40. 伊勢山浄水場 |
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戸石城の大手口です。右手の林道を進むと畑山へ通じ、金剛寺峠と合流して松代へと通じます。佐久間象山の通った道であり、象山道ともいわれます。 | |
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43. 古い上州街道 |
新しく堀越よりお寺までの道路が新設されはじめました。ここは「上坂」と呼ばれ、古い上州街道ではないかと云われています。 |
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44. ダイナポンプ跡 |
堀越より落ちる水を利用して内小屋まで水を上げました。ダーン、ダーンと堀越にこだまして、本原方面からずいぶん苦情が出たそうです。また、ポンプの振動でポンプを固定するネジが切れて、オニザルいっぱいになったそうです。 |
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45. 玄能石、おんば金、魚の化石 |
2500万年前海であった証拠です。黒い岩は黒色頁岩といい、昔の人は砥石に利用したらしい。鯨の化石も発見されており、水神様より奥は海底火山の盛んな時代で、そのあとだんだんとおだやかな深い海になり、だんだんと海が浅くなり、土地が隆起して今の山岳の信州となりました。 |
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46. 旧橋桁跡 |
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47. 清水 |
神川に沿って井戸があります。 |
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48. スベリット |
黒色頁岩が水に侵食され「とよ」状に削られている。昔の子供の格好の遊び場だった。危険なので子供だけで遊ばないでください。 |
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昭和63年頃堀越堰改修の際出土したもの。立山から転がってきたものらしい。 | |
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50. 川久保橋 |
現在の橋は昭和58年完成。その前の橋はすぐ上流に橋脚が残っており、明治34年頃木の橋が掛けられたそうだす。それにより新しい沿道道巾約4.5メートルに整備され、商店として栄えました。銭湯や食堂もあったそうです。 |
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51. 新屋堰取り入れ口 |
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52. 掘越と高堰の分水ケ所 |
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53. 麹もろ跡 |
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