2000年11月7日up

11月3日は 信州砥石米山城祭りの日

1550年砥石の戦いは武田信玄が村上義清の支城の砥石城を攻め、一ヶ月に及ぶ水攻めなどの攻防戦により、

武田信玄不覚の「砥石崩れ」となりました。砥石城は要害堅個な城砦として「白米伝説」を後世に伝えました。

砥石城は本城、枡形城、戸石城、米山城(こめやま)の砦で構成される、

規模の大きな山城として長野県指定史跡です。

 

 

白米伝説

昔々、村上義清が武田信玄に水攻めにあったとき、戸石の水が無くなってしまい、落城寸前に追い込まれました。

そのとき、義清は部下に米倉から米を桶に入れて持ってこさせ、馬の背を洗うよう命じました。

これを見ていた信玄の部下は「馬を洗うほど水があるとはとんでもねえ城だ」と後ずさりをはじめました。

この時とばかり義清は馬にまたがり一気に攻めおろしました。

逃げ遅れた武田軍は横田備中守ほか千数百人が討死したそうです。

これが「信玄の戸石崩れ」と語り継がれた、信玄不覚の戦いでした。翌年真田幸隆により

砥石城はあっけなく落城され、米倉が燃え今でも焼き米が米山城より産すると伝わります。

村上義清は越後に落ち延び、やがて川中島の戦いへと進みます。

 

砥石の城 

 

別字で「戸石」書かれます。かつては二つの書き方があったようです。

「砥石」とは砥石の取れる山から由来があったようです。2500万年ほど昔、この地が海だったころ、

堆積した粘土や火山灰による、黒色頁岩や緑色凝灰岩からなっております。

「戸石」とは戸板のように険しい山という意味があるようです。山城は本来裸山であったようです。

私たちの地域では雨が降るたびに、赤い水が流れ土砂が流れ、それは大変な復旧であったようです。

今でも「血の川」(なめりがわ)という名が残っています。戦いのすさまじさを今尚伝えます。

近世になり、裸山に赤松が植えられたり、石垣の土止め砂防工事が施され、

現在では赤松の美しい「松茸山」と成っております。

 

 

海野氏と真田氏

海野氏は清和天皇の末裔とされ、湯の丸山南斜面の豪族です。古くから砥石の城を治めていたようです。

砥石城の麓には陽泰寺があり。その山門の瓦には海野氏の家紋「州浜」模様が刻まれております。

海野氏は村上武田連合軍に敗れ滅びていきます。生き残った海野氏の末裔に真田氏がおりました。

真田氏は密かに「砥石の城」の取戻しを夢見ていたのです。激乱の時代の中で、武田氏に命超えし、

その裏腹の無きことを「六紋銭」の家紋に変え、武田24将として活躍しました。

1551年砥石城を取戻し、上田城築城えと進みます。その後も幾度も実戦に活躍した砥石の城でした。

 

 

 

砥石米山(といしこめやま)城祭

信州上田菅平インター周辺は、いにしえからの遺跡が集積する、古代からのロマンの宝庫です。

縦穴住居や古墳、条理遺構、、、修験者の墓碑群、、、  

前神科村と呼ばれ、神科商工振興会が地域の祭りとして育ててきました。

近年になり神科自治会連合会、神科地域振興協議会が共催するようになり。地域の祭りとして育まれてきました。

2000年11月3日の祭りは通産17回目に当たり、地域づくりの祭りとして発展してきました。

 

 

宮城県で伊達家&真田家を探索する功明さんのHP

http://www2u.biglobe.ne.jp/~kamomax/

 


 

信州上田菅平インターこぼれ話し

 

 

 

 しなのき通り

 上田菅平インターが神科地区に設置されることが発表になり、にわかに神科のまちづくりが、

話題になり始めたのが15年ほど前でしょうか。そんなころどんな街路樹がすてきなのだろうと、

神科に似合う樹木を探そうと、アンケート調査をしました。

まずは上田市周辺にある街路樹の種類をピックアップ、その他街路樹としては無いが、

上田菅平インターにふさわしい樹木を付け加え。調査をしました。

結果は「ソメイヨシノ」「ハナミズキ」「ケヤキ」「シダレヤナギ」「シナノキ」

「ウメ」「プラタナス」「イチョウ」「ハンテンボク」「トチノキ」、、、

と二十数種類の樹木から圧倒的多数は「ソメイヨシノ」でした。

しかし日本全国「桜、サクラ、サクラ」では地域色がないんじゃないの?

 続く人気の「ハナミズキ」はソメイヨシノをアメリカに贈った返礼に、

アメリカから贈られて来たと聞いております。こんなハナミズキが」

上田菅平インターにふさわしい街路樹でいいはずがありません。ひときわ光ったのが「シナノキ」でした。

神科小学校の校章はシナノキの葉と花でデザインされているのです。

そして「科」は信濃の国の語源になった樹木とも云われ、古くは布に、紐に重宝されていたようです。

アイヌ語で「結ぶ」の意味があります。

新しい時代の幕開けに、地域色あるまちを目指して、あちこちに仕掛けをしてまいりました。

その結果「神科シナノキ通り」が実現できたのです。

(1998年1月東信ジャーナル掲載)

 

 やがて冬期オリンピック長野大会に会わせ高速道路が開通し、シナノキ通りにアイスキャンドルを並べようと、

地元長島の自治会が中心に500個の牛乳パックを集め、夜間回りだけ凍結させ、

このとき芯まで氷らせないこと、上下に穴をあけ、芯の水を抜く、その中にキャンドルを灯す。

しびれるように寒い、オリンピック前夜祭の夜でした。(1998年1月6日)

 

  

  大山桜

 

会社の隣を高速道路の工事が進みます。

 上田菅平インターのと間に丘が残ります。ここは上田城の家老「荒木玄蕃」さんのお墓があり、

玄蕃山と呼ばれる地域のシンボルの丘です。ここが玄蕃山公園として整備されていきます。

 地域の小さな造園屋が提案するのですが、中々受け入れてもらえません。

ある日東京のコンサルに基本設計を委託した話を聞き、いてもたってもいられず、

東京に飛んでいきました。そして提案させていただく機会を得て、その提案に育みました。

現状道路の伏せ変え、斜面を利用したマレットゴルフ、北斜面を利用したミニスキー場、、、

林檎園や梅園を生かし、地形と自然雑木林を基調に提案しました。

しかし、実施された物は基本設計とは似ても似つかぬものになってしまいました

 ???。

 当提案が認められたのは、道路の伏せ変えだけでした。

間もなく地元の有志が南斜面をマレットゴルフとして整備をはじめました。

 

(1998年2月27日東信ジャーナル掲載)

高速道路の植栽工事は孫受けと言う形で関わらせていただきました。

当時地元の対策委員さんから、植栽される樹木の種類をチェックしてくれと言われ。

この地に似合う植物、似合わない植物と言うぐわいに、提案したのですが、何一つ変更がありませんでした。

日本一雨の少ないこの地で、しかも大規模に造成された植栽基盤に、地域の提案を無視して施工され、

樹木が充分に育つはずがありません。

 この工事で面白い発見ができました。それは高木植栽の中心が「大山桜」であったことです。

上田菅平インターは真田氏との関わりの深いところがあります。

実は真田幸村さんは「赤備え」赤い花をこよなく愛したそうです。

九度山の真田庵は赤いボタンでまつられ、真田町のお屋敷は赤いツツジで覆われています。

 

ここ玄蕃山公園に赤いオオヤマザクラで一杯にし、日本一のオオヤマザクラの名所にしたらどうだろう!!! 

この思いはいち早く地域に浸透し、上田ライオンズクラブが

10年で3500本のサクラを植えはじめたのが1997年でした。

(1998年5月東信ジャーナル掲載)


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