古い「日々雑録(ひびざつろく)」                   にえきらない思考の断片

2月17日
 今日は、ひさびさにもくもくと調べる姿があった。自発的に質問をする姿があった。そして、何よりそれらの質問には鋭さや深さ、本質的な部分を突いてくるものがあった。
 1年生の歴史の授業。期末テストを22日に控えながらもテスト範囲は未だ終わらず。しかし、今日のこどもたちの姿から改めて「テスト範囲があるから、アリバイ作りのためにも教科書を居眠り容認でこなす」、という授業観のお粗末さと非創造性を思った。むろん、私は講義式の授業が意味がないとか不必要だと考えているのではない。こういう授業だって、位置付け方が問題なのであって、重要な授業形態であることは論をまたない。しかし、「こればかりでいい」という結論にはならない、ということをいいたいだけである。

 「“神風(台風)”が吹かなくても、日本はモンゴル軍に占領されなかった?」

この問題をめぐって、教室をYes派・No派の半分に区切ってこどもたちを着席させ、20分間くらいの友人との調べ時間・相談時間をとり、わずかではあったが残りの25分くらいディベート的な話し合い活動を行った。    

 「元軍は圧倒的な軍事力を持っていたし、人数も多いから日本は占領されていた」(Yくん)
 「元軍は進んだ兵器を持っていた―てつはうとか、毒矢とか。だから、日本は占領されたと思う」(Yさん)
 
 「元軍は得意な馬を運べなかったから、きっと陸地で戦うのに苦労したはず。だから日本は大丈夫」(Kくん)
 「元は海の戦いは苦手。だから日本が有利」(Hくん)
 「石垣とかを作って防ぐから大丈夫」(Kさん)

 調べ学習の時間を充分に取れなかったため満足のいく話し合いが展開できたとはいい難い。それは、上のこどもたちの発言を見れば一目瞭然のことである。また、私自身が、そのせいもあって余計な口出し・手出しをし過ぎたのも否めない。議論が不活性であったことの原因には、このことも多いに関係してよう。
 しかし、授業後の学習カードへの書き込みには、目を見張るような卓見がいくつも記されていた。むろん、これらの卓見は私が事前に用意した「秘密プリント」を、何人かのこどもに渡したことが作用している。だが驚くべきは、その資料は決して中学校1年生には親切な作りのプリントではなかったにもかかわらず、教科書・資料集のちょっとした記述とこの不親切なプリント資料の暗示していることを連関させて、ひとつの主張を見事に展開していることである。

 「そのころ元は高麗からたくさん兵とかをとってけっこう反感をかっていたので、きっと元は日本に負けてしまったと思います。 それに、文永の役では日本のほうが劣っていたのに、元は日本をおそれて海中でうろうろしていたそうです。
 元はおくびょうだったからand高麗とかベトナムは元をよくは思っていなかったので、戦いのとき高麗からとられた兵はあまり 真剣に戦わなかったのでは?と考えました」(Aさん)
 
 「私の考えは、元は高麗の強い抵抗を従えほろぼし、全国を統一したんだから、もちろんそれに反抗する人がいただろうし、実際 に、高麗は日本の協力を求めていたから、元こうに不満を持つ人がいたと思う。
 あとは、舟の技術が進んでいなかったから、船からのこうげきではだめだと思う」(Mさん)

 「テスト終わったら、この続きやろう!ね、田中先生!」

 「テスト近いから、この話し合いの続きどうする?」―この問いかけに、茶パツのYさんは元気良く応えてくれた。さて、期末テスト明けの話し合い、…どうなることやら。期待と不安は半分こ、である。

 げだし、「こどもが動く社会科」(安井俊夫)は何より、教師が楽しい社会科だと思う。今日もこのことをこどもたちに教わった。



  
2月16日
 久々に「雑録」を書く。だいたいの場合、更新が滞るというのは疲労困憊のせいか思考停滞のせいなのだが、執筆気力の喪失という稀な事例もある。それが、今回の更新停滞の原因。でも、思考活動の不活性と怠惰で非創造的な営みしかなし得ないでいる自分への諦念が、執筆気力を殺ぐ大きな原因ともなっている。自業自得といえばそれまでだが。
 さて、更新の滞ったいく日間かの出来事を羅列的に記す。まさに、これを「日々雑録」という。悪情報のタレ流し以外のなにものでもないけれど、備忘のために記すことに。
 
 2月11〜13日は、筑波大学社会科教育学会参加のため関東へ下向。都内で中学校時代以来の親友と久々の再会。その彼女も都内の私学で教員をやっている。教職3年目、さまざまな意味で転機を迎える時期だけに彼女のことばには重みがあった。12日(犯罪的な年休によって休みになっていた)は一足早くつくば市へ。修士2年の後輩諸君やつくば市内の小学校教諭をやっているM君との再会と対話に、久々のリフレッシュ。そして、13日はうってかわってアカデミックな雰囲気の学会参加で、とんだブレイン・ストーミング。頭の使い方が、やはり普段の学校生活での使い方と違うものだと実感。でも、学問的な雰囲気と刺激は、やはりたまらないものがある。「学問が好きだ」などと書くときざ呼ばわりされそうだが、やはりああいう雰囲気も「好き」だなあ、と思う。
 
 と、まあこんな連休を過ごした。かなりハードな日程で心身ともに疲労したが、でも「おつり」のくるくらい充実した3日間であった。ただ…である。こんな刺激を存分に受けながら、学校が始まってみれば相も変らぬ非創造的な授業のオンパレード。
 成長のない自分に、ちょっと最近はほとほと嫌気もさしてきた。でも、こんな自分でも自分である以上は付き合っていくしかない。生徒たちに偉そうにものを申し偉そうに振る舞いつつも、わが身を省みればお粗末な自分これあり、ってところだ。

 おっと、愚痴の羅列になってきてしまった。でも、心の奥底には新しい単元の構想が湧きあがりつつある。強いていえば、これは2年目の大きく楽しみな課題となりそうな気がする。歴史・地理の融合単元―場合によれば経済的な内容も盛りこめるやもしれない。しかも地域の現実から出発し過去へと視線を向け、さらには現在の地域の現状を把捉した上で未来の地域を考える―こんな夢みたいな単元ができればいいなあ。でも、やってみるだけの価値はありそうな、そんな気が今はしている。そんな素材を見つけたのだ。今回のつくば行きでも、さっそく下調べというか簡単な巡検をしてきた。さてさて、どうなることやら。

閑話休題

 勤務校では、昨日今日と生徒指導に大童だった。3年生の生徒何名かによる不祥事が露見したためである。しかも、学力検査前のこの時期にである。
 でも、一概に彼らの非だけを責めることができない―そんな気が強くするのである。そもそも、この不祥事の遠因となる事件は昨年の5月に発覚している。にもかかわらず、私たち3学年の職員はおろか学校の先生方の誰一人として、一昨日までこの不祥事を気がつくことができなかったのだから。
 彼らのしてしまったことは、明らかに違法性を帯びたものであり、彼らはその点の責を応分に問われ負わねばならない。それは当然のことだ。しかし、一番に身近にいた教師が彼らの問題行動に少しも気づかずにいた、いや気づくことを面倒がり避けていたがために、3年の卒業間近のしかも「この時期」にまで事実の発見が遅れたのである。これは、明かに教師の怠慢だし無責任な態度だと思う。非難されてしかるべき行為だろうと思う。少なくとも私自身はそう思わずにはいられない。ただ単純にこどもたちの非を責める気にはなれないのである。
 
 しかし、うじうじはしていられない。事前の関わりとしかるべき指導のできなかった私たちに課せられた、果たすべき責任はただ一つ。「落とし前をつけるとはどういうことか」ということをちゃんと教えてやることである。もし、これがちゃんとできなかったとすれば、私たち3学年の教師集団は無能者という「称号」を、自ら高らかに名乗ることになるだろう。
 
 まさに、正念場だと思う。と同時に、ここは、まさに学ばなければならない時でもあると思う。



2月4日
 
 「わたし、K先生がさいこー。他の先生なんかどうでもいい…。今日はむちゃくちゃ楽しかった。
 受験、受験っていいたくないっていいながら、結構いってますよね…聴かなきゃいけないのはわかってるケド」(3年生Mさん)

 むろん、「K先生」とは私のことではない。私が初任者研修で学校を留守にする際、非常勤講師として来て頂いている先生のことだ。この学習カードを給食前の時間読みながら、鬱々たる気持ちが私を襲った。そして、深い自省と自戒が必要であることを痛感した。自分自身が、「嫌な教員」である前に「嫌な人間」になってしまっていることをはしなくも生徒から指摘されたのだから。
 堂々と表明した私の方針と私の言動に生じた齟齬を、Mさんは正直に学習カードに書いてくれたのだ。確かに、この一文は強烈であり、私にとっては4月以来でもっとも衝撃を受けたことばであった。むろん、本人は「思ったまま、正直に」自身の意志を表白したにすぎないのである。でも、この正直さと率直さに私は感謝したいと思う。
 彼女には、同じ学習カードを通じて長文の「返信」をしたためた。果たして、私の正直な今の気持ちと彼女への感謝の念とが伝わるかどうか。かえって彼女の怒りを招くことになるやもしれない。でも、私はことばを商売道具にする人間のひとりとして、やはり今の自分の気持ちをMさんには、ことばで伝えたかった。

 「今日は体育のあとってこともあったけど、社会の時間がつまらないなーと思いました。少しでも楽しいと思える社会の時間にし たいと思います。」(1年生Kくん)

 学習カードに書かれたこのひとことも、私の胸をざくりとえぐり、自戒を迫るものだった。Kくんは、社会科の時間を4月以来、もっとも前向きに過ごそうと努力し実力を蓄えてきている生徒である。その証拠は学習カードの厚みである。ホイッチキスで束ねられたカードの枚数は現在10枚目。この枚数だけからでも、彼の取り組みの濃度の濃さは一目瞭然なのだが、何よりも広くもない書き込みスペースへの細かな字による懸命の書き込みには、時に感動すら覚える。そして、いつも私の未熟な授業にエールを送ってくれていたひとりなのである。そんな彼からの率直で厳しい意見は、まさに「諌言」とでもいえようか。―慣れという名の魔物にとりつかれたままでそこから脱出しようともせず、かえってその魔物との共存共栄の道を歩もうという愚挙に出かかっている私を彼は諌めてくれたのだろう。そして、それはMさんも同じなのだろう。

 こどもたちは、教師の意識的なあるいは無意識なこころのよどみやたるみを敏感に感じ取り、警告を発してくれる。

こんな当たり前で、しかもこんなに嬉しくありがたいことを、私は完全に忘れていたように思う。


2月1日
 昨日、1月1日に長野の飲み屋で「やりあった」K氏(彼は諏訪市で中学校教員を務めている)とともに、突然の富岡行きを計画・実行した。「教材研究のため」といえば聞こえは良いが、単なるドライブといえなくもない、ぞんな富岡訪問であった。
 まず最初にむかったのは、もちろん旧富岡製糸場。現在は、片倉工業株式会社富岡工場であるが、それは昭和初期に政府から払い下げられたから。元は、官営富岡製糸場として設立され歴史の教科書では「富国強兵・殖産興業」の部分で、必ずといっていいくらい取り上げられているアレである。レンガ造りのどっしりとした工場建築はフランス人技師による設計で、明治5年に竣工したものである。爾来130年、風雪に耐えてその威容を誇示しつづけ、「生糸の街・富岡」のシンボルとして存在しつづけてきた。
 あたりまえのことだけれど、座学では見えてこない多くの事実が、実際にその地を訪れてみると見えてきたり、あるいは腑に落ちなったことがらが実感をともなって理解できたりする。例えば、私は富岡製糸場は街外れのだだっ広いところにポツネンとたっているものかと想像していた。ところが実際に訪れてみて、工場のレンガのエントツが、おっそろしく細い小路の向こうに見えたときには正直、ちょっと驚いた。また、富岡は江戸時代小藩七日市藩があり、城下町を前身とする小都市である。城下町にありがちな狭い小路、まとまりのある町並みは、何となく感ずることができた。しかし、富岡がただの城下町ではなく、「企業城下町」であったことも、工場前の通りが「片倉通り」と名づけられていたことからも了解できた。

 フィールドリサーチなどというと大げさだけど、現地見学・調査の良さと利点を学べた富岡行きであった。