古い「日々雑録(ひびざつろく)」                   にえきらない思考の断片

1月31日
 昨日は、信州大学教育学部附属松本小学校の学習指導研究会(公開研究授業のこと)に参加するために、ふたつ峠を越え2時間かけて松本へ出張。ふたつめの峠を越え、急坂を下り始めると、目の前に松本平のシンボル的な山岳である常念岳がその威容を現わしてくれる。まったく北アルプスの峻厳たる姿は、いつ見ても心も震えるばかりの感動を呼び起こしてくれるから嬉しい。今回の松本行きは、この感動と共にもうひとつの感動をもたらしてくれた。

 「信大附属松本」―このことばの響きは、わたしにとっては特別な感慨を催させるものがある。今から4年前の暑い夏、私はここで6週間にもおよぶ教育実習を経験した。「不本意入学」というつまらない思いに支配されて送っていた大学生活2年間、教育学部にいながらも私の将来への展望は、ただただ漠然とした「教員にでもなるか」といった程度のものであった。無為に2年間は過ぎ、3年生となった私に、大学のカリキュラムは容赦なく6週間もの「苦行」を課してきたのだった。今、思い出しても実習期間に入る直前の、あの憂鬱な気持ちは何とも形容し難い。あえていえば、とにかく「嫌だった」。
 2週間の中学校での実習が終わり(この間、松本サリン事件が附属学校のすぐ近くで起こり、連日何機もの取材ヘリの飛行音に授業を妨害される日々が続いた)、小学校での2週間の実習に移った。信州大学教育学部のカリキュラムでは(当時)、学生はそれぞれの所属する課程(小学校教員養成・中学校教員養成・幼稚園教員養成課程)にかかわらず、小学校・中学校両方での実習が義務づけられていた。私は中学校課程であったが、この定めにしたがって小学校での2週間の実習に取り組むことになったわけである。
 気乗りのしないまま突入した実習であった上、配属されたクラスのこどもたちとの相性も良好ではなく、その上今度は中学生以上に接することに躊躇を感ずる小学生を相手にしなければならない…憂鬱感はいやがうえにも増した。しかし、この小学校での2週間の教育体験とこどもたち・先生方との「出会い」によって、私はそれまでのあいまいで浮ついた自分自身との対面を迫られ、結果として何ものをも学ばず成長もしていなかった自己の存在を突きつけられることになった。本当に不思議なものである。
 最初に4年西組のこどもたちと出会った時の印象は忘れられない。教室を支配するあの異様な雰囲気。四六時中こどもたちとともに一緒にいなければならいことの苦痛。支離滅裂ともとれるこどもたちの発言の数々…。数え上げたらきりがないほど、私は彼らとの関わりあいに不自然さや違和感を感じた。そしてその違和感は、担任のG先生にも抱いた。厳しさと冷たさが、最初にG先生にお会いしたとき感じられたことだった。そしてそれは、こどもにむけるまなざしにも感じられたものだった。―しかし、これらの印象なるものが、いかに私自身の人間としての底の浅さに根ざしたものであったかは、その時の私にはまだ自覚できないことがらであった。
 ここに、4西のこどもたちとG先生から学んだことをすべて書き表わすことは不可能である。もちろん、記述可能な経験もあるけれど、記述可能な経験を記したからといって、それで私の経験のすべてを説明し尽くすことはやはり不可能である。私に自己との対面を迫り、未熟で不完全で何ものをも学んでいなかった自己を突きつけてくれた経験は、ことばにできないほどの深さと広がりと重みと感動を内包したものなのである。やはり、それは記述できない。感動は感ずるものであって、記述できるものではないし、感動そのものを記述できるほど言語は万能ではない。

 授業公開がすべて終わり、お昼の後、体育館で音楽集会が全校によって行われた。「この星に生まれて」という合唱曲であった。合唱活動は附属松本小学校の伝統であるが、体育館でくりひろげられているあの光景を、異様なものととるか素晴らしいものをとるかは判断の分かれるところだと思う。ただ、私にとっては附属のこどもたちの歌う姿は、その二者択一の判断を拒むものなのである。4年前のあの場所での経験は、私にとってはこどもたちの歌声と結びたものとなっている。音楽集会での歌声は、そのまま私の記憶の中で鳴り響く4西のこどもたちの歌声と結びついて、私の中での「忘れがたい経験」を呼び起こす。4西のこどもたちとともに、お別れ会で涙ながらに歌い合った「怪獣のバラード」。嫌で嫌で仕方のなかったはずの小学校での実習が、まさか涙と共に終わることになろうとは、夢想だにしなかったことである。昨日も、目の前で元気に歌うこともたちの姿に、何かこみ上げてくるものがあった。どうしてこみ上げてくるものがあったのかは、やはり説明不可能であるけれど。
 
 今も鮮明に思い出す。2週間の小学校での実習終了後にG先生にいわれたひとことである。
 
 「あなたが小学校実習に来られたばかりの頃、正直いって私はあなたのいい加減な気持ちが心配でした。でも、今日あなた方
 がお別れ会で流した涙は本物だと思います。その涙の意味をよく考えてみてください。」

 私はこの6週間の教育実習後、本当に「学ぶ」必要を痛感したし教員になることを決心した。そして、現実に私はいま佐久の地でこどもたちとともに学びながら、成長途上教員を続けている。
 そんな日常の中で恥ずかしい話だが、「どうして今自分は教員をやっているのか」とか「目の前のこどもたちのために、自分は何ができるのか」といった大切な問題を、ふっと忘れてしまうことが多い。いや、無意識になってしまっているといってもいいと思う。そんな今の自分には、G先生のおっしゃったように「あの涙の意味」をもっと考え抜くことが必要なのではないか―そんなことを感じさせられた。

 同期のK先生もホームページで自身の「教育哲学」を問い直す決意をもらしていた。
 私も教職2年目に向けて、観念論に陥らない、実践的な「教育哲学」=自分のこだわりを、もう一度探究し直したいと思う。


1月26日
 昨日、いつも気にかけてくださり折りにふれてご指導をいただいてきた、指導主事のT先生から寒中お見舞いのお手紙をいただいた。年賀状への返信をかねたお手紙だったのだが、それはT先生のこと。研究会で報告したレジュメが同封されており、学び怠けている私への快い圧力となる寒中お見舞いであった。
 端正かつ力強い字の躍る便箋を凝視しながら、T先生のお人柄とともに、広く深いその教育哲学に改めて尊敬の念を強くした。特に印象深く、私の心に鳴り響いた一節を書き出したいと思う。

  さて、本年はいよいよクラスも持ち、今までにない挑戦の始まることかと思います。しかし、学担になって、切れない関係
 が生徒との間に物理的に結ばれた時、真の教育が始まるように思います。
  どんな子もかけがえのない命を授かり、多くの人の期待を背に今の姿があります。従って、
   ・目の前にいる縁あって出会えた子の存在を喜べる愛
  ・可能性を最大限引き出そうとする情熱
  ・子どもがよくなるために労をいとわない「ずく」
  ・今最も大切な本質は何かを見抜く冷たい頭脳
 が大切になるかと思います。
  一人の生徒さえ理解するのは難しいですので、学担となりあらゆることに挑戦していく際には失敗はつきものですが、21世
 紀のみならずこれからの地球を背負う人を育てる夢のある職ですので、くれぐれも健康に留意され、本年度も消えない実践を
 一つ残せるようご活躍下さい。

 「どんな子もかけがえのない命を授かり、多くの人の期待を背に今の姿がある」―この「当たり前のこと」に、実は無神経になってしまっている自分を自覚して、えもいわれぬショックを受けた。高慢尊大な存在になりつつある自分を戒めることを、T先生のこのひとことは促してくれた。
 また、T先生の挙げられている四か条のことばも、これまた私の「慣れ」という名の魔物に冒された頭に、良い薬を与えてくださったように思う。特に、「縁あって出会えた子の存在を喜べる愛」「今最も大切な本質は何かを見抜く冷たい頭脳」―このふたつのことばは、初任一年目の終わろうとする3学期の今、もう一度初心に帰るべきことの大切さを示唆してくれた。
 「縁あって出会えた」尊敬すべきT先生。この先生に出会えたことを喜びたいと思う。また、不肖の初任者の私に、折りにふれて厳しくかつ温かなご指導をしてくださることのありがたさを、今、改めて噛締めたいと思う。人は人との「えにし」で結ばれ、その「えにし」によって育てられ、また育っていく。こんなあたりまえのことが、本当に実感されたT先生からのありがたい寒中お見舞いの手紙であった。

 そしてそんな中、明日から最後の初任者研修である。T先生のことばを反芻しながらの、実り多い研修にできればと思っている。


1月23日
 今日は軽井沢まで少々の遠出。車検の期限切れぎりぎりの自動車工場への納車で昨日は冷や汗をかいたが、今日は慣れぬ代車での遠出に冷や汗だった。でも、そんな冷や汗も吹き飛ぶようなラッキーなイベントだったのが、今日の軽井沢行きの目的。かの小澤征爾氏が、「ふれあいコンサート」と銘打って小中学生を主な対象に無料でコンサートを開催してくれているのだ。2時間にわたる名曲とのひとときは、冷気漂う軽井沢町社会体育館の中をしばしウィーンのムジークフェラインに変えた。小中学生には、少々難解かつ長時間で飽きを誘う内容のプログラムだったが、指揮中の不慮の右手小指靭帯断裂後の手術直後にもかかわらず、ちゃめっけたっぷりに、でも「一流」の人間のもつ独特の厳しさをかもし出しながらの熱演ぶりには、こどもたちも見入っていたように思えた。「一流」はやはり、すごい。

 実は昨日も遠出だった。長野市にある信州大学教育学部附属長野小学校の公開研究授業に参加してきたのだ。正式には「初等教育研究会」と呼ばれ、附属学校一年に一度の大イベントでなのである。附属小学校は昨年、西長野と呼ばれる、善光寺近くの旧長野師範学校附属学校時代からの所在地から、新校舎建設にともなって十数年先に移転していた附属中学校側の朝陽地区へ移転した。今回が、移転後初の公開研究授業ということもあって、私自身は初めて入る新校舎に興味津々であった。また、全体講師として東大の佐藤学氏が来校するということあって、かなり期待しての参加であった。
 まず新校舎。これが、すごい。信州大学教育学部の「附属」という名であるが、正直、「信州大学長野小学校附属教育学部」といった方が適切と思われるほど、本家教育学部をはるかにしのぐ、お金のかかった、少なくとも私自身が生活を送ったどの学校の校舎とも違ったイデーから造られている建築であった。―コンクリート打ちっぱなしの壁とふんだんに使われる木材のコントラスト。採光を意識した窓の配置や閉塞感をとりのぞくための吹きぬけスペースの多さ、壁やしきりの取り払われた「教室」。―いやはや、旧校舎を知る人ならこの驚きを共有してくださるに違いない。大きな「変化」が、校舎の建築様式というハード面において、しかも独特の保守性を持つと観念されている附属学校に起こりつつあることを強く実感させられた。
 公開されていた授業についての感慨だが―印象に残ったのは自由参観で見せていただいた、3年生の社会科の授業ひとつであった。共同参観として、体育館で公開されていた2年生の生活科の授業は、先生の露骨で恣意的な指名に支えられた、こどもの「学びのすじみち」(附属長野小の研究テーマのキーワードのひとつ)を無視した、後味の悪い授業であった。授業後半部、こどもたちが活動する場面が(無理やり)設定されたが、こどもの「学びのすじみち」から外れた活動がこどもたちの心に座るはずが、ない。てんでんばらばらの、好き勝手な活動がそこには展開していた。そして、それを参観する多くの先生たちもこどもたち同様、「観察のすじみち」からはずれた授業を参観することを放棄し、そこここで井戸端会議を始めていた。
 まだまだ書きたいことは山ほどあるが、今日はこれくらいで留めおこう。最後に、佐藤氏の講演について。
 佐藤学氏の講演は、「学び」論と新『学習指導要領』批判が主な論点であった。「東大教授」というネームバリューのせいであろうか、それとも彼に私淑する教員が多かったのかどうか、附属公開の講演会の参加者にしてはかなりの数が残っていたというべきだろう。講演そのものも、さすが教育学者の中でも知名度も高く、その評判もウソではないという内容だったし、学ぶべきことも多かった。
 
 「勉強から学びへの転換」
 「学びの本質は謙虚さと慎み深さ」
 「教師の学びあいのある学校には、こどもの学びあいがある」

傾聴に値することばの数々であった。しかし困難さや困惑も同じに感じたのは事実だ。このあたりのことについては、後日また、脳みその調子のいいときにでも(そんなときがあるのかが問題だけど)書こうと思う。

 さて、今日はせっかく芸術的感化を受けたことだし、買ってきたCDを存分に聴こうっと。さて、何から聴こうかなあ…よし、ヒンデミットから聴くことにしよう!


1月17日
 16日が勤務校の計画休業であったため、14日から今日まで三連休となった。かの太閤秀吉は辞世の句で、「浪速のことも、夢のまた夢」と自らの栄華時代のはかなさを詠ったが、今の気分はまさに「休みのことは、夢のまた夢」といった風情である。
 
 この連休中、うれしいことがいくつかあった。ひとつは「刺激的なこと」、もうひとつは「懐かしいこと」である。

 常陸野時代、研究科は違ったものの問題意識を共有し一緒に勉強会ももった後輩女史から、この12月末日に研究科に提出した修士(文学)学位論文を謹呈いただいたこと−これが「刺激的なこと」。その論文の厚みたるや、彼女の生きざま・こだわり・熱き思いの結晶に見えて、しばし眺めているだけの時間が流れた。しかし、気を取り直し心の緒をしめ直して読み始めた。野心的な試みを随所に感じさせる、力作である。まだ完読してはいないが、今度は彼女の学恩に報いる番である。心して批判文をしたためようと思っている。
 さて、ついで「懐かしいこと」−それは、一本の電話。しかもその電話、どこからかかってきたかといったら…ドイツ連邦共和国首都ベルリンからであった。小学校時代の同級生であるSさんからの電話であった。聴けば、ベルリンは夜中の3時(私が電話を受けたのは昼の12時であった)だという。先日、ひょんなことから電子メールでの連絡が可能となり、それに喜び驚いていた矢先の本当に突然な、でも本当に嬉しい電話であった。彼女は今、ベルリン芸術大学の音楽学部ピアノ科に在籍し、一流の演奏家目指して勉強中。高校卒業後、渡独してすでに6年がたつという。夢にかけて彼女は異国の地で、人を感動させる音を創れる表現者になるべく、自己研鑚に励んでいるのだろう。
 彼女の話で印象的だったのが、ベルリンに行くきっかけをつくってくれたある先生のひとことについての話であった。彼女がその先生の前で試演した時、その先生がこういったというのである。

 「もっと自由に弾いてみたいと思いませんか。もっと自由に弾くための勉強をしたいと思いませんか」

このひとことには、日本の音楽教育のめざしていることが諸刃の剣であることが象徴的に表われているように思う。彼女はこのひとこに「火をつけられ」、ドイツへの渡航を決意したという。

 これら「刺激的」で「懐かしい」連休中の出来事は、私に改めて人は不思議な人と人との−えにし−の中で生きているということを思い知らせくれた。
 −でも、ここでうまくこれらの出来事の私にとっての「意味」を明快に記述するができないことが、本当に情けない。もう少し、これらの出来事の「意味」を深く問い直してみたいと思う。


1月10日
 3学期始業す。登校日数49日、短き学期なれど、その位置づけたるや他の学期に劣ることなし。むしろ、重且つ大なる意味こそあれ。この学期をいかに過ごすかは、一年を如何なるものとして意味づけるかと同意なり。
 日々、思索もなく、また教育実践にも精彩を欠くばかりなり。されど、立ち止まること能はざれば、にえきらぬままにても歩を進めるほかなく、さてもさても忸怩たる思いぞする。
 「日々雑録」にても、如何ほどのこと記し得るか微塵も自信なきことなれど、「書くことは思索すること、思索すること即ち書くこと」の言を信じ、能ふ限りの更新を心がけんと欲す。
 やらねばならぬこと多き日々なれど、その優先順位のつけように未だ本末転倒のきらいこれあり、ややもすれば現実逃避に向うこと多く、自戒・自省の要を痛感するものなり。

 日々向うこどもたちに、「常に一流たるを目指せ」とはいいながら、なかなかに自らの生き方として実践すること難しく、未熟にして不完全なる自己を再認識するばかりなり。

 こどもに学び、周りの多くの方々に学ぶ―この心構えを、奉職2年目なればこそ、深く深く心してゆきたきものなり。


1月5日
 松本で行われる研究会の総会に出席するつもりが…。寝正月の後遺症が出てきたようだ。いやはや、8日から始業だというのになあ。不安のよぎる、休み終了2日前。

 さて、こんなぐうたらでのんきな正月を過ごしているところへ、一本の電子メール。遠く、地球の裏側中米はニカラグアからの年賀メールであった。常陸野時代、そう、ちょうど昨年のこの時期には共に修論に追いつめられながらも、そんな非常事態をともに「楽しんでいた」悪友西村君からの、嬉しい嬉しい写真つきの年賀メールであった。
 彼は今は、青年海外協力隊員として2年間のニカラグア勤務についている。昨年の6月からの勤務である。彼の主な任務は、ニカラグアの教育省の下部組織での就学督励だと聴いている。しかし、周知のようにニカラグアは昨年秋の大ハリケーンの被害が甚大であり、ホンジュラスとともに被災による非常事態が続いている。したがって、彼の任務は現在は被災状況の確認と被災民への救済活動へと転換しているようである。秋には、私も彼の安否が心配になり電子メールを送り、なかなか来ない返信にやきもきさせられた(その後、彼から長文の近況報告と現地の様子を伝えるメールが返信され、安堵のため息をもらしたのだが)。
 「ハリケーン災害への対応で心身ともに疲労困憊、なかなかメールを見る気にも書く気にもならなかった」―被災後の彼の気持ちを如実に物語る、重く深いひとことである。インターネットを利用し始めて4年目になるが、今年度ほどその利便性とありがたみを感じたことはなかった。地球の裏側で精一杯活躍する仲間の生の声・姿を、自宅に居ながらして垣間見ることができるのだから。それに、何よりも―地球の裏側にも、人が暮らし、そのかけがえのない生を生きている―という、「あたりまえ」の事実に改めて気づかせてくれたのだから。
 彼とニカラグアの未来を築くであろうこどもたちの、清々しくも力強い笑顔に元気づけられるとともに、そんな笑顔たちにぐうたら生活の清算を迫れたような気がして、ちょっと冷や汗が出た。


1月2日
 これも件の飲み会での話。

 K氏と久々にやりあったのが、「教育研究は科学といえるのか」ということについてだった。酒席でこんなごちごちの話題をやりあうというのもどうかしているのかもしれない。でも、私にとってはとても気になる問題であり続けている問題であるだけに、K氏のいうことを「ああ、そうですか。お説ごもっとも」と聴いているだけ、という気にはならなかった。
 K氏とは見解が根本的に異なる、というのではないと感じている。個人・団体による現場教師主体による教育研究の必要性については両者共通の理解があるものと思う。事実、教育現場では、日々無数に「研究」なるものが膨大な時間と教員の労力を費やして生み出されている。問題になったのは、これらの膨大な量の「研究」が―科学といえるのか―ということである。自然科学と人文・社会科学とでは、そもそも拠って立つ科学観そのものが異なっているであろうから、簡単に「教育研究が科学といえるか」という命題について云々することは避けねばならないだろう。それでも、両科学の本質的要素としては、「論理性」「合理性」「客観性」「普遍性」(これはかなり曲者の要素であるが)「再現可能性」の5要素をあげることはできるだろう。では、教育現場で盛んに行われている教育研究、あるいは大学や研究機関を中心に行われている教育学研究は、今あげた5要素にてらして科学と呼び得るものなのだろうか。

 私自身の現在の考えをここであえて申しあげれば、「教育研究・教育学は科学ではない」ということになる。
 しかし、「だから教育研究・教育学は、いわゆる科学にならねばならない」などという、1960年代の教育の科学化論を主張しようというのではない。むしろ、教育は科学になりえないのだから、科学に無理になろうとして似非科学の汚名を自ら招き寄せるような愚行・愚考を真剣に考え直すべきだ、と考えている。
 思うに、科学にすべきではないはずの教育を、科学的方法なるものを用いて分析し、科学的言語なるものによって記述しようとした結果、何とまあ無数の、それこそ天文学的な数の「仮説」と「実証」と「結論」が、教育研究・教育学の世界に跳梁跋扈することになった。科学的研究というのは、そんな安易に「仮説」が立てられて、その仮説が「実証」され(こどもが、何と一時間の授業で「仮説」どおりに「変容」してしまう!しかも、そういった「研究」事例が日本全国で毎日、計量不可能なほど産出されている!)、「結論」が導き出されてしまうものなのだろうか。
 例えば授業研究について。私自身は、教育は一回性・個別性がその本質だと考えている。授業はその本質をもっともよく体現している学校空間における現象例だと思う。授業の本質はその「再現不可能性」にあるのであり、だからこそ、その実践当事者には極めて重い意味と深い示唆に与えるのだと思う。だから、そもそもそんな授業を科学の対象にしようとする目的や意図が了解できない。だって、一体何を明かにしようというのだろう。仮に教育の科学的研究の目的が、「名授業に隠された技術・ノウハウを明らかにする」「こどもが意欲的に追究できる授業を模索する」といったものだとする。―果たしてこれを科学と呼んで良いのだろうか?このような状況は、逆に科学(Science)への冒涜ともいえる行為であると同時に、教育という営為に対する冒涜でもあると感じてしまう。
 
 誤解のないように申し添えておくが、私は何も教育研究や教育学が不要だといっているのではない。むしろ、それは教育という営為が創造的な存在であり続けるために、こどもたちの成長に与していくことのできる存在であり続けるために欠くことのできないものだと理解している。私がいいたいのは、教育研究・教育学はそろそろ自身の存在意義を科学であろうとするところに求めるのをやめるべきだ、ということである。教育研究はいったい何のために存在しているのか?教育学が取り組むべき課題は何なのか?このあたりのことを、もう少し真剣に追究しなければならない時期にきていると思う。と同時に、「自前の観察眼・観察方法・ことば」の創出も大きな課題であろうと思う。
 教育研究・教育学は、こどもたちにidentityの確立を求める前に、自分自身のidentityの確立こそを問題にすべきだろう。そして、この課題は学問研究上の抽象的な課題であるだけでなく、私たち教育研究の最前線いる教師ひとり一人に課せられた、重く深い課題でもある。


1999年1月1日
 1月1日を飲み屋で迎えたのは初めてだった。
 長野時代、2次会・3次会といえばその店で、といういきつけの飲み屋での1999年の幕開けであった。一緒にいたのは、美しい女性…といいたいところだがさにあらず、長野時代の悪友同士3人での、こじんまりとした忘年会兼新年会だったのである。
 ひとりは諏訪地方で中学校教員をしているK氏、もうひとりは東京で役者めざして修行中のN氏。K氏とは、メールや電話でけっこう密に連絡をとりあっているが、N氏とは夏の大学同期会以来の再会であった。
 この忘新年会では、帰省以来の連日の飲み会がたたってかなり体調不良で参加したせいもあり、ふだんのように饒舌にしゃべりまくるということができなかった。そのため、結果としては彼ら二人の対話を聴くような恰好になった。でも、それがかえって良かったと思う。
 自分の夢を実現するために、貧乏ではあるけれども役者修行に、アルバイトにと励むN氏。彼のことばには、学生時代以来の一種のにえきらなさが見えていたが、そのにえきらなさにポリシー(こだわり)が加わったように感じられた。だから、普通はあまり好感をもたれることのないようなにえきらなさというものが、逆に彼のゆるぎない生きる態度に映って、正直とても羨ましかった。
 一方、K氏。彼は教員として人を育てるということについて理想や理念を持っているし、その実現のために、自己を磨くための努力を人一倍している人物である。そんな彼には、にえきらなさというものはないが、反面、ひとづきあいにおける不器用さを感じさせる時が多い。ことばをかえれば素直でないのだ。だから時として、その態度が周囲の思わぬ誤解をまねくこともあるのである(その誤解を私もよくする)。きっと、学校でも学担しているクラスのこどもたちと、その種の誤解に基づく軋轢を生じさせているように思う(違っていたらK氏、ご寛恕あれ)。
 ふたりの熱い熱い対話を、酒を飲みのみ聴いていたら、ふっと学生時代に戻ったような錯覚を覚えた。

 その後、早朝冷気漂う中を、善光寺へ初詣に向かった。参道の石畳を踏みしめながら、長野時代を回顧しつつ。
 でも、お守り売り場に目が行った瞬間、
 「あ、3の4のこどもたちのために合格祈願のお札買わなきゃ」
とつぶやいた自分に気づいた。
 
 お祈りされる立場で、あるいは自分のためだけにお祈りする立場で参拝したことしかなかった善光寺で、初めて「自分の生徒たちのため」=他人のために祈願した。1999年元旦の、思い出の街・思い出の聖域での祈りは、学生時代への完全なる訣別の祈りともなった。