さて、ここで述べたいことは別に、新しい『指導要領』についてではない。私がここでもっとも問題にしたいことは、現行および新『指導要領』で強調されている、「問題解決能力」ということばについてである。より正確にいえば、このことばの意味というよりは、このことばの前提となっている暗黙の意識(アプリオリ)である。私がここで述べようとしていることは、まったく真新しいことではない。私も、以前、何かの雑誌かものの本で読んで「ああ、なるほど」と感じたことの二番煎じにすぎない。しかし、ここでもう一度、この「問題解決」ということばの暗黙の前提になっている意識を、再確認しておくことは決して無益なことではないと考え、自分自身の思考整理のためにも書きなぐることとした。
「問題解決」ということばの後にいろいろなことばがくっついて、さまざまな造語があることは周知のことである。「問題解決学習」「問題解決能力」「問題解決的思考」…さまざまな「問題解決」にまつわることばがあり、これらのことばが教育研究の世界では頻繁に使用されるし、また今回の『指導要領』の改定にともなうマスコミによる報道によって、この「問題解決」ということばは「生きる力」ということばとともに、人口に膾炙したことばになりつつあるようである。
確かに「生きる力」「問題解決」ということばは、殺伐とした事件や夢も理想も何か色あせたもの、カッコの悪いものと感じられやすい時勢にあって、そうであるからこそ逆にとても耳新しいもの、何か人間味の感じられるのであろう。また、そうであるからこそ多くの人々のこころに響くのであろうと思う。脚光をあびることばというのは、往々にしてその時代の風潮や世相とは裏腹の、「目の前にはないんだけど、ぜひそういうのってほしいよなあ」とっていうものが多いような気がする。まあ、いずれにしても、教育という営みがこういった理想主義的なスローガンを定め、よりよい教育活動の実現にむけて多くの人々が鋭意努力するという姿は望ましいと思う。大いにやるべきだ、とは思う。一教員として。
でも、ちょっとたちどまって考えてみる。学校教育についての『指導要領』の論理を整理してみる。
@学校はこどもたちが社会化をとげるために、主に公権力によって準備されている擬似社会である。
A学校教育の役目はこどもたちを育てることの一助となる、ということである(学校はあくまで一助であって、 全助はできないしやってはいけない、と思う)。
B学校における教育活動は、「各教科」「特別活動」「道徳」「同和(人権)教育」からなっており、それぞ れの活動が有機的に関わることによって、先にいったこどもの育ちの一助となっている(はず)。
Cこれらの教育活動の中でも、大きな比重を占めているのは「教科学習」である。
Dしたがって、授業の占める教育活動上の位置づけはきわめて重要である(大切にされなければならないも のである)。
E先のこどもの社会化と関わって、授業では社会化に必須な態度や力を育てることが求められる。
F必須な態度や力の中でも、特に「問題解決」の能力は重要なものである。
Gしたがって、授業においてはこどもたちに「問題解決」能力を育成するような形態・方法が求められる。
H「問題解決」能力を育成するには、「問題解決的学習」による授業が望ましい。
誤った読みがあろうことはむろん承知のことである。『指導要領』にはもっと広がりのある論じ方をしてあることもあろうが、曲解をおそれずに整理するとこうなるんではないか、という程度のものである。
これらを一瞥して思うのは、ある予定調和があるってことである。
「問題」は必ず「解決」するものである
本当にそうだろうか?
わたしにはすこぶる疑問だ。確かに学校はこどもたちの社会化のために用意された、計画的・組織的教育機関である。だから、そこではこどもたちが社会に参画していくときに必要となるであろうさまざまな能力を養う必要があることは、自明のことである。しかし、社会化の内容というのは「問題解決」能力の育成だけではないはずだし、その「問題解決」の「問題」にしても、実社会に実際に存在している「問題」は、個人のちょっとした努力や働きかけだけで「解決」するようなものは、ずっと少ないはずである。
むろん、わたしは学校教育において、こどもたちに「問題解決」能力を養う必要ない、などと考えているわけではない。しかし、『指導要領』において、問題解決」能力の育成が強調されるあまり、肝心の「問題解決」という概念そのもの、あるいはその暗黙の前提となっている意識、しかもその意識が、大切にしたいはずの「問題解決」の育成という所期の目的の履行を、かえって阻害してしまったり、こどもたちに好ましくない考え方・行動のあり方を育ててしまう可能性を見落としてしまうことは、とても危険なことだと思う。
「生きる力」「問題解決」ということばは、先にも書いたけれど、とてもattractiveな響きをもったものである。教育という営為には、ロマンやヒューマニズムといったものが本質的に含みこまれていると思う。だから、教育に関わる人々の多くには、ロマンティックなことばに惹かれていく性向があるように思われる。そうすると、「生きる力」「問題解決」なんてことばを聴くと、「おお、これだ!」なんて思ってしまう人が多いんじゃないか、そんなことを考えてしまう。
ここで少したちどまって、じっくり『指導要領』を読み込んでみる必要があるような気がする。それも、ただ読みこんで趣旨を理解する、というのではなくて、あくまで批判的に、でも常に建設的な立場から『指導要領』を読んでみるのである。すると、わたしたちが自覚化できていない、かえってこどもたちにとって結果的に悪影響だけしか与えないような、暗黙の前提意識がもっとたくさん見つけられるはずである。
学校のできることには限界がある。だから、「問題解決力の育成」を学校教育でなし得る中核的な教育活動として据え、このことを軸にあらゆる教育実践を行う、という方針は望ましいだろう。しかし、この考えが肥大化して、『指導要領』過大視の傾向が進み、「問題解決力だけあれば、世の中でやっていける。だからこそ、学校教育はこどもたちにその力の育成を推進すべきだ」と考えるようになったら、ちょっと話が違うだろう。
社会にでたとき、ひとりの人間が直面する「問題」というのは、どろどろしているものである。いいかえれば、世の中には解決の見とおしの立っていない問題、解決困難と思われている問題の方が、はるかに多いはずである。それは、個人が直面する問題、集団(共同体)が直面する問題を問わないだろう。
しかも、これからの世の中を生きていくこどもたちが直面するであろうそれらの問題というのは、往々にしてそれらの問題に誰も取り組まなかったら、地球環境そのものが破滅する可能性をはらんだ問題が多いのである。
これからの教育実践(広義の:社会教育まで含む)には、個人そして集団(共同体)が、
―持続的に「問題」に関わっていこうとする能力を育成すること―
こそが必要ではないかと考える。この能力(といっていいのかわかならないが)がなかったら、そもそも「問題解決能力」だって成り立たないのである。