宮坂哲文
Tetsufumi
MIYASAKA(1918〜1965)
大正7(1918)〜昭和40(1965)年。戦後教育において,「日本型生活指導」の理論的確立に尽力した教育学者で,東京大学教育学部教授。
長野県東筑摩郡坂北村の曹洞宗碩水寺住職宮坂撫@・婦み江の長男として,東京都小石区大塚坂下町に生まれる(出産は母親の里,長野県南安曇郡三郷村明盛の三溝家)。二歳の時父親の郷里坂北村碩水寺に一旦帰ったが,五歳の時一家で上京。翌年,関東大震災直後,再び郷里の山寺に戻る。坂北尋常小学校卒業後,昭和6年長野県松本中学校に入学。松本高等学校から東京帝国大学文学部教育学科に進学。戦時下の昭和16年12月,急遽繰り上げ卒業。卒業論文は禅僧の父親の影響も手伝って「禅林に於ける教育形態の研究」。元々病弱な体質のため,12月8日太平洋戦争開始の日の徴兵検査で兵役を免れ,教育学研究室に副手として残る。戦後,駒澤大学,東京外国語大学,お茶の水女子大学助教授を経て,昭和29年から亡くなる昭和40年まで11年間,東京大学教育学部助教授,教授を歴任。
研究の専門分野は,生徒会活動,ホームルーム活動,クラブ活動,学校行事,生活指導,進路指導などそれまでの教育学では全く未開拓だった特殊な分野で,宮坂の研究によって初めて特別教育活動(課外活動・教科外活動)という言葉は市民権を得た。ガイダンス,カウンセリングなど欧米の生活指導理論に飽きたらず,生活綴方教育や集団主義教育を通して人間の生き方の指導を重視する,彼みずから「日本型生活指導」と呼ぶ生活指導の理論的確立に努めた。
この間,昭和32年からは日教組教育研究全国集会生活指導分科会の講師を一貫して引き受け,33年賛否両論の小・中学校での道徳教育の授業(いわゆる特設道徳)の実施を文部省が強行するに及んで,翌年全国生活指導研究協議会(略称・全生研)を結成。以後46歳の若さで病魔に倒れるまで,民間教育研究団体を研究活動の重要な拠点として,現場の教師たちと共に生活指導運動の前進に,理論的リーダーとして尽力した。
主な著書に『禅における人間形成─教育史的研究─』『生活指導─実践のための基本問題』『新訂・特別教育活動』『生活指導の基礎理論』『集団主義と生活綴方─生活指導前進のために─』『宮坂哲文著作集』(全三巻)などがある。これらの著書は,長野県松本深志高等学校図書館「先輩文庫」,県立長野図書館,信州大学附属図書館教育学部分館,曹洞宗陽光山玄照寺(長野県上高井郡小布施町)などに所蔵されている。
故郷の坂北村碩水寺裏山の墓地に,両親,子どもと共に静かに眠る。
(小林洋文『私家版・教育学人名辞典』より転載)