『新釈 眞田十勇士』関連略年表@「上田篇」とその前段(薄字部分)

※小説版『新釈 眞田十勇士』上田篇@の巻末の年表に、編集上のミスから大きな欠落がありました。
 お詫びして訂正します。↓に修正版を掲載します。

年(和暦) 西暦
月 日
出  来  事
天文一六 1547   この頃、眞田幸隆、武田信玄に出仕 この年、幸隆の三男として昌幸誕生
天文二〇 1551 5月26日 幸隆、戸石城の乗っ取り
天文二二 1553   ⇒昌幸(7才)人質として武田信玄に預けられる(→後に武藤喜兵衛を名乗る)
永禄 三 1560 5月19日 桶狭間の戦い
永禄 四 1561 9月10日 川中島の戦い(第4次=最大の激戦)喜兵衛=昌幸、信玄の側近として初陣(15才)
      →古典厩信繁(信玄の弟)、山本勘介戦死
永禄 六 1563 10月13日 幸隆と嫡男信綱、岩櫃城を攻略
永禄 九 1566   昌幸の長男・源三郎信幸(信之)生まれる
永禄一○ 1567   昌幸の次男・源二郎信繁(幸村)生まれる(幼名 於弁丸)
永禄一一 1568   信玄、甲相駿三国同盟を一方的に破棄
永禄一二 1569 10月1日 信玄、小田原城を攻める
    10月4日 三増峠の戦いで喜兵衛、一番槍の功名
元亀 元 1570   駿河花沢城の戦いで喜兵衛、二番槍の功名
元亀 二 1571 10月3日 北条氏康没(享年57才)→武田との和睦を遺言
    11月20日 信玄、水軍増強の為、伊勢で海賊衆を募集
元亀 三 1572 10月3日 信玄、上洛を開始
    12月22日 三方ヶ原の戦い(徳川家康、武田軍に大敗)
天正 元 1573 4月12日 武田信玄、遠征先の信州駒場で没(享年53才)⇒三年喪を秘す
天正 二 1574 1月27日 武田勝頼、三河・美濃へ侵攻
    5月19日 眞田幸隆、没(享年62才)
    6月17日 勝頼、遠州高天神城を攻略
天正 三 1575 5月21日 長篠の戦い 眞田信綱(39才)/昌輝(33才)戦死
      ⇒武藤喜兵衛、眞田家を継ぐ為に復姓⇒眞田昌幸となる(29才)
天正 四 1576   上州岩櫃城で内訌=城代・斉藤憲実が海野兄弟に逐われる→地侍が従わず昌幸に庇護を求める
      ⇒昌幸が実質的に入手(城代に海野兄弟)
    4月16日 信玄の死が公表され、葬儀が執り行われる
天正 五 1577 1月 武田勝頼、北条氏政の妹と再婚
    8月 勝頼、遠江・横須賀城を攻めて敗退・蹉跌
天正 六 1578 3月9日 上杉謙信、没(享年49才)
    5月13日 →越後で御館の乱⇒勝頼、北条の要請で上杉景虎を助けるために出陣(25日)
    6月7日 →勝頼、上杉景勝と越甲同盟を結ぶ
    7月23日 勝頼、景勝と景虎を調停=両者は和睦
    8月23日 →和睦は破綻、勝頼は甲斐に帰陣(調停失敗)
天正 七 1579 3月 →景虎敗死し、北条との関係悪化
      景勝、越後平定→沼田の北条勢、退勢
    7月 昌幸、上州沼田城攻略に掛かる(上杉の承認の下)→名胡桃城と小川城を攻め落とす
    9月 徳川と北条、対武田の同盟を結ぶ
天正 八 1580   織田信長の勢力拡大(本願寺、加賀一向一揆などを下す)
    5月4日 北条方の上州沼田城代・藤田信吉、昌幸に通じ、城を明け渡す
    6月27日 昌幸、奉行として勝頼に代わって上野の知行宛がいを行う
天正 九 1581 2月15日 勝頼、甲州新府城築城着手(昌幸、普請奉行に)
    3月22日 遠州高天神城落城 武田勢、遠江より撤退
    6月7日 勝頼、沼田を含む北関東の実質的支配を昌幸に委ねる
      昌幸、沼田景義を謀殺(沼田城を確保)
      昌幸、海野兄弟を謀殺(上州の経営強化)→岩櫃を本拠に
    11月 勝頼、信玄の養子になっていた勝長を信長へ送還 完全に関係を断つ
    12月24日 勝頼、新府城へ
天正一○ 1582 1月27日 木曾義昌・武田家を離反=織田方へ
    2月2日 勝頼、義昌討伐の為、信濃に出陣⇒これに応じた信長、甲州攻めの軍を起こす
    2月14日 夜10時 東天に赤い怪光見える(3月8日?)(備後でも目撃さる)
    2月 小笠原信嶺、依田信蕃、穴山梅雪ら、次々に叛す⇒勝頼、信濃から撤退
      ⇒昌幸、勝頼に岩櫃への退転を進言
    3月2日 信州高遠落城、勝頼の弟・仁科盛信ら戦死
    3月3日 勝頼、小山田信茂の勧めで信茂の居城=岩殿山城へ移るべく新府城を焼き払う
    3月7日 織田信忠、甲斐の古府中(甲府)へ進駐
    9日 →信茂叛し、勝頼孤立する
    11日 →勝頼(37才)と嫡男・信勝(16才)、天目山で自刃=武田家滅亡
      眞田昌幸、織田、北条双方に臣従の意を表す
      →上州厩橋城に入城した滝川一益に本領を安堵さる
      =信繁、人質として沼田城に留め置かれる
    4月3日 織田信忠、武田の菩提寺=恵林寺を焼き討ち
      ⇒快川国師、入滅「心頭滅却すれば………」
    5月14日 夜9時 大彗星現れて数日間輝く
    5月22日 →安土山(?)に落下(安土のセミナリオの修道士たちが目撃)
    6月2日 本能寺の変
      織田信長(享年49才)信忠(26才)没
    6月18日 甲斐で一揆⇒川尻秀隆、殺害される
    6月19日 神流川の戦い(滝川Vs北条)→織田勢関東から撤退
    7月 昌幸、北条氏直に属す
    9月25日 徳川と北条が新府付近で戦闘
    9月28日 昌幸、北条を離れ、徳川家康に属す
    10月29日 徳川と北条が和睦⇒沼田は北条に
    11月 昌幸、沼田城の明け渡しを拒否して北条と衝突
天正一一 1583 1月13日 上杉と羽柴が「同盟」
    閏1月 滝川一益、反秀吉の兵を挙げる→8月に降伏(一益は3年後に没=享年62才)
    4月20日 賤ヶ岳の戦い(織田信孝/柴田勝家/前田利家Vs羽柴秀吉/織田信勝/丹羽長秀)
    22日 利家、降伏
    24日 越前北ノ庄、落城 勝家(享年62才)お市の方(37才)自刃
    5月2日 信孝、自刃(享年26才)
    5月21日 家康、秀吉に戦勝祝いの使者として石川数正を派遣
    9月 秀吉、大坂築城に着手
    (この年) 昌幸、家康の助力を得て上田城築城を始める
天正一二 1584 3月 家康、秀吉との対戦に備えて北条と講和(沼田の眞田領を北条に割譲するのが条件)
      小牧の戦い(織田信勝/家康Vs秀吉/池田恒興/森長可)
    4月 長久手の戦い 恒興(49才)/長可、戦死
    11月 秀吉、信勝と単独講和
      →家康も講和に応ぜざるを得なくなる
天正一三 1585 2月8日 秀吉、家康と講和
    6月 上杉景勝、秀吉に臣従
    7月 長宗我部元親降伏し、秀吉、四国を平定
    7月11日 秀吉、関白職に就く(菊亭晴季の斡旋)
    7月15日 昌幸、家康からの沼田領を北条に明け渡せとの命を拒絶
      →徳川を離れ、上杉景勝に属す(間接的に秀吉に属すが「表裏比興の者」と評される)
    8月 信繁、人質として上杉家に遣わされる
    閏8月2日 上田城に徳川勢を迎え討ち、これを破る=第1次上田合戦(神川合戦)
      ※眞田勢1,200+農民兵3,000Vs徳川勢8,000
    9月28日 北条軍、沼田城に総攻撃開始→翌日撤退
    10月17日 秀吉、景勝を通じて初めて昌幸に書状を遣わす
    11月13日 徳川家重臣・石川数正、大坂方に寝返る
      →家康、上田再攻を断念
    11月19日 昌幸、秀吉に臣従する
天正一四 1586 5月 昌幸(40)、沼田城で北条勢を敗退させる
    5月 秀吉(50)の妹・旭(44)、家康(45)に輿入れ
    6月15日 上杉景勝(32)、大坂城で秀吉に謁見して臣従の儀
    6月 信繁(20)、景勝の留守中に春日山城から呼び戻され、改めて秀吉の下へ遣わされる
      (景勝、抗議するも秀吉になだめられる)
    8月 上杉景勝、新発田重家の謀反を討つ為、五十公野城へ着陣(眞田から矢沢頼幸ら参陣)
    9月 大政所を人質に出すことを条件に、ついに家康が上洛を受諾
    10月26日 家康、大坂城に赴き、正式に秀吉に臣従
    11月 昌幸、秀吉の命で徳川家康の寄騎となる
    11月 秀吉、『関東奥羽惣無事令』を出す
    12月 秀吉、太政大臣となり、豊臣姓を受ける
天正一五 1587 3月18日 昌幸、駿府で家康に会見
    5月3日 島津義久降伏し、秀吉、九州平定
    6月19日 キリスト教禁教令(高山右近、改易・追放)
    7月 北条氏、人改め令を出す=総動員令
    10月1日 北野大茶会(肥後の一揆の報に一日で中止)
    10月25日 上杉景勝、新発田城を攻略、重家自刃
天正一六 1588 4月14日 聚楽第へ後陽成天皇行幸
    4月 景勝再上洛、直江兼続(29)山城守に任官・豊臣姓を賜る(8月?)
    5月21日 家康、北条氏に上洛を勧告(従わねば離縁)
    閏5月24日 佐々成政、切腹
    6月5日 北条氏直、父・氏政が上洛すると伝える(時間稼ぎ?)
    8月22日 北条氏規(氏政の弟)上洛し、ようやく北条が恭順⇒改めて沼田問題を訴える
    9月 秀吉、関東の領国の境界を定める⇒沼田を北条に、名胡桃以西を眞田に
    12月7日 北条氏直、改めて名胡桃の帰属問題を訴える
    12月11日 北条氏、伊豆方面に布陣開始
天正一七 1589 1月 淀城完成、出産を控えた茶々が入城、以後淀殿と呼ばれる
    2月13日 信幸(24)、家康に出仕
      (後に家康の養女/本多忠勝の娘・小松姫を娶る)
    2月18日 方広寺大仏の鋳造始まる
    5月27日 秀吉の側室・淀殿が男子をうむ(棄丸と命名→鶴松と改名)
    6月5日 北条氏直、秀吉の使者に12月上旬の上洛を約束
    摺上原の戦いで、伊達、蘆名を倒す⇒関東奥羽惣無事令違反
    6月16日 景勝、佐渡を平定
    7月4日 秀吉、上杉と佐竹に伊達討伐を命じる
    7月 昌幸、秀吉の命で沼田城を北条氏に渡す⇒北条氏から礼がないことに秀吉激怒
    9月 秀吉、諸大名の妻子に上洛・在京を命じる
    10月10日 秀吉、関東へ向けて兵の動員令を出す
    11月? 名胡桃城事件
    11月24日 秀吉、北条征伐を宣言
    11月29日 北条氏規、酒井忠次を通じて徳川を味方に付ける工作
    12月7日 北条、氏政の上洛と引き換えに大政所を人質に要求
    12月10日 聚楽第で北条討伐の軍議
    12月24日 北条が陣触れ
天正一八 1590 2月10日 家康が駿府を出陣
    3月1日 秀吉、小田原征伐へ出陣
    3月18日 利家、景勝、昌幸らの北陸軍、碓氷峠を越えて関東へ侵攻
      (信繁、秀吉より部下を与えられて参陣=24才)(軍監に大谷吉継)
    3月29日 秀次軍、山中城を半日で攻略、箱根を越える
    4月5日 石垣山の一夜城
    4月15日 秀吉、家康・信雄の陣を訪問(両将の北条内通の噂を打ち消す)
    6月5日 伊達政宗、小田原参陣
    7月5日 小田原落城、後北条家滅亡(北条氏直翌年没30才)
      昌幸、秀吉から上田/沼田を安堵される(→信幸、沼田で分家)
    8月1日 家康が関東へ入府
    この頃? 小松姫の輿入れ(一七才?)
      信繁、再度上方へ
    12月20日 秀吉、立花宗茂らに大陸出兵の準備として肥前・名護屋城の整備を命じる
天正一九 1591 1月23日 豊臣秀長・没
    1月 京都に御土居を築かせる
    2月28日 千利休、自刃
    3月 九戸政実の乱(眞田清鏡参戦)
    8月5日 秀吉の長男、鶴松、没(3才)
    12月28日 豊臣秀次、関白となる(秀吉、太閤に)
文禄 元 1592 4月12日 文禄の役(=第1次朝鮮出兵)始まる
      (昌幸、幸村も肥前名護屋に参陣)
文禄 二 1593 8月3日 豊臣秀頼生まれる
    8月 朝鮮より撤兵(昌幸・信繁らも帰国)
    この年? 信幸の長男・孫六郎(信吉)生まれる(母・信綱女?)→小松殿を憚って誕生届けず?
文禄 三 1594 1月 秀吉、隠居所として伏見城の拡張に着手(昌幸、伏見城普請に用材を運ぶ)
      →信繁は伏見へ?
    8月24日 石川五右衛門処刑
    この秋? 信繁、秀吉から豊臣姓を許され、従五位下左衛門佐に
      →大谷吉継女(安岐姫14才?)を娶る
      →上田城改装・天守造営(金箔瓦の城へ)?
文禄 四 1595 2月7日 蒲生氏郷、変死(享年40才)
    4月16日 羽柴秀保、大和十津川で変死(17)
    7月 関白 豊臣秀次失脚→高野山で自害(享年28才)
      菊亭晴季、連座して越後へ流罪(眞田家へも累が及ぶか?)
      信繁、一端上田へ帰国
    8月 山城、大和、陸奥会津で大雨洪水が起こる
慶長 元 1596 1月 加藤清正、蟄居を命じらる
(文禄   4月4日 浅間山、噴火
五年)   6月27日 京から伏見、堺あたりまで謎の降灰(土器の粉のような)
    6月29日 京の北西の空に彗星出現(以後2週間ほど)
    7月26日 浅間山、再噴火
    閏7月12日 京畿に大地震(伏見城倒壊)→地震加藤、(方広寺も倒壊)
    閏7月15日 天から謎の毛髪のようなものが降る(火山毛か?)
    9月2日 講和交渉決裂し、秀吉、朝鮮への再出兵を決意
    この頃 信繁、再び伏見へ
    10月27日 文禄から慶長に改元
    11月4日 服部半蔵正成、没(55才)
    12月17日 拾、秀頼と改名
    この頃 沼田城に五層天守閣造営(完成は翌年か?)
慶長 二 1597 1月14日 慶長の役(=第2次朝鮮出兵)起こる
    3月1日 浅間山、また噴火
    5月4日 伏見城再建
    7月18日 秀吉、倒壊した方広寺大仏の代わりに善光寺如来を動座させる
    この年 信幸の次男・仙千代(信政)生まれる
慶長 三 1598 1月 上杉、会津へ移封
    3月 醍醐の花見
    5月 秀吉体調を崩し、主な武将を朝鮮から引き上げさせる
    8月18日 豊臣秀吉、没(62才)(秀頼6才)→朝鮮から撤兵
    8月19日 石田三成、家康襲撃を計画(?)
慶長 四 1599 閏3月3日 前田利家、没(62才)
    閏3月4日 加藤清正ら、三成襲撃計画
      →三成、家康に保護を求める→三成、隠居させらる
    9月 北の政所、大坂城を出る 代わって家康が大坂入城
    10月2日 大野治長、下総に流される
    11月 前田利長、謀反の疑いをかけられ、母を家康に人質に出す
慶長 五 1600 3月 上杉景勝の重臣・藤田信吉、出奔して家康の下へ(景勝に異心ありと訴える)
    4月 家康の使者が会津へ下向し、上洛を促すが景勝は拒否
    5月3日 景勝からの返書(直江状)に、家康、会津攻めを発令
    6月16日 家康、会津攻めに出陣=昌幸、信幸、信繁も参陣
    7月2日 三成、大谷吉継に挙兵を打ち明ける
    7月21日 昌幸の下に石田三成の密書が届く
      →下野犬伏で三者密談し、昌幸/信繁は西軍に、信幸は東軍に(犬伏の別れ)
    7月23日 沼田城の留守を守る小松殿、昌幸/信繁の入城を拒否
    8月23日 福島正則ら、岐阜城を攻略
    9月1日 家康、江戸を発って西上
    9月6日 昌幸/信繁、上田城に徳川秀忠の軍を迎え撃ち、これを撃破(=第2次上田合戦)
      ※眞田勢2,000Vs徳川勢38,000

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