■シリーズ全体のあらすじ

天正一○年(1582年)二月、天下統一を目指す織田信長は、最大の障害である甲斐 武田家を滅ぼすべく軍を動かした。 まさにそのさなか、二月十四日〜二十一日、東天(安土から見て甲斐の方向)に赤い怪 光が現れる―――吉兆か、凶兆か………。

三月十一日、天目山に孤立した武田勝頼は、一族と共に自害し、ここに武田家は滅び、戦国最強と言われた武田軍団は崩壊した。その一翼を担ってきた眞田家は、戦国乱世を独 自に渡っていかなくてはならないことになった。 その頃、信州眞田領のはずれ鳥居峠に住む郷士・鷲塚佐太夫は山中で男の赤子を拾う。 佐太夫には娘・小夜がいたが、妻に先立たれ、男子に恵まれなかったこともあり、この子 を自分の息子として佐助と名付けて育てることにした。 一方眞田家は、当主昌幸が信長の軍門に下り、無事に本領を安堵されたが、その信長は わずか3ケ月足らずで本能寺の変に倒れる。眞田領の周辺は北条、徳川、上杉の係争地と なり、昌幸は一旦北条に付くが、徳川家康からの招きに応じてその麾下となり、その協力 を得て上田城の築城に着手する。

だが、羽柴秀吉との対決を控えた家康は急遽北条と和睦し、その条件として眞田が領有 する上州沼田を割譲することになった。かつて北条から寝返った際の恩賞も空手形同然と なっていたところへこれを命ぜられた昌幸は怒り、家康を見限って上杉景勝を頼る。この時昌幸の次男・信繁(=後の幸村)は、人質として景勝の下へ遣わされている。 家康は激怒し、徳川十六将の内の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを将とする7,0 00の兵で上田城を攻めさせた。迎える眞田は1,200―――城も未完成である。 ところが昌幸は地の利を生かし、火攻め/水攻めでこれを翻弄し、多大の損害を与えて 撃退してしまった。ここに眞田の武名は天下に轟くところとなる。

面目を潰した家康は再攻を企図するが、重臣・石川数正が秀吉側に寝返るなどの大事が 出態し、ついに断念せざるを得なくなる。 その直後、今度は北条が沼田を狙ってくるが、昌幸はこれも撃退し、その実力を認めさ せるところとなる。 おそらくはこれらの勝利が秀吉に"受けた らしく、昌幸から臣従を申し出られた秀吉 はこれを快く許し、人質として出仕した信繁を重用するところとなった。 実は信繁は既に上杉に人質として入れていたのを、景勝が秀吉の下に伺候して留守の間 に勝手に呼び戻して秀吉の下へ出仕させたもので、景勝は激怒するが、秀吉になだめられ ては納得するしかない―――昌幸としては秀吉の家来の陪臣になるのを嫌ったのだ。

やがて家康が秀吉に臣従することになると、秀吉の命で家康と昌幸は和解し、同じ関東 勢として昌幸は家康の与力の立場となる。 この際、昌幸の長男・信幸は家康に出仕し、家康の養女(徳川の重臣・本多忠勝の娘) を娶った。

九州を平定した秀吉は、次の標的を小田原の北条氏に定め、北条討伐の大義名分を求めて罠を掛ける。かねてからの北条の要求に応える形で、眞田領の上州・沼田を北条に割譲 するが、同じ領内の名胡桃城のみ「眞田家父祖墳墓の地につき、眞田に残す」ことにした のだ。「父祖墳墓の地」など真っ赤な嘘である。要は北条の鼻先に名胡桃城と云う餌をぶ らさげて見せたわけで、北条はまんまとこの餌に食らい付き、半年と経たずして名胡桃城 を奪取する。 ここに秀吉は北条征伐の軍を起こす。眞田は上州攻略の先方として参陣し、信繁も秀吉 から部下を与えられて参陣している。 北条を滅ぼし、東北の諸大名も従わせた秀吉は全国の平定に成功し、昌幸も上田・沼田 の本領を安堵されている。

翌年秀吉の長男・鶴松が三才で死去。秀吉は甥の秀次に関白職を譲り、自らは朝鮮出兵 に専念するようになり、昌幸/信繁も肥前・名護屋に参陣している。 翌年、秀吉に二男・御拾(後の秀頼)が生まれると、また事態が変わって来る。 翌文禄三年、関白秀次が失脚。さらに羽柴秀保が変死する中、信繁は秀吉から豊臣姓を 許され、豊臣信繁として従五位下左衛門佐に叙任する。これはまさに秀吉が信繁こそ秀頼 の後見に擬していたことの現れであり、これが後の信繁の選択に大きく影響して来る。 この頃、全国に天変地異が相次ぐ。 朝鮮に再出兵した秀吉だったが、病状が悪化し、その死に際して撤兵を遺言する。

秀吉に続いて前田利家も没すると、家康の勢力が伸長し、石田三成/大谷吉継等との対 立が深まってくる。三成は昌幸と妻同志が姉妹であり、信繁の妻は吉継の娘である。 やがて慶長五年、家康は会津・上杉景勝を討つとの名目で軍を起こし、眞田家も従軍す る。だが、これは三成らを挙兵させる為の家康の罠であった。下野・犬伏の眞田の宿陣に石田三成の密書が届き、西軍の挙兵を知らせると共に信濃/ 甲斐二国を与えるとの条件で協力を求めてきた。 昌幸は嫡男・信幸を呼び寄せ、信繁と三人で相談する。―――結果、昌幸/信繁は西軍に、信幸はこのまま東軍に、それぞれ引き別れることになった。これは、東西どちらが勝っても眞田の家は生き残れるとの策略でもある。 昌幸と信繁は急遽兵を返し、上田に篭城。わずか2,000の兵で38,000の徳川 秀忠軍を迎え撃ち、これを足止めすることに成功する。これにより関ヶ原での西軍と東軍 の戦力比は100,000対90,000となり、西軍が優勢になるはずであった。しか し西軍諸大名の戦意不足と裏切りのために戦局は逆転。関ヶ原の合戦自体は東軍の勝利に 終わり、天下は徳川家康が掌握するところとなった。

上田城に立て篭もった眞田父子の立場は極めて危険なものとなったが、信幸の必死の助 命嘆願が実って、高野山への流罪と決まる。

昌幸/幸村(信繁から改名)は高野山の麓の九度山に蟄居しつつ、再起を期す。その際問題になるのは軍資金である。 幸村は18才の青年に成長している佐助ら十勇士に、それぞれ任務を与えて諸国に派遣 する。

(この辺の諸国漫遊はオリジナル・エピソードと、この時代の有名人をからめて展開する。秀頼、千姫、淀君、家康、秀忠、加藤清正らが絡む表の政治闘争。柳生一族や服部半蔵らとの闇の戦い。伊達、島津ら地方の雄の思惑。九度山を監視する浅野長晟、後に戦うことになる前田利常、松平忠直、松平忠輝、さらに後に共に大坂に入城する長宗我部盛親、明石全登、後藤又兵衛、木村重成らも顔見世しておく。 また出雲の阿国、武蔵と小次郎らと出会ったり、岩見重太郎の狒退治に協力したりするエピソードも考えられる。また、海野らが大陸の帰路に琉球に寄るなど、地理的な広がりも持たせる。)

慶長16年、古希を迎えた家康は焦りを感じ、非常手段に出る。家康が恐れたのは大坂 方が秀頼を旗頭にいただいて、加藤清正が総大将、眞田昌幸が軍師となった場合である。 この年の六月、昌幸、清正が相次いで倒れる。表向きは病死とされたが、半蔵らによる 毒殺であった。昌幸は幸村に策を残して息をひきとる。 前後して豊臣恩顧の大大名が次々と死んでいる。浅野長政、池田輝政、浅野幸長――

翌慶長19年、幸村は秀頼に招かれ、十三才になった一子・大助と十勇士を伴い、一方 の大将として大坂城に入城する。

そして………

 

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