たけうち  よしみ
 竹内好 研究よ興れ
               
井出孫六
 (T)

 竹内好(よしみ)という思想家がいたことを、最近の若い人たちはほとんど知らない。年譜の冒頭に「1910年長野県南佐久郡臼田町に生まれる」とあり、わたしは同郷のよしみもあって何度かご自宅にうかがう機会があったが、いまにして思えばもっとあけすけに郷里とのかかわりを聞いておくべきだったと悔やまれる。
 幸い『竹内好全集』巻末の年譜にその出自は詳細されており、旧臼田町に戦後まで残っていた木造三階建ての旅館料亭風の建物が母堂の生家で、竹内さんはここに誕生したことがわかる。父君の東京転勤で幼少の思い出は刻まれなかったはずだが、夏の墓参は欠かさなかったというところに、竹内さんの郷土意識をかいま見ることができる。
 竹内家に婿養子として迎えられた父君の実家は松本近在の郷土で、縁戚にアララギ派の歌人・鋳金工芸作家の香取秀真(ほつま)や柳田国男の高弟楜沢勘内のいることなども年譜で初めて知った。
 柳条湖事件に端を発する「満州事変」の起こった1931年、東大文学部支那文学科に入学した竹内好は、郁達夫や魯迅の作品にめぐりあうことで、漢籍偏重の支那学とは全く異なる新しい潮流が大陸に生まれつつあることを知り、武田泰淳、岡崎俊夫、増田渉、松枝茂夫らと語らって「中国文学研究会」を組織していくことになる。滔々たる大陸侵略の潮流に叛く若い仲間の前途には、多くの障害が次々にまちかまえていたであろう。
 わけても日中戦争が泥沼化する中で、中国文学研究会のメンバーには狙い撃ちされるように「赤紙」がやってきて、大陸の戦場に駆りだされていくことになる。武田泰淳の『司馬遷』、竹内好の『魯迅』は召集令状にそなえて遺書のようにして書きあげられた記念碑的な作品であった。出生の直前『魯迅』を脱稿した竹内好は一兵卒として中国戦線に送られ、1945年8月、湖南省岳州で敗戦を迎え、1946年7月に復員した。
 戦後、竹内さんの評論活動はきわめて多面的であったが、戦時中の体験を踏まえて日本の思想、日本人の精神の根源的改造への希求にあった。その竹内好の著作が、いま中国で熱心に読まれ始めているという。      (信濃毎日新聞06.2.9夕刊)


 (U)

 戦後を代表する思想家の一人、丸山真男さんの父君が信州松代の出身ということもあって、竹内さんと丸山さんは後に同じ吉祥寺に居を構えて親しく交わった。
 敗戦が目前に迫ったころ、ポツダム宣言の中に「基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とあるのを知って喜びを他に知られないように苦労したという丸山助教授(当時)の回顧談に対して、湖南省の戦地で敗戦を迎えた竹内一等兵は「天皇の放送は、降伏か、それとも徹底抗戦の訴えかであると思った。ここに私の日本ファシズムへの過重評価があった。私は敗戦を予想していたが、あのような国内統一のままでの敗戦は予想していなかった」とし、「よろこびと、悲しみと、怒りと、失望のまざりあった気持ち」で迎えた8.15は「私にとって屈辱の事件」だったと回想している。
 『竹内好という問い』(岩波書店刊)の著書、孫歌氏(中国社会科学院文学研究所研究員)は、すでに日本人の多くが塵箱(ごみばこ)に投げ捨てようとしている61年前の敗戦体験と、微妙に異なる政治感覚の違いに踏み込みながら、2人の戦後思想家の思考の軌跡を後づけており、そこに自(おの)ずと中国の新しい世代の竹内好への問題意識が浮き彫りとなっていて刺激的だ。
 −戦後思想は、日本人が日本人の歴史を批判する、自己批判というかたちで構築されてきました。これはおそらく東アジアのなかで唯一のケースだと思います。
 −丸山真男の早い時期のやり方は「分析」という意味ではうまくいきました。けれども、問題を解決することはできない。すなわち、日本という「主体」をどう形成するかという問題は、その分析だけでは出てこない。
 −ナショナルな感情について、竹内は何度も問題を提起しましたが、同時代の人たちはそれにうまく対応することができませんでした・・・(略)・・・中国でなら、竹内好の努力は危ういことにはほとんどならない。しかし、日本の場合にはこれは非常に危険に見えるのです。危険に見えるから否定するのは賢明ではない。今こそ竹内をお粗末な「日本主義」から選び出すチャンスだと思います(『世界』2月号から)。
 竹内好のアジア主義に佐久間象山が唱えた「東洋道徳、西洋芸術」を重ねてみたい。    (信濃毎日新聞06.2.16夕刊)


<参考>
『竹内好という問い』(孫歌)の紹介

竹内好という問い 著者/訳者名 孫歌/著
出版社名 岩波書店
発行年月 200505
サイズ 321P 20cm
価格 3,780円(税込)


本の内容

本書は、『アジアを語ることのジレンマ』(岩波書店、二〇〇二年)によって日本のアジア研究の主体性を鋭く問題化した著者による、一〇年におよぶ竹内好との思想的格闘の記録である。竹内は魯迅から、思想において重要なことは内容それ自体ではなく、それが主体的であるかどうかだということを学んだ。著者によれば、竹内は政治的正しさを引き換えにすることを恐れず、その課題にまっすぐぶつかったのである。間違うことを恐れて常に模倣のためのお手本を求めてきた優等生文化の近代日本においてはいうまでもなく、魯迅を生んだ中国においてさえも、このような思想実践は稀有のことに属する。著者の願いは、魯迅を最も深いところでつかんだ竹内の思想実践を、いま新たにアジアの思想遺産として学び直し、その作業をつうじて普遍的な思考営為への展望を切り開くことにある。


目次

第1章 魯迅との出会い(支那学者たちとの論争
『魯迅』の誕生)
第2章 文化政治の視座(近代をめぐって世界構造としての文学
民族独立の文化政治)
第3章 戦争と歴史(歴史的瞬間における「誤った」選択
主体が歴史に分け入る渇望)
第4章 絡み合う歴史と現在(敗戦体験の深化戦争責任論と文明の再建
安保運動戦争体験の「現在進行形」
内在的否定としての「伝統」)
第5章 「近代」を求めて「近代の超克」座談会の射程(座談会の基本的論郭
竹内好の「近代の超克」
荒正人の「近代の超克」
広松渉の『「近代の超克」論』
西尾幹二の『国民の歴史』)