中華人民共和国55周年・日中航空協定30周年記念講演
         
「私と中国・日中関係の課題」
                 
  野中 広務  (社)日中友好協会名誉顧問

1.協会の名誉顧問に

 去年の暮れ平山郁夫先生から、日中友好協会の名誉顧問が竹下登先生と、村山富一さんと2人だったんだけれども、現在1人欠けたままになっているので中国と関係の深いあなたに、名誉顧問になってもらいたい、というお話がございました。私は皆さん方の賛同が得られてお役に立つことが出来るならと言ってお受けしました。

 そして今年6月の大相撲中国公演の関係で4月、北の海理事長の記者会見に団長として同行致しました。親交が厚い曽慶紅国家副主席はじめ中国の皆さん本当に気を使ってくれて熱烈歓迎をしてくれました。6月北京場所は村山元総理に団長になって頂き、上海場所は私が団長を務めまして、お陰様で成功裏にこの両場所を終りました。

2.私と中国・南京とのかかわり

 私と中国との係わりは昭和45年、京都府会議員をやっておる時、自分の後援会250人を連れまして、上海、更に蘇州、南京と旅行を致しました。
 南京に着きましたら南京の城壁の所で一人の後援会の人が城壁の壁にへばりついたまますくんでしまって、動けなくなってしまった。看護婦を呼んで強心剤を打ちまして、ようやく50分ほどして回復をしました。どうしたんだいと言ったら、「私は南京攻略のこの地におった、だからせめて自分の生きている内にと思って来させてもらったんだけれども、ここに来て、足が地の中に吸い込まれるようになって体ががたがたがたがた震えて、当時を思い起こしてどうにも立ち上がることが出来なかった」、「南京城を攻めて来る時に大きな墓地が有ってそこに中国の兵隊が5人倒れていて、我々が行ったら命請いをして手を合わして、見るとそれぞれ負傷をしてもうそんなに長くないなあと思われる人達だった。俺はこの5人に1滴ずつ水筒の水をこう飲ませてやった。そしたらこの人達は我々の姿が見えなくなるまでずっと手を合わせて見送ってくれた。
 戦争だからいろんなことが有った。それは南京城内に入り込んだ時に大きな土蔵が有った、そこへ攻め込んだ時にばあっと扉を開けたら女性と子供ばかりだった。だから私が、ここは女性と子供ばっかりだと言って立ち塞がったら上官が、何を言っているんだ、その中に便着隊がおったらどうするんだと、全部やれと言われてそして心を鬼にして全部女子供に至るまで命を奪ってしまった。
 それからずーっとその時の光景が忘れられず、その南京を今自分の足で踏みしめて、あの時せめて一人でも生き残ってくれた人がおるだろうかと、そんな気持ちでいたたまれなくなったんです」と涙をはらはらと流してくれました。

3.曽慶紅氏との友情

 丁度私が自由民主党幹事長代理になりました時に、団の諸君とともに、訪中を組みました。その時加藤紘一さんが、一度会っておいた方が良いと、教えてくれましたのが、当時の曽慶紅組織部長です。
 私は曽慶紅さんと会った翌日、南京に虐殺記念館が出来たと聞いたのでをそれを訪問したいと言いました。日本大使館はびっくりしまして、貴方が日本の政治家で初めての人ですと、初めてでも10番目でも良いじゃないかと、俺は南京に思い入れが有るから行くんだと、こう言って行くことにしました。結果としてあそこに行ったのが日本の政治家で最初で、2番目が村山富一さんであったと、そういうことが今日まで中国との信義を重んずる関係になってご縁を得たんではないかと思っておるわけでありますが、確かに勇気は要りました。この時電話を掛けて来て、野中さん行ってくれたんだってね、ありがとうと言ってくれましたのが、平山郁夫先生でした。

 私はだいたい中国に行って、日本として言わなければならないことは全部言います。そして向こうの話を聞いてそこは違うとか、いろんな話を率直にし合います。だから曽慶紅副主席とも親しくなりましたのはそういう歴史観の違い価値観の違い等について、お互いに日本と中国との違いを積極的に言い合ったことがあの人と非常に今日まで友情を保つことが出来たんではないかと思います。

4.靖国問題について

 3年ほど前に、中国の唐家旋外務大臣が日本の田中真紀子外務大臣に「総理が、靖国神社に参拝しないよう厳命した」というニュースが話題になりました。丁度私は北戴河に招待されて中国にいましたので、北京で唐家旋さんに会い、「私は、靖国問題では必ずしも小泉さんと意見が一致しているわけではないが、中国を代表する外交官のトップが日本の外交官のトップに厳命したとは、これはあまりに内政干渉ではないか」と話しました。これは言葉の行き違いだったようで、唐家旋さんも「記者団に弁明します」と言ってくれ、その後お互いに靖国問題について話し合いました。

 靖国問題に対する私の考え方は一貫しております。
 靖国神社は明治の始め明治維新を成し遂げたあの革命の志士達の中で官軍として戦った人を招魂社に祀ったのが最初です。以来、天皇陛下の軍として戦死をした人を祀るということで来たわけであります。従って戊辰の役で賊軍とレッテルを貼られた会津藩の人たちや西郷隆盛さん以下西南の役に従軍した薩摩藩士は祀られておらないのであります。又、明治天皇と一緒に自ら命を絶たれた乃木稀輔将軍や、あの困難と言われた日本海海戦で実に見事な戦果を収められ、勝利に導かれた東郷平八郎海軍元帥も病死をされましたので靖国神社には祭られておりません。
 昭和20年の敗戦によって多くの人達を祀るようになりました。極東裁判はこの戦争を起した責任は14名のA級戦犯にあるとし、これを日本も認めて、昭和27年サンフランシスコ講和条約に調印して独立国として再スタートしたのであります。そして昭和28年、BC級戦犯を改めて靖国に祀ることになったのであります。それからずっと昭和天皇も春秋の例祭でお参りになっておられました。
 ところが昭和53年、松平という海軍出身の宮司さんが、戦争によって勝った方の軍隊が裁いた裁判を正当と見てA級戦犯を祀らないというのはおかしいということで、A級戦犯が靖国に合祀されることになったのであります。このことは周囲には伏せられていましたが昭和54年、これが新聞報道され、世の中に明らかになったのであります。従って昭和54年秋の例祭から、昭和天皇はお参りされておりません。平成天皇も靖国には春秋例祭を含めてお参りにならないという道ができてしまったのであります。中曽根内閣の時に中曽根さんが公式参拝をおやりになりましたけれども、国内外からの批判が強くて一度きりでお止めになりました。
 ところが4年前のあの総裁選挙におきまして、小泉純一郎総裁候補は「8月15日私は靖国に参拝をする」という大公約を打ち立てられました。これは私のひがんだ見方かも分かりませんけれども、軍人恩給と傷痍軍人と遺族会は大体、総裁候補橋本龍太郎の支持でありました。これを足元からがっと抉るのは靖国神社公式参拝を言うのが勝利の道だと考えたんでしょう。それまであの人がそんなに靖国のことに一生懸命気張ったという歴史を知りませんから。

5.戦後処理に力を尽くす

 私は20世紀に起きた問題は20世紀に解決しておきたい、それが戦争を体験してきた私どもの責任なんだと政治の道を歩みながら考えて参りました。
 小渕内閣の官房長官になりました時に、今中国の大使をしております、阿南外政審議室室長が中国問題で報告をした中に、旧日本軍が70万発の化学兵器を中国各地に遺棄して来た問題がありました。日本はこの化学兵器を日本に持って来て日本で処理しますと、こう書いて協定を結んでおります。それは現実には不可能なことなので、中国の現地において日本の金で中国人民のみなさんの協力も得ながら処理させて頂くと、こう変えて来いと、言って阿南君はようやくこれを変えて来てくれました。
 丁度去年で3回目、4千発の処理が終わりました。70万発の内の4千発、だからとても私の命の有る間は見られないなあと思うほど難事業であります。チチハルでこの間事故が有りました。これはこの70万発に記録をされておらない場所から出てるわけでありまして、我々にはこういう重い荷物がたくさん残っております。

 確かに中国とは3千年に及ぶ長い交流を重ねて参りましたから、この中の僅かな期間、不幸な戦いが有りましたけれども、両国は友好裏に歴史を刻みそして、歩んでくることが出来ました。しかし、この間の重慶や北京のアジアサッカーに見られるように、何故か靖国神社に総理が参拝するとか、すると鋭敏に向こうに響く。この間なんか8月15日に参拝をされますかと聞かれると、「今年は初詣をしたからもうしない。来年はまた行く」と。後の来年がいらん。その後重慶のアジアサッカーが有ったわけであります。ちょっとした言葉が、鋭敏に向こうに響く。もう本当にすごい勢いでインターネットが普及を致しました。だから日本の新幹線を買うなというのがうわーっとインターネットで出るわけですね。 

6.経団連訪中の橋渡し

 去年の8月25日、また古賀君、二階君、太田君と一緒に行きましたが、この時も唐家旋さんが、最初迎えてくれましたので、「唐家旋さん、日本の経済界が2回も訪中をして、そして奥田会長以下が、中国の温家宝国務総理と会いたいと言っておるのに2回ともケッチンをするというのはおかしいじゃないか、いやしくも今日本の企業は中国の発展ために大きな貢献をしてるはずだ」と言ったら、唐家旋さんはちょっと待って下さい、調べますと言って、食事を中断して出て行きました。そしたら帰って来て、「野中さん聞いてくれよ。実は日本の経団連の事務局から、うちの奥田会長がこの日に中国に行くから、温家宝首相と会いたいと、こうこっちの経済団体の事務局に言って来られた。そしたらその日は総理は空いてなかったからその日は日程が詰まっていますと言ったら、ああそうですかと引かれたんだ。もう1回同じことが有った。その日も残念ながら詰まってたので、お会いすることが出来ませんと言って断ったそうです。あなたの隣に阿南中国大使がおるけれども、外交ルートでありましたか、ないでしょう。だから今野中さんが来てえらい馬力で怒ってると、言って話をしたら、そんなに野中さん怒ってるなら、11月下旬で今度は外交ルートを通じて打合せをしてもらえないかと、そしたらちゃんと会わして頂く、そんな失礼なことは致しませんと温家宝総理は言っています」、というので帰って参りまして私はすぐ自民党の事務局長に、連絡をさせました。そしたら和田事務総長から、お陰で11月の下旬で日程を詰めさせて頂きますと、喜んで電話が掛かり、無事11月に訪中をして頂きました。(中略)

7.日本の実情を知らせる

 日中間というは3千年の歴史を持って参りましたけれども、お互いに僅か50年足らずの間に不幸な歴史を重ねてしまいました。中国は行く度に変ってゆきます。インターネットがものすごいスピードで発展をしております。北京とか大連とか青島とか或いは上海とかこういう沿岸部の都市はもう目を見張るような発展です。高速道路なんか日本は40年掛かって、今9432キロ内7400キロ出来たとこなんですよ。中国は、今すでに6000キロ、6車線の高速道路が出来ているんです。だからあんたんとこは中国共産党という名前は変えても良いけれども、この土地の国有化というのは変えるなよ、これが日本の経済発展の足をどれだけ引っ張ったか分からない、それがあんたんとこの成功の道だと、こんな話を冗談にすることが多ございますけれども、そういう話を出来る間柄を嬉しく思っております。

 3年前の8月行った時に、私は靖国の歴史について先述したように申しました。そして大体日本人の宗教観はあんたんとこと違うんだと、わかり易く言えば、日本人は、12月の24、25日が来たら、西洋から来たクリスマスだイヴだと言って大騒ぎをして、1週間経ったら東洋から来た仏教徒にかわって、お寺に行って鐘叩いてその足で、神社へ行って初詣だとやるんです。この1週間の間に日本古来の神道は勿論、東洋から来た仏教徒となり、そして西洋から来たキリスト教徒となって、何一つ不思議に感じんとこの行事を1週間の間に片付ける、世にも不思議な民族なんだと、東西両文明を民族固有の文化を持ちながら、東西両文明を完全に吸収して来た民族なんだと。わかり易く言やあ、朝味噌汁食って、日本古来のおみおつけ食って、そして昼中国から来た中華そば食って、夜西洋から来たビフテキ食って下痢しないのは日本人だけなんだよ、それでまあ笑い話で中国の大勢の人がおった時は話をするんですが、やっぱり私は、向こうの大衆に向けてやる努力をしなければ相互の理解は出て来ないと思います。

 朱鎔基総理と話をした時に、西部開発への協力を要請されたことがありました。その時、私は「あなたの国の若い者でさえ行かない所に日本がどうして行けるんですか。労賃が安いから生産し、日本にまた持って帰り、国際市場を相手に売っている。それが段々労賃が上がって中には数十倍にもなっている所があり、そろそろベトナムやカンボジアへ工場を持って行こうかという企業すら出て来ていますよ」そう申し上げたら、さすがは朱鎔基さん、「何とかこの東西格差を埋めたいと思ってお願いをしました。あなたのおっしゃることは一々ごもっともです。せめて2008年のオリンピック、更に2010年の万国博が終わるまで待って下さい。そしたら必ずあなたの言われた信頼関係に応えられる中国になってみせます」とおっしゃいました。「そんな時代が来たら中国は偉大な国になって、大きな経済大国のアメリカと仲良くなって、日本は北の方の離れ小島になるんじゃないですか」と言ったら、「いやあ我々は信義を忘れるような国ではありません」と言っておられました。
 中には言いたいことを言うといってびっくりする人もいますけれども、私はやっぱりそれぞれの所でお互いがお互いの価値観を見合す努力して行かなければ、歴史の傷跡の残っている日中間の溝はまだ埋まらないと思います。

8.信頼関係をもとに強い絆を

 考えてみれば、胡錦涛国家主席が就任してから一度も日本を訪問したことが無い。ASEANやその他の会合でお会いをすることが有っても、小泉総理が正式に日本の総理として訪中をしたことは無い。こんな異常なことが3年半も続いて本当にいいんでしょうか。アメリカ一辺倒のような日本の状態で本当に良いだろうかと考えてしまいます。

 かって我々は、漢字文化を共有しそして長い歴史の恩恵を受け、文化の恩恵を受けた、一番近隣の一衣帯水の国であるこの中国や朝鮮半島やアジアの諸国と、信頼関係に基づく強い絆を持つような努力を21世紀に向けてやっておかなければ、若い人たちに大変申し訳が無いのではないかと思うわけでございます。

 今こうしてご熱心に長野の地においても日中友好のためにそれぞれ党派を超え、それぞれのいろんなお立場を超えて協力を頂いておる皆さんのお考えもまたそこに有ろうかと思うわけでございます。私は老兵でございますけれどもこれからも命の有る限り言葉の続く限り日中の信頼関係構築のために、そして日本が再び不幸な戦争への道を歩まないための努力をささやかなりともやって参りたいと考えておる次第であります。