日中関係で進む2つの構造変化

                             神奈川県日中友好協会会長  久 保  孝 雄


<経済関係は補完から一体化へ>
 ここ数年、日中関係には大きな構造的変化が起きている。この変化は日本国民にとって明治以来130年ぶりに起こったはじめての体験であり、これまでの中国認識、中国とのつき合い方を根本から改めなければならないという意味で、民族的な試練でもあるとも言える。この試練をどう乗り切るかで日本の運命も決まってくる、それほど大きな問題である。
 この構造変化の第一は、日中の経済関係が相互補完の段階から、融合・一体化に向けて進み始めていることである。経済面に関する限り、日中間の国境の壁が日増しに低くなり、日本企業2万4千社の中国進出、最大の貿易相手国がアメリカから中国に移ったこと、最近の景気回復がもっぱら中国特需によるものであることなどを見ても、中国経済なしに日本経済は成り立たなくなっていることが分かる。

<危機感で進む政治の冷却化>

 第2は、経済のボーダレス化、融合・一体化の流れに逆行するように、政治関係では相互反発と冷却化が進んでいることだ。中国で「政冷経熱」と言われているゆえんである。その直接的な原因は、小泉総理の靖国神社参拝問題であり、また多くの保守政治家が繰り返す過去の中国侵略の歴史を無視したり、美化したりする言動への中国からの反発にある。
 しかし、こうした言動がしばしば起こっている背景には、もっと深い要因がある。それは、日中の総合国力における力関係が、明治以来、特に日清戦争(1894−95年)における日本の勝利以来の「衰退中国、新興日本」ないし「先進日本、後進中国」という関係から「躍進中国、停滞日本」に変わり、さらに「日中対等の時代」に移ってきていること、そして、近い将来、「中国の優位の時代」に向っていくのではないか、という危機感や警戒心が日本の保守層を中心にかなりの日本人の間に広がっていることである。それが反中、嫌中といったナショナリズムを生む経済的根拠になっている。

<失われた百年を回復する中国>
 考えてみれば、中国は有史以来19世紀初めまで日本に対して常に先進国であった。古代の稲作、仏教、漢字などをはじめ、日本文化の源流はすべて中国にあった。中国文化、文明なしに、今日の日本文化はなかったのだ。
 また、中国は19世紀はじめまで、世界のGDP(国内総生産)の3割をしめる経済大国であったが、西欧列強が襲いかかり、アヘン戦争(1840−42年)の敗北以来、列強の植民地支配を受け「衰退する中国」に変った。一方、日本は明治維新(1894年)の成功で、日清・日露(1904−05年)の戦争に勝ち、列強への仲間入りを果たし、脱亜入欧路線を突き進んだ。
 この過程で「衰退中国、新興日本」の力関係が生まれ、国家主義的教育・宣伝によって、また15年に及ぶ中国への侵略戦争によって、国民の多くが中国を敵視・蔑視するようになった。この傾向は、戦後日本が、中国の対日賠償請求権の放棄によって早期に回復し、経済成長に成功して先進国に仲間入りすることによって、「先進日本、後進中国」のイメージを更に固定化させることにつながった。
 いま、この関係に大きな変化が起こってきている。中国は改革・開放による社会主義市場経済への転換で、年率10%近い驚異的な経済成長を続け、20年目の2000年には工業生産高で世界一になり、「世界の工場」に生まれ変わるとともに01年にはWTOに加盟し、04年には先進7カ国の財務大臣、中央銀行総裁会議に招かれるまでに、世界経済における存在感を急速に高めてきている。

<競合・競争から共生の関係に>

 GDPで中国が日本に追いつき追い越す日は10年以内と見られており、政治や文化を含めた総合国力でも中国が日本を追い越す日も迫っている。巨視的に日中間の歴史を見れば、日本が中国に対して優位を保つことができたのは、2000年の歴史の中でわずか130年余りに過ぎず、それはむしろ特殊な時代であり、中国が「失われた100年」を回復しつつあるのは長い歴史から見れば自然の流れと言えるかもしれない。
 私たちは、こうした歴史の流れを冷静に踏まえ、130年ぶりに訪れた日中関係の構造変化を、偏狭なナショナリズムに囚われることなく、競合・競争ではなく、共生関係の構築によって"ウィン・ウィン"(双方が満足できる)関係実現の必要がある。
 「先進中国、超先進日本」となるか、「先進中国、衰退日本」となるか、これから10年が日本の運命を決める分かれ道になるであろう。

 (神奈川県日中友好協会会報「日中の輪」80号から「日本と中国」2005.3/15号に転載されたもの)

 *久保氏は東京外大中国語科卒、中国研究所勤務を経て神奈川県庁へ、副知事など歴任。2000年から神奈川県日中会長