<日中友好交流会議資料>
長野県日中友好協会の歩みと課題  

長野県日中友好協会の歩みと実践を紹介し、日中友好の意義と運動のあり方・課題を共に考えていきたい。

<長野県における日中友好の前史>
 長野県は戦前、軍国主義の国策によって推進された満州開拓団の送出において日本全体の12%(3万3千人)を占めた。敗戦時、そのうちの約半数の人々が無残な最後を遂げた。残留孤児問題も戦後50余年を経ていまだ尾をひいている。同時にまた、日中戦争においては数多くの青年が侵略兵として徴兵され、中国各地に送りだされた。特に、河北省には松本50連隊が戦闘部隊として又、島兵団の構成員として約3千人が駐屯した。さらに戦争末期労働力が不足すると、それを補うために河北省を中心に2130名余りが県内木曽川水系や天竜川の平岡ダム建設工事のために連行され、内240名余りが悲惨な死を遂げた。

<友好の決意−−新しい出発>
 戦後の日中友好は軍国主義のもたらしたこれらの深い傷を癒し、軍国主義的錯誤に対する反省に根ざした国民運動として、民族的良心の証として出発した。戦後の国際社会は東西両陣営の激しく対立する冷戦構造の中におかれていた。
 そうした状況のなかで、新中国の誕生と時を同じくして内山完造先生らの精力的な努力によって、日中友好協会の設立準備が開始され、翌年には全国組織がスタートした。特に長野県は戦前の満州開拓団送出日本一という深い関わりを持っていたので、開拓団関係者の現地訪問の希望はひときわ大きかった。友好協会が呼びかけた軍国主義的錯誤を改め、戦時中中国から強制連行され殉難した人々の遺骨収拾と慰霊・遺骨送還という人道の事業に積極的に協力した。そうした基礎の上に、日中友好協会に対する県民の関心は高く、続々と各地に支部が生まれた。1956年9月には各地区の支部を併せて協会の県連合会組織が発足した。50年代60年代は日中戦争の反省を踏まえて日本政府に中国敵視政策を改めさせ、1日も早く国交の正常化を求める運動は、大変な困難を伴う事が多かったが、この「民族の良心の証」としての運動は当初から各界の人々の共鳴を呼び、多くの国民・県民の共感を呼んだ。運動の紆余曲折は免れなかったにもかかわらず、国民的期待のなかで、日中友好協会はそのつど日中両国の架け橋として、細く険しい道を次第に広げてきた。

<日中関係の一大転換点−−国交正常化と友好協力へ>
 国際情勢の変化と日中両国民世論の圧倒的支持をバックに1972年、共同声明が発表され日中国交正常化が実現した。すなわち日中両国のあいだに張られた人為的障害である中国封じ込め政策は破綻した。これによって、日中関係は巨大な変化を見るに至った。72年の正常化から78年の平和友好条約締結までの6年間はこの戦後史の中の重要な出来事をより国民的県民的視野で認識し確認していく時期であった。中国においても、「文化大革命」の終結と「四人組」の追放、「四つの現代化」を主目標に掲げた国づくりへと転換していく時にあたった。友好協会もこの時期に国交正常化が各分野に与えた巨大な意義を踏まえ、より広範な各界・各分野の人々の共同の事業として、国民的県民的日中友好運動のあり方を追求し大きな転換を遂げた。75年の「大学習運動」がそれである。協会は日中友好協力の新時代を迎えて、いよいよ各分野の具体的・実際的な諸交流の推進を決意した。
 1977年の「日中友好長野県民の翼」には県知事を団長に各界の代表135名が参加した。この代表団の派遣によってその後の県内友好運動は大きく広がった。さらにこの時の河北省石家荘市訪問によって、後に長野市は石家荘市と友好都市提携を実現したし、長野県は河北省との友好提携へと進むこととなった。

<本格的な友好交流の時代>
 78年の平和友好条約の締結は、日中両国の本格的な友好交流の時代の訪れを象徴していた。両国の永遠の平和・友好と覇権反対の精神が明記され両国の大規模な経済・技術・文化交流推進の拠り所となった。中国ではこの年、11期3中総の決議がなされ改革開放推進の方針が打ち出された。80年代に入るとこの方針は、具体的に各分野に定着していった。日中双方の受け皿づくりはこうしてさらに前進を見た。
 県内でのこの実際交流の時期に於ける受け皿づくりは、各分野で活躍している有為の人々の要望に沿って、その人々と提携して行われた。県をはじめ自治体や関係友好団体との連携のもとに実施委員会等を構成して進められた。農業、医学、経済、スキー、文化、スポーツ等の分野で、全国的に見ても先進的な交流を推進することができた。

<多様な友好交流実践>
 現在県下には、30の地区協会と青年・女性の委員会があり、約3千名の会員がいて、日中友好にかかわる幅広い活動を創意工夫を凝らして、県レベル、地域レベルで取り組んでいる。地区協会を各界を網羅した組織とすること、空白地区を無くすこと、青年委員会と女性委員会の強化などは、友好運動の推進とともに意識的に追求してきた。また官民の協力、友好の理念と抱負を語り日常的な友好実践を継続することに努めた。
 
 1.日中スキー交流=1980年からスキー研修生の受入れ(累計170名余り)、83年から中国へスキー用具を送る取り組み(累計3万7千台)、スキー交流代表団の派遣などが継続され、長野オリンピック招致の際も中国側の強い支持を得た。長野オリンピックに中国友人を招く取り組みも、この交流の基礎の上に取り組まれた。
 2.医学交流=花岡前会長の熱意とそれを引き継いだ医学関係者の努力によって活発な交流が継続されている。
 3.農業の翼の派遣と農業研修生受入れ事業の継続。
 4.青少年交流と児童生徒交流のとりくみ=信州青年洋上セミナー(青年の船)の中国派遣への協力、児童生徒訪中団の81年からの継続派遣。95年からの少年少女文化使節団の派遣事業。
 5.友好都市提携の推進=現在、県と5市、2村が提携し交流を進めている。毎年、県友好都市交流会議を開催し交流を深めている。
 6.留学生との交流と中国帰国者自立支援活動=友好スキー交流会や友好キャンプを通じての交流。最近は留学生学友会も主体的に運営に加わるようになってきた。東京在住の中国留学生のホームステイ受入れも7年目を数える。帰国者は3300名を越え、県・地区協会として激励交流会などに取り組んでいる。国と県から委託された県帰国者自立研修センターの運営。
7.協会は友好交流センターであるとの認識に立って友好訪中団の派遣と中国からの視察訪日団を積極的に受け入れることに努めている。
 
<世代友好・共同繁栄に向かって>
日中関係は国交正常化から26年、平和友好条約から20周年を迎え人事・経済・文化等大きな発展を見た。しかし日中両国間には、日中戦争に対する歴史認識上の食い違いや体制のちがい、文化や習慣の違いからくる溝がまだまだ横たわっている。国際情勢の影響や両国政府の間のぎくしゃくの影響も受けざるを得ない。世代的にも、戦争に対する贖罪意識を基本に持った戦中世代から戦争体験のない戦後世代への移行がどんどん進んでいる。こうしたなかで「世代友好・共同繁栄」の21世紀を実現していくために、日中双方の友好協会は日中共同声明と平和友好条約の精神のもとに多くの仕事をしていかなければならない。21世紀を視野に入れて、日本青年の中国への留学派遣の大幅な拡大、修学旅行など青少年交流の強化、中国青年訪日団の受入れ拡大など青少年交流を強化発展させる必要がある。
今年は、日中関係の発展に多大な貢献をされた周恩来総理の生誕100周年にあたるが、我々は、周総理の崇高な精神に学び、日中両国人民の真の相互尊重と相互理解・協力という状況を作っていきたいと思う。「前事不忘・後事之師」「日本軍国主義は中国人民に多大な災禍をもたらしたばかりでなく、日本人民もまた日本軍国主義の犠牲者であった」という言葉を改めて銘記し日中両国人民はどんな事があっても子々孫々友好的に付き合っていくために、21世紀に向けて前向きな友好交流を展開し、友人を作り至る所に信頼を育み、揺るぎない友好を培っていこう。思想・信条・政党・政派を越えた総合的な友好交流団体としての友好協会の伝統を発揚して友好のオピニオンリーダーとしての責務と民を以て官を促す役割を果たしていこう。
                (1998・1長野県日中友好協会事務局長・布施正幸)