「佚存書とは何か--新たに発見された『論語義疏』をめぐって」(1/24)
第29期第3回日中関係を考える連続市民講座が1月24日、日中友好センター教室において開かれ、長野県立大学講師の王孫涵之先生が「佚存書(いつぞんしょ)とは何なにか—新たに発見された『論語義疏(ぎそ)』をめぐって」」と題して講演しました。20人が出席し熱心に聴講しました。
王孫先生は、新発見の『論語義疏』について映像を使って、紹介しました。
きわめて専門的なお話でしたが、日中間の文化交流の時代背景に触れながらのお話で興味深く聞くことができました。講義内容は1.佚存書とは何か、2.『論語義疏』という注釈書について、3.新発見の「論語義疏」についてでした。(以下概略を紹介します。)
1.佚存書とは何か
◇佚存書とは、中国ではなくなったが、日本に伝来した漢籍で保管されている書をさす。その呼称は林羅山の子孫、林述齋が編纂した『佚存叢書』に由来する。彼は「かの国に亡くなった書籍は少なくない。わが国だけに伝存している漢籍については万が一滅びてしまえば天地の間から永遠に消えてしまう。これは誠に残念なことだ」と記している。
◇中国本土でなくなったのに、なぜ日本では伝存しているのか?
陳舜臣氏:中国人はカタログマニア、日本人は保存の天才。
井上進氏:中国での内乱、科挙制度で個別の家系は永続せず蔵書の長期の伝承は困難。
王孫私見:上記の原因のほか、日本では公家や仏教の蔵書として伝承、中国では書籍の淘汰や写本から印刷本への転換で伝承されないケースが多かった。
◇佚存書をめぐる日中の交流
①『論語義疏』の逆輸入:1764年根本遜志が校定した『論語義疏』が刊行→1774年(乾隆40)王亶望、のちに鮑廷博翻刻、刊行。乾隆49年には『四庫全書』に収録して書写。乾隆52年には内府の武英殿で刊行。
②近代の交流:楊守敬1880年来日、佚存書を収取して『古逸叢書』を刊行、帰国後『日本訪書志』出版。但し、『論語義疏』は未収録。
渋江抽斎・森立志:明治期の日本は漢学の人気がなく清国の援助で1885年上海で『経籍訪古志』(日本に伝存した漢籍の古写本・古版本の書誌情報を記した本)を出版。
③現代の動向:中国政府は伝統文化を重視し、古典籍の出版や研究に助成。教育部配下に「全国高等院校古籍整理研究工作委員会」(1981年~)を設置。中国社会では伝統文化ブームで民間の蔵書家が増えている。漢籍を求めて来日する中国人も多く、中には日本で漢籍の古本屋を経営する者も現れている。オークションで出品されたものの中には5千万円を超えるものもある。(日本の文化財の流失ともいえる。)
2.『論語義疏』という注釈書について
◇『論語義疏』の構成は、⓵経(『論語』の本文=孔子の言行録)、②注(魏の何晏による『論語集解』)、③疏(南朝梁の皇侃による『論語義疏』)よりなる。疏は経だけでなく注に対しても詳細な解説を行う。
◇『論語義疏』の性格は、⓵経典を知識の対象として扱い、その妥当性を持つか論証する。②道家や仏教の概念を用いて、『論語』を説明する。③『論語義疏』は北宋の景徳元年まで最も読まれた論語の注釈書であった。したがって、日本や敦煌にも伝わった。その後、邢昺(けい
へい)の『論語正義』に取って代わられた。宋の真宗の勅令を受け『五経正義』を基準として道家や仏教の説を削除し、皇侃の『論語義疏』に対して大幅な修訂を行った。『論語正義』は国定であったので『論語義疏』は勢力を失い、南宋ごろには中国本土ではなくなった。
◇7世紀後半に日本に伝来し、現代まで伝承した。伝来後まず大学寮(国の最高教育機関)で講義され平安時代以降は清原家などの世襲貴族の中で家の学問として伝承された。室町時代では足利学校の禅僧たちも『論語義疏』を用いて『論語』を学習していた。『論語義疏』が日本に根付いていたため、『論語正義』が伝来してもその地位は揺るがず、現代まで伝承され続けた。
3.新発見の『論語義疏』について
◇発見から公開までの経緯:2016年3月、都内の古書店が『論語義疏』の古写本を入手したものを、慶應義塾大学図書館が購入、研究チームで研究、20年公開、21年11月出版。
◇書写の年代について:北朝の異体字を用いていることから、隋もしくはそれ以前の写本であることがわかり、皇侃(488~545)の生卒年と南朝から北朝に伝わる時間を考慮すると6世紀後半から7世紀前半の写本と思われる。
◇発見の意義:①文献学上、『義疏』の最古の写本であるとともに、『集解』の最古写本であり、『論語』の最古写本といえる。今回の発見によって『論語義疏』の本来の姿が明らかとなった。②学術史上、中国で南北朝隋唐期、『論語義疏』が成立した後、早く北方地域に伝わって受容されたことが分かった。日本への伝来については、従来南朝から百済経由で伝わったと言われてきたが、今回の発見によって、中国の長安・洛陽などの北方地域を訪ねた遣隋使・遣唐使が直接日本にもたらした可能性が高いと推測される。(但し、隋から百済経由で日本医伝わった可能性もある。)