新華社東京支局の一行が、3月9日、長野県を訪れ、長野県スキー連盟関係者や長野県日中友好協会などを取材した。40余年にわたる長野県と中国との日中スキー交流、その中で、中心的な役割を果たされた片桐匡(ただし)元長野県スキー連盟会長について熱心に関係者に取材した。この度の北京冬季オリンピックの成功の背景に片桐匡さんのアジアのスキー振興にかけた熱い思いがあったことが文面から伝わってくる。ここに、その一文を紹介したい。 (翻訳責任:編集者)       

<参考資料>
北京オリンピック通信:北京オリンピックの長野印記

≪新華体育≫(2022・3・17 新華社東京3.17発、王子江・楊汀・楊光)

 2003年、片桐匡さんが亡くなったとき、遺品にはぶ厚い資料が残されていたが、息子の片桐幹雄さんはその保存価値が理解できなかった。20年後、彼はこれらの資料の意義を知って、父の偉大さも知った。これらの資料は一群の完全な中日スキー交流史であり、改革開放以来の中国スキースポーツの発展史でもあり、中国が一つのスキー場もないところから北京冬季オリンピックの開催に成功するまでの歴史的証人でもあった。

 ◇長野と縁を結ぶ

 記者の取材に応ずるために、片桐幹雄さんは事前に資料を事務室に持ち込み、各種の原稿、切り抜き、写真、文章、ポスター、試合ハンドブック、書籍が2つのテーブルに積み上げられていた。

人, 屋内, 座る, テーブル が含まれている画像

自動的に生成された説明長野県野沢温泉スキー場の片桐幹雄社長が取材に応じた。

 長野県の野沢温泉スキー場社長を務めている片桐幹雄さんは、次のように語った。

 「20年前にこれらの資料を整理した時には、価値あるものか否か知らなかったが、今では一種の達成感とリターン感があり、非常に有意義なことができたと思う。」

 長年にわたって封印されてきた資料には、1990年代末に日本の『スキー』誌に発表された片桐匡さんの文章があり、長野県と中国のスキー交流の経緯が詳しく記述されている。

 彼はこう書いた。「1979年12月10日のこと。私は当時、全日本スキー連盟の理事兼長野県スキー連盟会長を務めていた。その日私は全日本スキー連盟から電話を受け“中国が初の冬季オリンピックに参加するため、アメリカに向かう前に日本で集合訓練を希望しているが面倒を見ていただけないか”と言われた。これは中国オリンピック委員会から日本オリンピック委員会を通じ全日本スキー連盟を経て私を探し当てたものだった。突然のことでいささか戸惑ったが、私が特に困ったのは、もうすぐ年末になるので、彼らのために住まいをどう確保するかということだった。それでも、私は中国側の要求を満たすことを決意し、この任務を引き受けたいと表明し、宿舎は私の家(当時は民宿福田屋と呼ばれていた)を手配すると話した。」

 彼は書き続けた。「中国が初めて冬季オリンピックに参加するのは、日本のスキー界にとっては平地に波風を立てることにほかならないが、意外にも、すぐにスキー企業がスキー板、スキー靴、スキーウェアなどを提供したい、コーチや集合訓練経費も協力したいと申し出てくれた。スキー板やウェアに少しでも合わないところがあればすぐに調節し交換してくれた。これらの全体的な支持と協力はメディアの注目を集め、さまざまな角度から報道され、一時は中国スキーの報道ブームが表れた。」

 彼が残した資料には、1994年に中国で出版された『中国スキー運動史』という本があり、その本の重大出来事を記した年表に「1979年12月、中国が第13回冬季オリンピックに参加するスキーチームの一行12人が日本の長野県で訓練した。団長兼通訳は于再清」と記されている。現在、国際オリンピック委員会の副主席を務めている于再清氏も同書の編集委員の一人だ。

建物の前に立つ人々

自動的に生成された説明1979年12月、レイクプレシド冬季オリンピックに出場するため中国スキー選手が長野で訓練した。後ろは片桐匡家の福田屋(前列右側は片桐匡さん)

 この12人のうち6人は野沢温泉スキー場で訓練し、その中には4人の選手が含まれ、他の人は白馬村などのスキー場に配属された。彼らの中には実はスピードスケートの選手が何人かいて、軽井沢のスケート場で訓練した。野沢が中国選手の訓練を指導したコーチの中には、片桐匡さんの後任で野沢温泉スキー場社長に就任した河野博明さんがいる。

 片桐匡さんは「ちょうど息子の片桐幹雄もアルペンスキー選手としてそのオリンピックに参加するので、オリンピック村でもできるだけ中国の選手を世話してほしいと言った」と書いている。

 40年余り後、片桐幹雄さんは父親の頼みを覚えていて新華社通信の記者に語った。「私は父が、中国選手に何か助けが必要なことがあったら、よろしく頼むと言ったことをはっきり覚えている。中国が冬季オリンピックに選手を派遣することができ、彼らが良い成績をとればさらに有意義だ。歴史的な時を目撃できる意義は極めて貴重だと言った。」

 その冬季オリンピック前の長野行きは、中国のスキー発展を高速軌道に乗せ、長野は中国のスキースポーツに欠かせないキーワードになった。米国のレイクプレシッド冬季オリンピック後、中国側は翌年のスキーシーズンに長野での合宿訓練の希望を提出し、片桐匡さんは再びそれに応え、全力で協力した。その後40年間、交流の形式が絶えず変化したにもかかわらず、中国のスキー選手は長野での訓練を止めなかった。

 ◇中国のスキーの遅れを目の当たりにする

 40年以上前の中国のスキーのレベルは日本と格段の差があった。長野で初めて中国選手を育成したコーチとして、河野博明さんは、中国のアルペンスキー選手は当時、日本の高校生と同じレベルだったと話した。長野の地元紙「信濃毎日新聞」は当時、「冬季オリンピックに出場する中国選手は技術的に(日本選手と)かけ離れているが、体力があり、足の力が強く、誰もが練習で疲れない」と報じた。同紙は、中国のスケート選手が長野で中学生の試合に出場することも報じている。

 1981年7月、片桐匡さんを団長とする長野県スキー交流視察団一行9人が初めて中国を訪問した。彼は中国の遅れた物質的条件に驚いた。北京の一流ホテルでもエアコンがなく、冷蔵庫もない。長春のホテルでは、蚊が蚊帳の穴から潜り込んで、一晩中眠れなかった。

 もちろん、最も驚いたのは、中国のスキー施設の遅れだ。当時、中国にはスキー場がなかった。黒竜江省の亜布力スキー場はコース選定状態に入ったばかりで、ハルビンから東へ汽車で200キロほど行って、亜布力駅から車に乗り換えて山に入った。雨の日だったため、車は泥道にはまり、全員が徒歩で選定場所に行くしかなかった。旅の疲れのため、62歳の片桐匡さんは途中で突然尿道結石を起こし、ハルビンの病院に緊急搬送され、漢方薬を何回か飲んだ後も病状が治らず、日本に帰るしかなかった。

 片桐匡さんは文章の中でこう書いている。「今回の訪問で中国のスキー事情が基本的に分かった。類似のスキー場が5、6カ所あるがスキーリフトは基本的にない。スキー板やその他のスキー用具の製造企業はなく、一般的な意味のスキー人口も無い。私が中国にスキー人口は何人いますかと聞くと約3000人という答えだった。たぶん軍隊や体育学校の専門学生だろうと推察した。」

「スキー場の建設も、スポーツ選手やコーチの育成も、長野県に学ばなければならない。私は現場を体験し中国側の期待と情熱を感じたし、この点は長野県が協力できるものだ。」

 ◇大規模なスキー用具の寄贈をスタートさせる

 初めての中国旅行は、片桐匡さんに中国がスキーの遅れをできるだけ早く変える方法を深く考えさせた。

 「このような現状ではスキーの普及は難しいので、私は中国側に中古のスキー用具を受け入れることができれば、私たちはあなたたちに寄贈することができると提案すると中国側は早速、感謝しますと言った。」と彼は書いている。

 彼の提案のもと、長野県スキー連盟と県日中友好協会は協力してスキー板やその他のスキー用具を送る取り組みを開始し、寄贈活動は片桐匡さんが亡くなった後も止まらなかった。

 長野県スキー連盟の河野政己専務理事は記者に詳細な数字を提供し、1983年から2012年まで、長野県は中国にスキー板132,250台、ストック48,080対、スキー靴67,500足などを寄贈した。 寄贈は言うは易く行うは難い。収集、修理、貯蔵から輸送などの各段階には大量の人力と物力が必要である。長野県日中友好協会はその中で重要な役割を果たし、仕事の便宜上、片桐匡さん後に友好協会副会長を兼任した。

 

 長野県日中友好協会理事長の布施正幸さんは、スキー寄贈を身をもって体験したが、「最初は1万台を贈ることを目標にしていたが、3年で目標を達成した。中国側はスキー用具が中国のスキー事業に大きく役立つと提案し、寄贈を続けてほしいと希望し、私たちも喜んで続けることを承諾した」と語った。

 布施正幸さんによると、長野市のスキークラブのメンバーは毎年スキーシーズン後、状態の良いスキー板3000~5000台を選び、6月の第1または第2週の月曜日に、県下のスキークラブや友好協会メンバーで船積み用の大型コンテナへの積み込み作業をしたという。

 2012年、中国経済がますます発展し、人民の生活もますます豊かになってきた。スキー板が新しいタイプのものに変わってきて、長野県内のスキーヤーの多くも新しいタイプのスキーを使うようになったが、新しいタイプのスキー板の寄贈はあまりなかった。中国側も古いタイプのスキー板はいらないと言ってきたので、30年の長きにわたった中国にスキー用具を寄贈する活動は終了した。

 片桐匡さんはスキー板の寄贈に関心を持ち、その後何度も中国を訪問し、多くのスキー場が長野県から寄贈されたスキー板を使っているのを見るたびに興奮した。長春を訪問した時、彼は郊外の小さなスキー場で多くの一般市民が寄贈したスキー板でスキーを楽しんでいるのを見て、彼は一層“興奮を覚えた”。

「この光景を見て、中国の一般人もスキーを習い始めたと思った。中国のスキー人口は必ず段々と増え、我々の期待するようなブームがやってくる。帰国後、継続してさらに多くのスキー板を中国に寄贈しようと固く決心した。」と彼は文章の中で書いている。

 ◇時代と共に人材を育成する

 片桐匡さんが残した資料には、毎年長野に来て訓練している中国人のリストが10ページ以上あり、1980年から1994年までの間、長野での訓練や宿泊先が詳しく記録されていた。

 中国の選手の訓練が長期化したため、その費用は当然片桐匡さんが考慮した主な問題であり、各方面と相談し、長野県スキー連盟が先頭に立ち、長野県日中友好協会や長野県政府及び県スキー連盟の会員企業、そして選手を受け入れた7つの市町村と連携し、「長野県日中スキー交流委員会」を設立してこの事業を推進した。具体的な方法は、中国の選手に半日民宿などで手伝ってもらい、半日訓練させること。半日労働の給料は民宿などから提供される。布施正幸さんによると、この方法は20世紀のはじめ、多くの中国の愛国学生がフランスに赴き、アルバイトをしながら学習する“勤工倹学”の方式を参考にしたという。そのため1990年まで長野で練習していた中国選手は、「研修団」と呼ばれ毎回3ヶ月間滞在した。

1990年以降、「研修団」は訓練隊に名称変更され、1カ月に短縮された。県日中友好協会と県スキー連盟は長野県に予算付けをしてもらったほか7市町村からも15万円ずつ負担してもらって訓練隊の1っカ月間の滞在費用を賄い、選手たちは訓練に集中できるようになった。

布施正幸さんによると、21世紀に入ってから、中国はさらに豊かになり、スキーの基礎人口はさらに拡大し、特に北京が冬季オリンピック招致に成功した後、中国側は十分な予算を持っており、日本側は訓練隊の歓迎準備とジャンプ台の使用経費を負担すれば良くなったという。新型コロナウイルス肺炎が発生するまで、中国のスキー選手の長野での訓練は継続され、「日中スキー交流委員会」の活動も継続されてきた。2019年7月、国家体育総局の苟仲文局長は長野を訪れ北京冬季オリンピックに備え訓練中の中国の選手を激励した。

長野は多くの中国選手の第二の故郷となり、1998年の長野オリンピックでは、女子フリースタイルスキー・エアリアルで徐囡囡(スーナンナン)選手が銀メダルを獲得し、中国オリンピックのスキー種目のメダル「ゼロの突破」を実現した。布施正幸さんは写真を指差して記者に伝えた。「徐さんは数年にわたりずっと長野で合宿していて、私たちはお互いによく知っていた。彼女は夏に長野のウォータージャンプ台で訓練しました。彼女は祝賀会で銀メダルを私の胸に掛けてくれました。これはその時の写真です。」

 ◇交流が実を結ぶ.

1996年、第3回アジア冬季大会はハルビンで開催され、日本以外で初めて開催されたアジア冬季大会で、片桐匡さんはアジア冬季大会の間に再び中国を訪問し、その年のぬかるみの山の斜面に修復建設された亜布力スキー場を見て、彼は感慨を深めるとともに、一方で中国の効率の良さに感嘆した。また、1980年から中国のスキーと長野の交流は大きな成果を収めたと感嘆した。亜布力スキー場の建設過程で、彼も多くの貴重な意見を出した。

 「当時、私たち一行が初めて亜布力を訪れた時は、当時はただの山で、一軒の家も一つの施設もなかったが、今回行ってみると、大山がスキー場に変わっていた......」と書いており、「大会組織者は情熱に満ちていて、几帳面に全力を尽くしていたことに感嘆した。また、中国選手の多くの種目での成績を大いに賞賛し、クロスカントリースキーの実力が大幅に向上し、女子のレベルが日本に接近してきたと思う」と述べている。

「16年間にわたる長野県と中国とのスキー交流を経て得られた成果は顕著で、中国側も心から喜んでいる。いわゆる、”水を飲むとき井戸を掘った人を忘れない“のことわざのように、彼らは長野県に対する感激の情を忘れない…アジア冬季大会終了後日本に戻り、私は再度交流の思いを固めていた。」

片桐幹雄さんによると、父は1960、70年代の日本のスキー場開発ブームの中で、全国70カ所以上のスキー場の開発建設に参加し、スキーコース設計について独自の見解を持っていたという。2000年5月、中日スキー交流20周年を記念して、中国スキー協会は再び長野県関係者を中国に招待した。当時、片桐匡さんは81歳で、身体が前の様でなく、長距離旅行には向いていなかった。しかし、最後の瞬間、彼は思い切って再び中国に行くことを決めた。今回の訪問には重要な議事日程があるからだ。それは中日スキー界の人々が吉林北大湖スキー場の開発について会議を開き、片桐匡さんは自分が会場に臨むことが大きな役割を果たすことができると考えているからだ。

これが最後の訪中となり、それから3年後、彼は84歳で野沢で死去した。

彼は生前、『今日もまた妻に任せてスキー行』と遺言を残した。家族はこの言葉を石碑に刻んで、野沢温泉スキー場内に建立した。

◇長野冬季オリンピックへの思い

1990年、1998年の冬季オリンピック招致争いは白熱化し、長野はソルトレイクシティを含む4つのライバルに直面し、情勢は楽観を許さなかった。肝心な時、片桐匡さんは中国を訪問することを決め、中国オリンピック委員会の支持を得ようとした。この訪問が重要な役割を果たしたことが後に証明された。

片桐匡さんは文章の中で次のように振り返っている。「幸いなことに、IOC副会長に中国の何振梁さんがいたので、私たちは何さんを訪ねて、私たちの考えを何さんに正直に伝えて協力してもらおうとした。何さんは私たちに会うことを快諾してくれた。会見で“私は長野県がスキーやスケートなどで中国に大きな支援をしてくれていることを知っています。今回は皆さんに全面的に協力します”と語った。」

 

「私たちは何さんから貴重な協力の約束を得た。それから、中国国家体委員会の責任者に会いに行き、同じく積極的な回答を得た。私たちは今まで日中スキー交流を堅持してきた結果このような形で花を咲かせることができた。私は喜ぶとともに、アジアのスキー事業の発展のために引き続き努力する決意を固めた。」

1991年6月、長野は3回目の決戦投票でソルトレイクシティを4票差で破り、1998年冬季オリンピック開催権を獲得した。

中国は1996年のアジア冬季大会を成功裡に開催し、将来の冬季オリンピックの開催を考える至った。片桐匡さんはすぐさま支持を表明するとともに、中国が冬季オリンピックを立派にやる能力があると信じていた。「短期間でこのようにアジア冬季大会を成功させたことは、実に羨ましい。長野冬季オリンピックの招致は中国の協力を得ている。オリンピックを経験した日本として、できるだけ中国側にアドバイスし、全力を尽くして支援しなければならない」と彼は書いている。

彼が亡くなって19年後、北京冬季オリンピックは成功したが、惜しいことに彼はこの日を目にすることはできなかった。

片桐幹雄さんは「父はスキーの専門家としてだけでなく、血と肉のある人として中国から愛されている。本人も中国を愛していた。中国のスキー事業が今日の発展を遂げたことを誇りに思っているに違いない」と話した。

雪が降った山の前に立っている男性

中程度の精度で自動的に生成された説明河野博明さんは長野で初めて練習した中国人スキー選手のコーチだった。

 北京で冬季オリンピックを準備する過程で、長野県の多くの人が片桐匡さんが開いた中日交流の道に沿って大きな支援を提供した。阿部守一長野県知事は「北京冬季オリンピック・パラリンピックの招致が成功したとき、私たちは自分たちの朗報のように喜んだ」と話した。2019年、北京冬季オリンピック組織委員会の蔡奇主席も団を率いて長野を訪問し、長野オリンピックの開催からいくつかの経験を得ることを望んだ。

 河野博明さんは23歳から片桐匡さんの後を追うようになり、新型コロナ感染が発生する前に、中国に招待されて北京冬季オリンピックスキー競技の研究討論に参加した。「1998年に長野で冬季オリンピックが成功したのは、片桐さんの作った基礎のおかげだ。2022年の北京冬季オリンピックも片桐さんの無私な奉仕と切り離すことはできない」と話した。