香港問題に注目が集まっているが、元中国大使を務められた宮本雄二先生が日経ビジネス電子版(2020.6.18)に歴史的経緯を踏まえた解説を述べている。香港問題を考える参考資料としてここに紹介したい。宮本先生は2019年10月に長野で講演をされているがその内容も大変意義深いものであった。。→2019.10.10中華人民共和国70周年、宮本元大使大いに語る

<資料>
香港情勢、思い起こされる英中攻防と天安門事件前夜

                   宮本 雄二 (宮本アジア研究所代表・元中国大使)

 528日、中国の全人代(全国人民代表大会、日本の国会に相当)は「香港特別行政区の国家安全を確保するための法律制度及び執行メカニズムの構築、整備に関する決定」(以下「決定」と略称)を採択した。一部欧米諸国が強い反対を表明したのに対し、中国はあくまでも『決定』を貫徹する姿勢を貫いている。中国と先進民主主義諸国の対立の様相は、1989年の天安門事件直後の状況を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 国際経済、国際政治における中国の重要性は、あの当時と比較にならないほど大きい。香港問題の動向は、今後の世界情勢に多大な影響を及ぼすことになろう。香港問題をめぐって、中国と先進民主主義諸国は、なぜ対立を深めているのであろうか。今後、どうなっていくのであろうか。これらの点を読み解いてみよう。

中国は「形」を、英国は「実」を取った

 香港は、歴史と政治が交わる場でもある。香港の歴史は、中国が植民地化される歴史と重なる。

 今日、我々がいう「香港」は、香港島、九龍半島先端及び新界の3つの部分からなる。香港島は、悪名高いアヘン戦争により1842年に英国領となった。九龍半島の先端(約9.7平方km)は、アロー戦争(第2次アヘン戦争)により1860年に英国領となった。英国はさらに1898年 、中国(清朝)との租借条約により235の島を含む新界を99カ年にわたり租借した。つまり香港は、英国の領土及び租借地という2つの部分から成り立っていたのだ

 194910月、中華人民共和国が成立した。翌501月、英国は直ちに国家承認を行い、台湾(中華民国)との関係を切った。日本が中国を承認し、台湾との国交を断絶したのは、72年のこと。米国は79年になって、ようやくそうした。英国の中国承認がいかに素早かったかが分かる。第2次世界大戦後、47年にインドが独立し、植民地の維持は次第に難しくなっていた。植民地である香港の現状を維持し、経済的利益を確保する。これが英国の対中政策の重要な柱となった。

 英国は、租借地の返還期限が97年に到来することを気にかけていた。そこで、82年から中国と返還交渉を開始した。英国は当初、租借地の新界だけを返すつもりだった。しかし、失われた領土の回復が孫文以来の近代中国の国家目標であり、中国が部分返還に応じるはずはなかった。84年、英国が譲歩し全領域の一括返還で交渉は妥結した。

 もちろん何の見返りもなしに英国が譲歩するはずもない。譲歩の見返りが、香港の現状を維持し、返還が香港経済に影響を与えないという中国側の保証であった。その具体的な形が「一国二制度」といわれるものであり、英中の妥協の産物であった。中国は、香港が中国の一部となる領土回復という「形」を取り、英国は香港経済の持続という「実」を取った。

 84年の「英中共同声明」は、そのことの具体的記述である。英国は限りなく「二制度」を重視した。中国は、この頃まで「一国」の意味するところについては踏み込まず原則論に終始した。

 英国は老練だ。将来の担保として、この「共同声明」を中国とともに国連に登録し、条約に準ずる“国際約束”としての重みをつけようとした。現在、英国がこの「共同声明」を根拠に、中国の約束違反を責めているのは、こういう背景があるからなのだ。あの当時、国際法に対する中国側の理解は十分ではなく、恐らく、この英国の意図を100%正確には理解できていなかったであろう。

中国主導の香港基本法をあっさり認めた英国

 78年の改革開放政策の導入は、中国の国内政治を大きく揺さぶっていた。保守派と改革派の対立が深刻化し、ついに政治体制改革で激突した。86年、民主化を求める学生の動きが激化し、学生に同情的であった改革派の胡耀邦は翌87年、解任された。894月、胡耀邦が死去した。それが再び学生運動に火をつけ、同年64日の天安門事件に至る。そして中国政治の保守回帰、左派イデオロギーへの回帰が確定したのだ。

 香港に対する中国の姿勢も、その影響をもろに受けた。その典型的な例が「香港特別行政区基本法」だ。「共同声明」には、香港に対する中国の基本方針と政策が書き込まれている。それらを今度は、中国の法律である「基本法」に落とし込み、50年間変えないことを「共同声明」は合意している。

 「基本法」は形式的には全国人民代表大会が定めることになっているが、実際は英国と協議する必要があった。「共同声明」には、返還を順調に進めるための英中合同連絡チーム(小組)の設置が合意されていたからだ。同法の制定が、香港の将来に対し英国が直接影響力を行使できる最後の機会でもあった。「基本法」の制定は結局、90年までかかった。英中の調整が難航したからだ。

 胡耀邦が失脚した後、鄧小平は874月、「基本法」起草委員会のメンバーと会ったとき、中国が現在、口にしているようなことをほぼすべてはっきりと述べている。いわく「香港のことはすべて香港人がやるというのは駄目だ。…国家の根本利益に害を及ぼすようなことが起こらないとでもいうのか。…香港が“民主”の看板を掲げて大陸に反対する基地となったら、どうするのだ」などなど(『鄧小平文選』第三巻)。

 「基本法」は、これらの懸念に対する対応を明確に書き込んだものとなっている。「共同声明」作成時に曖昧にしていた政治的な立場をはっきりさせたのだ。特に第23条において香港特別行政区は「国に背き、動乱を扇動し、中央政府を転覆し、国家機密を窃取する行為を禁止し、外国の政治的組織または団体が香港特別行政区において政治的活動を行うことを禁止し、香港特別行政区の政治的組織または団体が外国の政治的組織または団体と関係を持つことを禁止する立法を行わなければならない」と規定している。

 904月、「基本法」が成立した。「基本法」は中国の国内法であり、英国の口出しにも限界はある。香港における経済権益の確保が英国のボトムラインであり、それ以外、英国の関心は決して強くなかった。これ以降、英国は香港問題に関与する手段を失った。この時点において、現在香港で起こっている問題に対する外交上の結論は出たということだ。

 もちろん、「共同声明」は国際約束であり、それを守るべきだと英国は言い続けている。しかし「共同声明」に書いたものが「基本法」に書き込まれたという建前になっており、そのことを英国は了承している。中国は、当然、香港返還が実現した時点で、「共同声明」の役割は終わったとの立場を取っている。

 あの当時、筆者自身、英国があっさりと「基本法」を認めたことに驚き、どうしてもっと頑張らなかったのだろうかと思ったものだ。この意味で「基本法」ができた時点で、外交上は勝負あり、だったのだ。

中国は経済発展を優先し、香港では慎重に

 ただし、何もしないで引き下がるほど英国もヤワではない。香港返還を前に、香港の“民主化”を慌てて進めたのだ。例えば立法会の前身である立法局において、住民による直接選挙枠を91年に初めて認めている。返還時の“現状”を固定させる作戦に出たのである。

 それまで香港では英国人による植民地統治が行われていたのであり、住民の政治的諸権利は尊重されなかった。英国統治時代も経済はまったく自由であり、英国コモン・ローの伝統を引き継ぎ、香港における「法の支配」は確立していた。だが、民主主義は存在しなかったのだ。

 中国の立場も決して強いものではなかった。「基本法」に政治的建前を書き込んでも、その実施は先進民主主義諸国との関係を考慮し、慎重に進めざるを得なかったからだ。

 天安門事件後、経済も保守的となり改革開放政策から後退した。これに危機感を覚えた鄧小平は92年、「南巡講話」を発出し、経済発展が最重要課題であり、経済の改革と開放は断固進めるとの大方針を固めた。先進民主主義国との関係はさらに重要になり、中国経済と対外経済の結節点としての香港経済の重要性も増していった。国家主権とか国家安全とかを前面に打ち出し香港問題を処理すれば、先進民主主義国との関係は緊張し、中国経済にもマイナスに働く。だから「基本法」ができた後も、具体的行動は慎重であり、香港の現状は大きな修正を加えられることなく維持されてきた。

 香港の人たちにとり、それが「常態」、つまり当たり前の現実となったのである。しかも、今回の民主化運動の中心となった学生たちは、香港返還後の「常態」の中で生まれ育った世代なのだ。

背後に米国がいる!

 しかし2012年に習近平(シー・ジンピン)政権が登場するとともに、経済よりも政治イデオロギーが重視され、ナショナリズムを使って国民の団結と社会の安定を図る政策にシフトした。主権や領土、国家的威信が重視され、社会主義や共産党による統治の正当性が強調された。そういう中で、14年に民主化を求める雨傘運動が、19年には逃亡犯条例の改正に反対する運動が起こり、行動自体が過激化した。単なる民主化運動を離れ、香港の独立を求め外国と連携する動きが強まった。

 中国当局は、その背後に外国勢力の存在があると断定した。つまり19年のある時点で、中国指導部は、香港の民主化勢力が、中国の考えるボトムラインを越えたと判断したと見て間違いないだろう。

 筆者は、1989年の天安門事件から数年間、外務省で中国を担当する課長をしていたことがあり、ついつい既視感を覚える。あの頃も、天安門事件の背後に米国がいると彼らは確信していた。そして今や、香港当局は事態を収拾する能力も手段も持たないことを白日の下にさらけ出した。そうであるならば、断固とした対応がとれるように手当てするしかない。このようにして、中国は万全の準備を整え、今回の全人代に臨んだと見てよい。

 「決定」は、香港において国家の安全を確保するための法制度と執行メカニズムの構築に必要な措置をとる決意を表明している。外部勢力が香港を利用して行う分裂、転覆、浸透、破壊活動に反撃を加えると断言している。香港当局が、「基本法」(第23条)に定める国家安全関連の立法を進めることを要求し、中央政府が、香港に必要な組織を設置することを決めた。合わせて、全人代の常務委員会に関連の法律を制定し、「基本法」の付則とすることを授権した。

 同時に「決定」は、「一国二制度」「香港人による香港統治」「高度な自治」の方針を堅持することを改めて宣言している。その中身の解釈について民主勢力・欧米と中国との間に大きな差があるのが、そもそもの問題なのだが、しかし、この部分にしか将来、妥協を図る余地はない。今からうまく利用することを考えておくべきだ。

ナショナリズム強める中国に、民主主義国は強硬姿勢

 中国経済の戻りは世界の中で最も早いが、中国国内の安定を図るにはまだ不十分だ。党中央の求心力にも陰りが見られる。しかもナショナリズムに訴えるこれまでのやり方は、妥協には不向きだ。妥協はますます難しくなってきている。中国の対外姿勢は、党としての方針転換が図られるまで、柔軟性を欠いた硬直したものとなろう。その傾向が最も強く出るのが、香港問題である。

 台湾問題は一歩間違えば米中の軍事衝突となる。現在、米国と軍事衝突をすることの不利は、誰にでも分かる。本当に追い込まれるまで中国は我慢するであろう。しかし香港問題には、軍事衝突の危険性はない。しかも国内のナショナリズムの感情を吸収できる。中国が強い姿勢を続ける理由の一つが、ここにある。

 先進民主主義諸国と中国との関係も、ここ数年で大きく変わった。その最たるものが米中関係だ。中国に対する懸念は安全保障関係者を中心に昔から米国にあった。しかし一方で、中国経済が世界経済と一体化していくことにより、中国が現行国際秩序の破壊者ではなく建設的な擁護者となるであろうという期待があったことも事実である。現に胡錦濤(フー・ジンタオ)政権まで、中国はそのように振る舞っていた。また実際の軍事的な存在感も、今日と比べるとはるかに小さかった。中国との間で何か問題が起こると、中国の将来の変化を期待して“甘く”対応した面が米国には確かにあった。

 しかし胡錦濤政権末期から、中国国内のナショナリズムは勢いを増した。筆者は、2008年のリーマン・ショック後に、それが表出したと判断している。12年に発足した習近平政権の対外姿勢は、それに引っ張られるように自己主張の強い、強硬なものとなった。近隣諸国との関係は緊張し、米国の対中認識も急速に変化し、それが欧州主要国にも伝播(でんぱ)していった。

 そして今回のコロナ騒ぎである。ドナルド・トランプ米大統領の対応は、あまりに自己中心的であり、粗雑であり、品格に欠け、米国のイメージを損ない、米国の指導力を大きく毀損している。だが、中国の対応も、国際社会からの批判を恐れつつも、あまりに攻撃的であり、すべて相手が悪いと言いつのるだけであり、先進民主主義諸国の反発を招いた。透明性を保ち説明責任を果たすという、当然の責務への認識は弱かった。中国が“異形の大国”であることを改めて強く印象づけてしまったのだ。

 先進民主主義諸国の国内世論は、中国に対しさらに厳しくなっている。米国は一昔前の“甘い”米国から、ソ連と闘った“厳しい”米国に変わった。香港問題に対しても、トランプ大統領の対応がどうなるかはいざ知らず、議会をはじめとする米国は厳しい対応を続けるであろう。この先進民主主義諸国側の対中認識の変化が、香港問題に関し反対姿勢を強めている大きな理由である。外交的には1990年に既に決着済みであるにもかかわらず、だ。

 マイク・ポンペオ国務長官と楊潔篪(ヤン・ジエチー)外交担当政治局員との会談の準備が進められているという報道もある。しかし香港問題に関していえば、中国側が譲歩する可能性は少ない。香港で民主化を進める人たちにとって、厳しい日々が待っていると想定せざるを得ない。
 
2020618日 日経ビジネス電子版)