日中友協全国本部70周年にあたって、長野県日中友好協会の歩みを振り返る
 

                                      (日中友好協会全国本部70年記念誌原稿)


 長野県は、戦前、満蒙開拓団の送出が全国の12%を占めるなど中国との関わりが深く、中国の平和と友好を願う社会的基盤が広く存在している。全国の友好協会の発足とともに県内各地区に友好協会が生まれ、1956年9月には支部連合会が結成され、県協会のスタートとなった。

  現在、県下には21の地区協会と青年委員会及び女性委員会があり約1300名の会員を擁し、日中友好にかかわる幅広い活動を、県・地区レベルで創意工夫を凝らして取り組んでいる。こうした基礎の上に県協会は、県や各分野の団体と手を携えて友好交流実施団体を設立し交流を進めてきた。県日中学術交流委員会、県日中経済交流促進協議会、県日中スキー交流委員会などが活躍しており、更に中国国際放送局と提携しての長野ラジオ孔子学堂中国語講座も開設されている。また講演会、映画会、料理講習会の開催や、京劇・雑技の公演など中国事情の紹介、会報や記念誌の発行、友好訪中団の派遣と各種訪日団の受入れ、スキー訓練隊の受入れ、中国帰国者交流センター日本語教室の運営や自立支援活動、中国留学生への支援・交流、友好都市交流の促進(県が河北省、長野市が石家庄市、須坂市が四平市、伊那市が北京市通州区、松本市が廊坊市、上田市が寧波市、飯山市が深圳市福田区などと提携)などに取り組んできた。

 この20年余りの間の主な出来事を振り返ってみると次のようになる。

 1998年の長野冬季オリンピックでは、3000人の協力を得て3年間1日10円貯金を行い、3000万円の基金を作って、約200人の中国友人を招き、平和と友好の祭典をともに体験した。また「希望プロジェクト」の呼びかけに応え、希望小学校の建設資金を贈る取り組みを進め、県や長野オリンピック国際協力募金・関係友好団体など数多くの県民の皆さんの協力をいただき、河北省へ4つの学校を贈った。

 2000年から緑化協力プロジェクトに取り組み、太行山の山麓に位置する河北省の石家庄市平山県(西柏坡)、保定市易県、邢台市内丘県で緑化協力を実施した。初年度は寄付を呼びかけスタートしたが、以後、日中緑化交流基金の支援を受けて、2018年まで継続された。「日中同天、緑化協力」を合言葉に、毎年県協会訪中団を派遣し植樹活動にも多数の会員が参加した。緑化面積は1,152ha、植樹した本数は268万本に上り、河北省政府や地元政府、地元の皆さんから高く評価され感謝された。

2005年には第10回日中友好交流会議が長野で開かれ、日中友好協会全国本部に協力して会議の成功に努めた。中日友好協会の宋健会長はじめ中国各省人民対外友好協会の友人、日本各都道府県日中友好協会役員会員ら200名が出席して、日中関係の発展を話し合った。小泉首相の靖国参拝を機に反日デモが行われた時と重なったが、参加者は歴史を鑑として日中不再戦、平和友好を誓い合った。宋健会長から高い評価と激励をいただいた。

2007年には中国国際放送局との間で、長野県日中友好協会ラジオ孔子学堂設立に関する協定書を締結した。以後、中国語と中国文化の普及を進めてきた。

2008年には長野冬季オリンピックの縁で、北京オリンピック聖火リレーが長野市で行われた。北京オリンピックの聖火を静かに温かく迎えようと呼びかけ、女性委員会が中心になって紅白の祝賀のお饅頭を1000袋用意し、応援に駆け付けた中国留学生や市民に配布した。また、同年の四川大地震に際しては、義援金を県民に呼びかけ710万円余の浄財を中日友好協会や中国大使館を通じて被災地に贈った。

2010年の日中友好協会創立60周年記念の北京人民大会堂での祝賀大会には長野県からは175名が参加した。また、全国協会を代表して井出正一会長(全国副会長)が日本側基調あいさつを行った。

2011年の東日本大震災、2012年の尖閣問題など多難な時期が訪れ、長野県の友好運動も試練の時を迎えたが、2013年には、飯田日中友好協会が中心になって進めてきた満蒙開拓平和記念館が、多くの県民の支持と県や地元自治体の支援を受けて完成し、歴史を忘れず後の教訓とする平和を語り継ぐ拠点となった。

2016年の長野県日中友好協会創立60周年記念に際しては、記念事業に取り組むとともに60周年記念誌『虹の架け橋-長野県日中友好の歩みⅣ』を発刊した。

2018年の日中平和友好条約40周年と河北省との友好提携35周年に際しては、河北省はじめ各友好都市から31名の中学生卓球選手団を迎えて、長野、松本、須坂、上田、飯山の各市において卓球交流を行うとともに、県卓球交流大会を開催し、中学生同士のスポーツ交流を実現した。全国本部が日中国交正常化を記念して5年ごとに北京で行っている日中友好都市中学生卓球交歓大会には毎回6チームを派遣してきたが、その長野県版ともいえる。2年連続しての友好都市の卓球選手の交流となり熱い思いを共有できた。

2019年の新中国建国70周年にあたっては、日中関係改善の雰囲気の中、記念講演と祝賀つどいを盛大に開催した。

 中国河北省などから戦争末期2,800名余の中国人が長野県の木曽川水系、天竜川水系に強制連行され240名余が過酷な条件の中酷使され殉難されている。半田孝海先生をはじめ関係者は殉難者の遺骨収集、慰霊、遺骨送還に取り組んだ。この取り組みが県協会設立につながったが、1966年には天竜平岡に、1983年には木曽三岳にそれぞれ殉難烈士慰霊碑が建立された。平和友好条約締結の5年の節目ごとに両所で関係者が出席して慰霊祭が行われ、日中不再戦、平和友好を誓ってきた。

 長野県の特徴を活かして、継続的に進められてきたのが、中国とのスキー交流だ。1980年のアメリカで開かれたレークプラッシド冬季オリンピックに中国が初参加するために事前訓練を長野で行ったことがきっかけだった。以後、県、県スキー連盟、県日中友好協会、白馬村や野沢温泉村などの協力のもと中国スキー協会が派遣するスキー訓練隊を受け入れてきた。82年から2013年にかけては毎年スキー用具を送り続けその数は累計13万台に上る。1998年の長野冬季オリンピック招致の時、中国が長野を熱心に応援支持してくれたことは今でもスキー関係者の間で語り継がれている。現在長野県は中国を相手国とする東京五輪パラリンピックホストタウン事業に取り組んでいるが、それに続く2022年の北京冬季オリンピック支援交流にも積極的に取り組んでいる。

 帰国者支援活動も県協会の重要な柱だ。開拓団を日本一送り出した長野県は、帰国者も多い。現在その数は3世まで数えると5千人を超える。国交正常化後、残留孤児や残留婦人の帰国が実現するようになったが、1980年代に入ると孤児の肉親捜しが実施され帰国者の数が急増した。それに対応するため中国帰国者自立研修センターが長野県にも設置され、その運営を県日中友好協会が任されることとなった。1988年から2008年まで516名の帰国者を受入れ、生活日本語学習などを学習し自立して暮らしていける環境作りに協力した。その後は帰国者交流センターとして、長野、上田、松本、上伊那、下伊那などで日本語教室を開催している。毎年2月の春節交流会には200数十名の参加者で楽しい交流が行われている。

 中国理解を深める講演会や連続市民講座も継続的に開催されてきた。1992年以降は、ほぼ毎年秋に中江要介、平山郁夫、凌星光、矢吹晋、中島宏、橋本恕、国分良成、鮫島敬治、野中広務、天児慧、朱建榮、加藤紘一、加藤千洋、宮本雄二、高原明生、村山富市、丹羽宇一郎などの著名な皆さんを講師に招き、中国の最新事情や日中関係の課題を考えてきた。また県日中学術交流委員会が主催し協会が共催して、毎年6回の日中関係を考える連続市民講座を実施してきた。すでに23回目を数える。講師は県内で活躍している大学教授などに依頼している。

その他の青少年交流としては、かつて長野県が1984年から17年間にわたり毎年約350名累計6000名を河北省などに信州青年の船で派遣しており、協会としても82年から19年間にわたり長野県児童生徒訪中団を派遣し累計250名を超えている。訪中された皆さんが各分野で活躍していることも県内友好運動のすそ野を形作っている。

 中国人留学生との交流も盛んで、1991年から毎年夏休みに日中友好会館後楽寮の留学生を招いて2泊3日でホームステイを実施している。本年で29次、累計で1,008名となった。恒例の日中友好スキー交流会と友好キャンプに留学生を招いているが、特にスキー交流会は人気となっている。スキー用具とウェアーを無償で提供してくれている㈱スワロースキーやスキーリフトを優待してくれる自治体など大勢の善意に支えられて42回を数える。

◇写真上から、①長野県日中友好県民の翼・西沢権一郎知事を団長に各界代表135名で訪中(1977.10)、②長野県が河北省と友好県省締結、吉村午郎県知事と張曙光省長(1983.11)、③第10回日中友好交流会議・日中両国友好協会代表200名が参加(2005.4)、④長野県日中友好協会創立60周年記念誌「虹の架け橋ー長野県日中友好の歩みⅣ」を発行(2016.10)、⑤中国とのスキー交流・2022北京冬季五輪に向けて中国ジャンプ訓練隊の受け入れなどがおこなわれ40年を数える(2019.7)

  (2019.12.1 長野県日中友好協会理事長・布施正幸)