被災地で災害ボランティアに参加、中国友人も汗流す(11/2・3)

 10月12日・13日の台風19号によって長野県内の千曲川流域は広範囲に洪水に襲われ上流から下流域に至る甚大な被害を受けました。13日には長野市、千曲市、飯山市の被災地を回ってみました。14日には上流の佐久地方を回りました。濁流と土砂の威力はすさまじく多くの家屋を押しつぶしたり床上浸水、床下浸水、背丈の倍近い高さに濁流が運んだごみがリンゴの木にかぶさっている光景はまさに廃墟でした。自然の猛威を前に肩を落とす人々の姿が目に焼き付きました。

 しかし、被災地の人々は日が経過していく中で、気を取り直して、家の中をかたずけ、前に進もうとしていました。ボランティアの呼びかけがおこなわれ、徐々に現地に向かう人々が増えてきました。本当にボランティアはありがたい、切なる声がテレビで紹介されていました。しかしまだ圧倒的に足りない、もっと参加してほしい、もっと応援してほしい――。 

 丹羽宇一郎会長の『死ぬほど読書』を読んでいたら、三国志の劉備の「悪、小なるをもって之を為すなかれ。善、小なるをもって之を為さざるなかれ」という言葉が出ていました。こだまの様に胸に残こりました。

 友人の謝宏宇さん(中国国際放送局から長野孔子学堂に派遣され長野市滞在中)と被災状況について話し合った中で、やはり現地に行ってボランティア活動に参加しようということになりました。3連休の11月2日、時間が取れたので、ボランティアに参加しました。(謝さんは3日に参加。)

 まず柳原総合市民センター脇に設置されている長野市北部災害ボランティアセンターで受け付けを済ませます。マスクとゴーグル、(軍手)が渡されます。(長靴と昼飯と飲み物は必ず持参する必要があります。)5人ずつのグループに分けられて、その中に経験のある人がいるとリーダーに指名されます。付箋2枚に名前と携帯番号を書き入れ2枚のA4用紙にそれぞれ付箋を各自1枚ずつ張ります。一方の用紙はセンター事務局の方に提出し、1枚は各グループリーダーが持つという簡単だが合理的な方法です。4グループほどが一緒にマイクロバスに乗り込んで被災地に向かいました。我々のグループはみな長野市の方でしたが1人は豊野の勤め先の工場が被災し機械類が全滅、工場のかたずけは終わったが、現在自宅待機となっているとのことでした。

 この日のボランティアは2300人、被災がひどかった地区に優先的に投入されたようで、長野市長沼津野に入りました。堤防が70mにわたって決壊した集落でした。長野市の施設である長沼公民館がボランティアセンターの津野サテライトになっていました。ここは決壊した堤防から100mほどのところにあって天井近くまで洪水が押し寄せたことがわかる建物でした。構造がしっかりしていたので鉄骨の柱と天井はしっかり残っていて、昼食時の休憩場所などにも使われていました。この建物の北側には農家の立派な入母屋造りの2階建ての建物が建っていましたが、1階は濁流に流され今は家財道具も畳も床もみんなはがされ周辺の納屋などはひん曲がって無残な姿をさらしていました。災害ごみとかき出された泥の量は半端ではありません。(写真参照) 南側には体育館があり、形はしっかり残っていますが、間にある民家は土台だけで上は姿かたちも残っていません。濁流が直接押し寄せ何件も持ち去っていったようでした。集落センター入口の近くに災害ごみの仮置き場があって雑然と積み重ねられた家電、戸棚あらゆるごみが目に飛び込んできました。(業者さんなどの車が入ってどんどん正規の集積場所に運んでいますが、次々にごみが出されて満杯状態が続いているといいます。)

 グループリーダーが室内に集められて、ボランティアに入る場所を指示されます。いよいよスコップなどを受け取り、現場に向かいます。入った先のYさん宅は果樹農家で2階建ての立派な構えのお宅でしたが、一階が背丈ほど浸水し土砂も流れ込んで大きな被害を受けたとのこと。すでに家財は運び出され床や土壁もはがされ、床下の泥もかき出され吹き抜け状態となっていて大分片付いているように一見見えましたが、よく見ると庭にうずたかく中から運び出された泥が積まれていました。犬走部分にも泥の山、庭の植木も泥に埋まり他所から流されてきたファンヒーターや屋根のトタンらしきもの、絡まり合った大小のごみくず、中には祭りの幟を掲げる長い柱まで、植木にのしかかっているありさまでした。15人ほどで、さっそく泥を土のう袋にスコップで詰め道路沿いのスペースに一輪車で運び出す作業に取りかかりました。慣れない手つきの人が多かったですが、みんな積極的に作業していました。中に東京から参加した若い男女がいました。スコップの疲れない扱い方を教えてやると「すごく楽です」と感謝されました。昼はサテライトに戻って、持参したおにぎりをほおばります。愛知県や鳥取県から参加した方と話ができました。大きな災害があると各地に出向き今回6度目といいます。頭が下がりますと話しました。休み時間を利用して、決壊した堤防と周辺を歩いてみました。堤防は仮修復がなされ2重構造で当面の憂いが無いような構造になっていました。堤防道路から津野の集落に入っていく標識が土手下に転がっていました。また土手下の公園の遊具が完全に水没した後をとどめていて3mほどの高さのところまでごみがまとわりついていました。付近の神社やお寺も大きな被害を受けたといいます。360度の風景を心に留め静かに深呼吸しました。

 現地に入っての活動は午前10:30に始まり、午後3:00まででしたが、庭の泥搬出がようやく一段落したところでした。復旧にはかなりの時間を要すると実感しました。Yさんは70代の年配の方で、大変感謝されました。家はリフォームか建て替えか思いを巡らせているようでした。差し入れのみかんをおいしくいただきました。Yさん宅を後にしサテライトに集まり、再びマイクロバスで柳原のセンターに戻ったのは4:15頃でした。皆さん疲れてはいましたが、被災地に思いを馳せながら家路につきました。この地区はまさに泥との闘いであり、泥水に浸かった家財ごみとの闘いだと実感しました。

 謝さんに連休明けに再会し話を伺うと、入った先は同じく津野で道路脇側溝の泥出し作業を行ったとのこと。これは一段と労力のいる作業です。中国の友人が慣れないスコップを手にして、汗を流してくれたことは本当に感謝の念を禁じ得ませんでした。ご苦労様でした。中国の方はよく四川大地震の際の日本の支援に感謝を述べ、東日本大震災の際には日本頑張れと様々な支援をしてくれました。日中両国の人々の友情を想起しながら友好を進めていきたいと強く思いました。

 広範囲にわたる今回の災害では引き続きボランティアの支援が必要ですが、国県地元市町村、特に国による強力な財政投下による、生活の拠点の整備支援、生業の再構築支援が必要だと痛感しています。みんなで声援を送るとともに、みんなで強く要請していきたいものです。地球温暖化の中で100年に一度と言われていた自然災害は今後多発していく可能性が高いと言われています。自分たちの身近なこととして考えていきたいと思います。(F)

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