故堀内巳次先生お別れの会におけるお別れのことば

                                
長野県日中友好協会会長 高波謙二

故堀内巳次先生のお別れに際し、謹んでお別れのことばを申し上げます。

堀内先生の本業でありました農協運動における業績は、地元農協組合長・県農協会長・全国農協中央会会長を歴任されたことがすべてを物語っています。「至誠一貫」を信条とし深い洞察力と実行力に裏打ちされた先生であったればこそのご活躍であったと存じます。

先生のライフワークとなった日中友好につきましては、自身の戦争体験から、日本と中国は再び戦火を交えることがあってはならず、子々孫々にわたり友好的に付き合っていかねばならないとの信念のもと、中国との友好促進に情熱をもって尽力されました。「戦争への反省ができれば日本人は大国民になれる」との先生のことばがよみがえります。

先生は1994年、花岡堅而先生(元日本医師会会長)の後を継いで、第4代長野県日中友好協会会長に就任されました。私は、信州青年洋上セミナー実行委員会の責任者を務めていた関係で、県友好協会の副会長の1人としてお仕えしました。先生は長年にわたって培った卓越した力量を発揮され、日中友好と友好協会の発展に尽くされました。私は公私にわたりご指導いただいたことが懐かしく思い出されます。

数多くの友好所事業を先頭に立って推進されましたが、特に3つの事業が印象に残っております。

ご功績の1つは長野冬季オリンピックに中国友人を招く取り組みです。3000名の協力者による実行委員会を組織し、3年間1日10円貯金を実施し3000万円の資金をつくり200人の中国友人を招きました。長野オリンピック招致に協力してくれた中国に応えることができ中国でも大きな反響を呼びました。

2つ目には、中国河北省に4つの希望小学校を贈呈しました。当時中国はまだ農村地帯では教育環境が整っていない貧しい地区もあり、貧困地区の子供たちを支援する希望プロジェクトが提唱されていました。堀内先生は先頭に立って寄付を呼びかけ、またオリンピック国際協力基金の協力も得て、4校の希望小学校を寄贈することができました。教育者であり、農村の発展を願っていた先生は深く喜んでいました。

3つ目には、2000年からスタートした日中緑化協力に力を尽くされました。1年目は寄付をを呼びかけスタートしましたが、引き続いて国の日中緑化協力基金の助成を受け、この事業は現在も継続されております。河北省の石家庄市、保定市、邢台市で実施され、地元の緑化推進計画を後押しする役割を果たしました。植林された累計本数は150万本あまりに達しています。「日中同天、緑化協力」のスローガンの通り、日本と中国の空はつながっており日中緑化協力は環境保全の上でも、重要なテーマであります。

堀内先生は、また日中友好協会全国本部の副会長として当時の平山郁夫会長を支え、南京城壁修復事業はじめ全国的な課題にも積極的に協力し日中友好に熱心の県として長野県の名を高らしめました。

2003年には、中日友好協会(現在の会長は元国務委員、外務大臣の唐家璇先生)から長野県人として初の「友好之使者」の称号を授与されました。

先生のご逝去に対し、中日友好協会から県協会長あてお悔やみの弔電をいただきましたのでここにご披露させていただきます。

--貴協会元会長・最高顧問堀内巳次先生のご訃報に接し、悲しみに耐えません。堀内先生は心から平和を愛し、長年にわたり、友好運動を繰り広げ、両国民の相互理解の促進、とりわけ長野県日中友好協会と中国との友好関係のためにご尽力されました。堀内先生のご逝去は、中日友好事業にとって尊敬される先輩が失われたこととなり、痛恨の極みでございます。心より堀内先生のご冥福をお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様が気を落とさずに、ご自愛なさいますよう心からお祈りいたします。--

 本年は日中国交正常化45周年にあたります。日中関係は徐々に明るさを取り戻しつつあります。一衣帯水の隣国中国とは深い絆で結ばれており、両国国民は英知をしぼって仲良く付き合っていくほかありません。私どもは、先生の日中友好の志を受け継ぎ、日中不再戦、平和友好協力のために力を尽くしていきたいと決意しております。

先生のご冥福を心よりお祈り申し上げお別れのことばとさせていただきます。(合掌)(2017・9.25)