様変わりする世界の中の「日本と中国」

                                                        2012年2月20日

                  神奈川県日中友好協会会長  久保 孝雄
 

1.転回する世界―250年ぶりの中国「復活」

   @「中国は21世紀の覇者となるか?」

先日、ある本屋に立ち寄ったら『中国は21世紀の覇者となるか?』(早川書房)と言う大きなテーマの小さな本(新書版)が置いてあった。表紙には「世界最高の4人の頭脳による大激論―全日本人必読」というコピーが躍っている。

表紙裏のコピーには「欧米の凋落により、日増しに存在感を高める東の巨竜・中国。このままアメリカを抜き去り、世界に君臨するのか。それとも、国内外に抱える膨大な矛盾から体制崩壊へと至るのか?この喫緊の課題を論じあうべく、2011年6月、カナダのトロントに中国事情に精通した4人の国際的論客が集結。「中国は21世紀の覇者となるか?」というテーマをめぐり、元アメリカ国務長官キッシンジャーとインド出身のジャーナリスト、ザカリアが反対。ハーバード大学歴史学教授ファーガソンと清華大学経済学教授リーが賛成の立場から超大国の行方を徹底的に語り尽くす」と書いてあった。なかなかうまい宣伝文句で、つい引き込まれてしまった。

早速読み始めたがとても面白かった。欧米人がよくやるディベートのやり方も興味深かったが、内容も刺激的だった。ただ残念なことに、中国人の若い学者の発言が一番インパクトが弱かった。また、羨ましく思ったのは、このハイレベルの討論を聞くために集まった2700名の聴衆で会場が満席だったこと、世界中で数百万人がTVやインターネットなどで視聴していたことだ。

内容を詳しく紹介する時間はないが、私の印象に残ったのは、賛成者のファーガソンと、反対に回ったキッシンジャーの議論だった。ファーガソンは「21世紀は間違いなく中国の世紀になるだろう」と断言し、なぜなら人類が経てきた過去20世紀のうち、18世紀まではいずれも中国が「かなりの差で世界最大の経済大国だった」からだと主張していた。

さらに、「19世紀と20世紀は例外だったのだ。中国は一つの国家というより、一つの大陸であり、一つの世界なのだ。人類の5分の1がここに住み、欧州並みに国が分かれていれば、90カ国で構成される一つの世界になる。I MF(国際通貨基金)は、今後5年で中国が世界一の経済大国になると予測しているが、これは正しい予測だろう」という。

したがって、中国の台頭は別に新奇なことではないと指摘し、最後に1972年に米中国交回復を実現したニクソン元大統領の言葉を紹介している。ニクソンは「中国大陸を、誰かがまともな政府機構をもって統治したら、・・要するに、8億人の中国人がまともな体制の下で働くようになれば、彼らはすぐに世界のリーダーになるだろう」と言っていた。

これに対して、反対討論に立ったキッシンジャーは、「中国が成し遂げた途方もない偉業に敬意を表する。この40年間の中国人の功績はだれも否定することができない」と高く評価しつつも、「しかし、21世紀の中国は膨大な内政問題、差し迫った環境問題に足をとられるだろう。そのため中国が21世紀の覇権を握ることは想像しにくい」と述べている。

さらに、キッシンジャーは「私はいかなる一国でさえ、世界を支配すると考えることそれ自体が、今私たちが生きるこの世界を誤解していると思われる」と述べたうえで、「21世紀は中国の世紀かどうかが問題なのではない。21世紀であろうとなかろうと、中国がもちろん強くなっていくにつれて、われわれ西側が中国とうまく付き合っていけるかどうかが問題なのだ。さらには中国がわれわれとともに、新しい(世界秩序)を作り上げていくことができるかどうかです。この新しい(世界秩序)とは、おそらく史上初めてのことでしょうが、新興国が国際的制度に組み込まれ、平和と進歩を促していく(力になる)というものです」と言って、今後の世界を考えるうえで重要な視点を提起している。つまり、これからの世界では一極支配ができる国などはなく、新興国を含む多極的な世界秩序になっていくだろうと言う構想を示したと見ることができる。

  A最近の歴史学の新潮流

ファーガソンが言っていたように、中国は人類が経過してきた20世紀のうち、18世紀までは世界一の経済大国だったわけで、中国が世界一になることは別に新しいことでも、珍しいことでもない。最近は経済統計学という学問が進歩して、かなり古い時代の経済活動を精密に推計できるようになってきている。これらの研究によると、アヘン戦争が始まる20年前の1820年の中国のGDPは、世界GDPの33%だったことが明らかにされている。さらに、さかのぼって1400年(明朝の初期)時点を見ると、なんと中国とインドで世界GDPの75%を占めていたことが明らかにされている(中国が50%で、インドが25%か)。

こういう事実が明らかになるにつれて、世界史の見方も大きく変わり始めているようだ。最近、『中国化する日本』(与那覇潤著、文芸春秋社)という、若い歴史学者の書いた本が出て話題になっているが、この中で著者は「現在の世界における中国の大国化を、何か新奇な現象と見るのは大きな間違いで、逆に有史以来18世紀まで世界一の大国だった中国の250年ぶりの復活―いわば当然の復活としてとらえるべきで、世界がこれにどう対応すべきかを考えるのがわれわれの課題だ」、「むしろ、なぜヨーロッパのような「後進地域」だったところが、「先進国中国」を逆転して産業革命に成功したのかを解明することこそ、世界史研究の今日的課題」なのだ、と書いている。

また、これまでの歴史教科書では、近代は欧州から始まったことになっているが、最近の研究では近世(early modern)は中国の宋朝から始まっていたし、資本主義経済が生まれたのも中国の宋時代だった、ということになってきているようだ。

著者の与那覇氏は「歴史を見る目を根本から変えない限り、私たちの身のまわりで起こり、私たち日本人の生活に現に影響を与えている政治的、経済的なもろもろの出来事を正しく理解できない、そういう時代に、今の世界は入ってしまっているのだ」とも言っている。

ところで、日本には、いや世界的にも中国の台頭を快く思わず、あるいは脅威と受け止める偏った中国観にとらわれている人たちが大勢いるが、こうした世界史的な観点から中国を見ないと、大きな誤りを犯すことになる。

なぜなら、中国の歴史的な台頭、「復活」は、現在及び将来の国際情勢に大きなインパクトを与えることになる。それは、100年近く続いた「アメリカの時代」の終わりを意味するだけではなく、250年も続いてきた「欧州中心の時代(ユーロ・セントリズム)」の終わりをも意味する世界史的な出来事だからである。

このことを分析、研究した本が、ここ数年に何冊か出ている(アンドレ・フランク『リオリエント』、チャールズ・カプチャン『アメリカ時代の終わり』、クライドプレストウイッツ『東西逆転』、ジョバンニ・アリギ『北京のアダム・スミス』、ステファン・ハルパー『北京コンセンサス』など)が、すべて欧米人の書いたものばかりで、日本人の書いたものは一冊もないのが残念だ。キッシンジャーがかつて「日本人は戦略的思考に弱い」と言ったことがあるが、政治家や学者も含め、日本人はスケールの大きな歴史認識や時代認識が弱いというのが国際的定評のようだ。しかし、これでは国の進路を誤りなく設定する国家戦略など描きようがないことになる。

   B「ジャパン・アズ・ナンバーワン」から「衰退国日本」へ

そこで、次に世界における日本の問題に移るが、先程紹介したディベートで反対討論に立ったインドのザカリアは、中国が世界の覇者になれない理由として、次のように日本の例をあげていた。「(中国はいずれ世界の覇者になるだろうとの意見があるが)それを言うならば、日本もしばらくの間はそんなふうに見られたものです。日本はかつて世界で2番目の経済大国でした。世界は今に日本人のものになるとも言われました。どれだけ聞かされたことか。今に誰もがスシを食べるようになるとも言われました。確かに今や誰もがスシを食べているので、それは当たっていますが、それ以外の予測はすべて実現しませんでした」。

「思いだしてください。日本は数十年間、世界で2番目の経済大国でした。ですが、あの国にはいかなる壮大な主導的構想もついに見られませんでした。(一国の国力や)政治力にはそんな構想力やその実行力が必要なのです」。

なかなか鋭く日本の弱点を突いているが、中国もこの「日本の二の舞い」になるだろうというのが彼の主張だ。しかし、彼はインド人で、中国の台頭を快く思っていない人のようなので、意見には偏りが出ているかもしれない。

今から振り返ってみると、日本の国力のピーク、世界における日本の存在感のピークは「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた80年代の始めごろまでだったのではないか。当時、日本はGDP世界第2位のほか、1人当たりGDPでも、製造業を中心とした産業競争力でも、世界のトップクラスだった。まさに日本はグローバルプレーヤーの1人で、「日本は太平洋戦争の敗北を経済戦争で取り返そうとしている」と言われるほどだった。

しかし、80年代末から90年代初めのバブル崩壊とともに、日本の衰退が始まり、「失われた10年」が「失われた20年」になり、2010年にはGDP世界2位の地位を中国に明け渡し、一人当たりGDPも20〜23位前後まで転落し、数万社が中国を始め海外に進出するなど産業空洞化も進み、賃金水準は低下を続け、慢性的な雇用不安が続き、生活保護所帯は戦後最高の207万に増えている。

こうして日本は、かつて国際社会で占めていた「栄光の座」を失い、グローバルプレーヤーの地位をも失いつつあるのが冷厳な現実である。

2.転回するアジア―150年ぶりの「日中逆転」

次に、アジアにおける「日本と中国」の関係について見ておきたい。ここでも150年ぶりの逆転が起きている。まず、国交正常化した40年前の日本と中国を比べてみよう。当時、日本は「東洋の奇跡」と呼ばれた1960年代の高度成長の結果、68年にはドイツを抜いてアメリカに次ぐ世界第2の経済大国にのし上がったばかりで、国全体に勢いがあった。

これに対して、中国は1967年に始まった「文化大革命」で社会が大混乱し、経済も極度に疲弊していた。72年の数字がないので75年を見ると、GDPは1800億ドル程度で日本の4分の1くらい、1人当たりにすると230ドル程度で、世界の最貧国の一つだった。

私は、1975年に初めて中国を訪問した際、上海郊外の人民公社を見学したが、その余りの貧しさに愕然とした記憶がある。建国以来25年も経つのに、こんな状態では中国社会主義は失敗だったのではないか、中国は崩壊するかもしれないと思ったほどだった。しかし後で分かったことだが、この時、国の進路をめぐって改革派と保守派=文革派が必死の闘いを展開している最中だった。この時が中国経済の混乱のボトムの時期だったかもしれない。

文化大革命で国を大混乱させた保守派との闘いで、ケ小平率いる改革派が勝利し、79年から改革・開放への大転換が始まった。政治、経済、社会の改革と再生が始まったが、とくに経済は目覚ましい躍進をとげ始めた。20年後の2000年には工業生産で世界第1位になり、「世界の工場」と呼ばれるようになった。2001年にはWTOに加盟し、04年には先進国サミットのオブザーバーに、リーマン・ショックなど世界金融危機後の08年には世界経済の牽引役として期待を集め、先進国サミット(G8)に代わったG20の主力メンバーとなった。そして2010年にはGDPで5,93兆ドルに達し、日本のGDPを4500億ドル上回って世界第2位の経済大国になった。IMFは今後5年でアメリカに追いつき追い越すと予測している。

こうした人類史上空前の目覚ましい経済的躍進を背景に、世界経済に対する影響力が拡大し、世界政治における存在感を大きく高めてきた中国に対し、世界はいまこの事態をどう受け止めるべきかについてホットな議論が巻き起こっている。先に紹介したトロントの討論会もそのひとつだ。マルクス風に言えば「中国という妖怪が世界を徘徊している」といった状況と言えるかも知れない。

すでに見たように、40年前、国交正常化当時の中国は本当に貧しかった。そこで、日本の援助が欲しかった。日本の資金と技術が喉から手が出るほど欲しかった。当時の中国はまだ鎖国状態だったから、日本が中国の命綱ともいえる時代だった。しかし当時の日本は、中国の希望に十分こたえていたとは言えない。確かに、その後30年間で3兆7000億円のODAを提供したことは事実で、これが中国経済の発展に大いに貢献したが、その多く(90%以上を占める3.3兆円)は借款だった(2007年)。

私が中国の幹部から直接聞いた話では、中国は自動車産業の育成に日本の力を借りたかった。トヨタ、日産などを誘致したいと「三顧の礼」を尽くしたにもかかわらず、日本の大手は「中国でモータリゼーションが起こるとは思えない」との判断で中国進出を断ったという。日本政府も協力してくれなかった。中国はやむなくアメリカのGMやフォード、ドイツのベンツやフォルクスワーゲンなどに切り替えざるを得なかった(私が上海の蒲東地区を見学していたとき、GMの工場建設予定地に大勢のアメリカ人が集まっていた。それを見ながらこの話を聞いた。新幹線についても中国鉄道省は日本方式を導入したかったが、日本が中国の嫌がる靖国参拝をやめなかったため、鉄道省は孤立し、これもドイツ、フランスのとの提携へと転換せざるをえなかったようだ)。

こうして、改革、開放が軌道に乗って10%前後の高度成長が続く一方、日本が「失われた20年」と言われるように停滞が長期化するにつれて、日本企業の中国進出がなだれを打つように進行し、貿易面でもあっという間に中国がアメリカを抜いて日本の最大の貿易相手国に変わってしまった。

戦後長らく日本の輸出の3割はアメリカだったが、最近は11〜13%ぐらいに縮小し、代わってかつて3〜5%ぐらいだった中国貿易が今や20〜23%、香港、台湾を含むグレーター・チャイナでみると30%、ASEANを含めると50%を超えるようになり、日本の貿易構造は完全にアメリカ離れを起こし、中国経済が日本経済の命綱に変わってきている。一方、中国にとって日本は only one から one of them に変わってしまった。日本は中国経済なしにはやっていけなくなったが、中国は日本経済なしでもやっていけるようになってしまった。

それほど、日中の経済的結びつきが深まり、日本が生きていくためにも日中関係が大切になっているのに、日本では依然として反中、嫌中感情が根強くくすぶっている。国際的にも奇異に感じられているほどの日本人の嫌中感情は、戦時中「暴支膺懲」を煽った反省も忘れて、マスコミが執拗にくり広げる「拝米嫌中」の世論誘導に大きく影響されていると思われる(注)。

(注)国際問題評論家の田中宇氏は、最近の解説「中国とアフリカ」のなかで次のように書いている。「私は今回の記事を書くにあたって、昨今の日本人の中国嫌悪の感覚に合わせ、何とか中国をほめないように書こうとしたが、その自分の姿勢に途中で気づき、やめることにした。中国を悪く書かねばならない今の日本の状況は「戦争中」と同質だ。第二次大戦中は言論抑圧が露骨だったが、今はもっと巧妙で、人々はいつの間にか歪曲された国際価値観を植え付けられている。現状は戦時中より深刻だ」(田中宇のニュース解説、2月6日号)

そこで、江戸時代までの日本人が中国に対して抱いていた心情や考え方―伝統的な中国観―を、参考までに振り返ってみることも意味があると思うので、エピソードを1〜2紹介してみたい。

一つは河川氾濫地域の農民の間に広く行われていた「禹王信仰」である。一昨年秋、神奈川県の西部、酒匂川(さかわがわ)のほとりにある開成町でユニークなシンポジウムが開かれた。開成町は県内で一番小さな町だが、町長が企画したのはスケールの大きなイベントだった。なにしろ、今から4700年の昔、紀元前2070年ころに誕生したとされる中国最古の王朝、夏(か)の創始者・禹(う)王を、現代的に顕彰し、記念する全国シンポジウムを開いたのである。

夏王朝は長らく幻の王朝とされてきたが、最近では実在の王朝だったことが分かってきた。禹王は「暴れ川」の黄河を独特の工法で鎮め、農民を助けて農業を興し、自らは質素・倹約を旨とし、「治水の神様」として広く崇敬されるようになった。

この禹王が、実は中国だけでなく台湾、韓国、そして日本でも治水神として大きな崇敬を集めてきていたことが分かってきた。開成町の郷土史研究家たちの熱心な調査によって、関東以西の10河川、18カ所に禹王を祀(まつ)る記念碑や神社があることが確認されている。

酒匂川の両岸にはそれぞれ記念碑と神社があり、記念碑の碑文は、当時の有名な学者、荻生徂来が手を入れたとされる立派なものだ。神社(文命宮)の祭神は「夏禹王」と明記されている。町長の説明では、江戸時代には禹王の名は広く農民の間に浸透していたという。

なお、開成町の町名は中国古典の一つ、易経の「開物成務」(物を開き、務めを成す=真理を探究し、責務を果たす)に由来し、町立文命中学は禹王の名「文命」に由来するという。全国から1000名も集まったシンポに参加して、この小さな町が古代中国の文化と深いつながりがあることに、時空を超えた壮大なロマンを感じた。

また、室町時代に生まれた流行語に「三国一の花嫁、花婿」という言葉があるが、三国というのは唐(から)、天竺(てんじく)、今の中国、インドと日本のことだ。昔の日本人にとって外国とは唐、天竺しかなく、唐、天竺イコール世界だった。また「西方浄土」という言葉もある。西方十万億土に阿弥陀仏の極楽があるという信仰だが、この場合の西方も唐、天竺がイメージされている(子供の頃、西の林に沈んでいく太陽を拝む母の姿を何度も見た)。要するに、昔の日本人にとって唐、天竺は尊いもの、尊敬すべきもの、憧れるべきものの対象だった。

こうした長い間の中国に対する日本人の心情―伝統的中国観を大きくひっくり返したのが、明治維新だった。中国が1840年のアヘン戦争に敗北して以来、欧米列強の植民地になり、かつての中華帝国の栄光を失っていたこともあり、日清、日露の戦いの勝利で勢いづいた軍国主義が日本を覆い尽くすにつれて、中国蔑視、アジア蔑視の思想が徹底的に国民の頭に刷り込まれた。中国人をチャンコロ、朝鮮人をチョン、ロシア人を露助、南方人を南洋の土人と蔑む風潮が広がった。福沢諭吉の「脱亜入欧」論が大きな役割を果たした。

(最近の研究では、「脱亞入欧」は福沢が唱えたものではないとの説が有力である。ただ、福沢が書いたと思われてきた当時の新聞の論説には、次のようなことが書かれている。「日本の不幸は中国、朝鮮の隣国であることだ。・・日本は大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。・・隣国だからと言って特別な感情を持つ必要はない。・・私は気持ちにおいて<東アジア>の(野蛮な)隣国とは絶交するものである」(明治18<1885>年3月16日、時事新報)。福沢のものであるかどうかは別として、こうした考えや感情が、当時、大いに鼓吹されたことは事実である)

しかし、これがいま、150年ぶりに逆転しつつある。『中国化する日本』の著者の与那覇氏は「2010年に起きた日中のGDP逆転は、日本が中国に対して優位を誇った時代が終わるのではないか、という不安と、なぜ「遅れている」はずの隣国に追い抜かれるのか、という不安と不満の空気が日本に広がっている。事実において日本の中国への優位性は失われ、「豊かな日本」が終わりつつあるのだが、意識の面でこれを受け入れることはなかなか難しく、時間がかかるのではないか」と言っている。まさに今、日本及び日本人は、中国との関係において150年ぶりに大きな民族的試練に曝されていると言っていいのではないか。

3.新しい日中関係、新しい世界秩序を求めて

   @中国台頭への3つの反応

この40年間、世界における「日本と中国」に生じた歴史的な変化を見てきたが、とくに中国の台頭に対してさまざまな反応が起きている。そのいくつかを見てみよう。

第一は、中国の台頭をできるだけ過小評価し、究極的にはその挫折、崩壊を願望し、アメリカ中心の世界秩序が続くことをめざすものである。そのため、アメリカによる中国包囲網や中国封じ込めを強めようとする考え方で、アメリカの軍産複合体=タカ派の世界軍事戦略に沿う考え方である。ただし、アメリカは深刻な財政危機で軍事費の削減に迫られているため、アジアで軍事力を増強することができず、中国包囲網に日、韓、豪、比などの同盟国の軍事力を活用しようとしている(オフショア・バランシング)。日本はじめこれら同盟国の軍隊はアメリカ軍事戦略に組み込まれ、「将棋の駒」にされるのだが、これらの国にそれだけの自覚と覚悟があるのだろうか。

第二は、中国の台頭を自然なもの、不可避なものとして受け入れ、中国を新しい世界秩序の中心の一つに据え、米中で世界をリードする「G2時代」をめざそうとする考え方で、一昨年秋、北京訪問の際オバマ大統領が示したのはこの考え方である。最近、オバマ大統領は「アジア太平洋最重視宣言」を発し、中国封じ込めを強化する姿勢を見せたりしているが、これは秋の大統領選挙に備えて保守派を取り込むための戦術の要素がつよいと見られる。今のアメリカには中国とコトを構える余力はなく、「アジア重視宣言」はアジアの成長力を米国経済再生に取り込みたいというのが本音と思われる。

第三は、中国の台頭は、冷戦終結後20年以上続いたアメリカ一極支配が終わり、250年続いてきた「欧州中心の時代」の終焉を意味するものであり、今後はBRICSなどの新興国が世界経済の主力を占める時代になると言う考え方である。したがって、アメリカ覇権崩壊後の世界は、アメリカ、EU、BRICS、ASEAN、AU(アフリカ連合)、アラブ連盟、CELAC(中南米・カリブ海諸国共同体)などが協調し合う多極協調の新しい世界秩序の形成をめざすべきだと言う考え方である。いうまでもなく、この第三の考え方が世界の新しい現実に最も適合しており、中国はじめ新興国の多くはこの考え方に近いと思われる。

  A新しい日中関係を求めて

最後に、日本および日本人がとるべき立場、考え方だが、日本および日本人が新しい現実に立脚した中国観を確立するまでには、ある程度の時間といくつかの試練を経なければならないだろう。中国が日本を抜いてアメリカに次ぐ、あるいはアメリカを超える大国になるからといって、悲観したり、卑下したりすることはない。2000年の日中交流の歴史のうち1800年は、世界一の大国としての中国と付き合ってきたのであり、歴史的にはそういう付き合い方に、日本民族は慣れているはずである。

しかも、中国は1人当たりGDPではまだ日本の10分の1程度で、途上国の段階にある。中国が1人当たりGDPのレベルでも、経済や社会の成熟度のレベルでも、さらには政治体制の面でも、文字通り先進国のレベルに達するには、まだ相当の年月を要するはずである。

経済、社会、経営、技術(とくにハイテク)、文化、教育、環境などの各分野で、中国にはないが日本にあるもの、日本にはないが中国にあるものが互いに多数存在する。「ライバルではなく、パートナーとして相互に補完し合い、戦略的互恵関係を深化、発展させていくことが重要」(習近平)である。

日本は今経済的に衰退し、政治的閉塞状態にあり、国際的存在感を失いつつあるが、これは一種の先進国病(目標喪失、規範喪失など)という側面もあり、どの先進国でもこの病に侵される可能性がある。中国も遠い将来、高度成長が終わって低成長時代に入ったとき、今の日本と同じ病に侵される可能性がないとは言えない。日本が先進国の次の段階―超先進国への生みの苦しみを乗り越えていくことができれば、多くの先進国に対して、遠い将来の中国に対しても、参考となるモデルを提供することができるはずである。

戦後のあの焼け野原から、何の資源もない日本を世界第2の経済大国に築き上げてきた日本人の創造的能力をフルに動員し、農業社会から工業社会への転換、工業社会から脱工業社会、知識・情報社会への転換に成功してきた日本人の知恵と力を結集すれば、アジアと世界の新しい時代を切り拓くパイオニアに、日本をしていくことができるのではないだろうか。それ以外に日本の進むべき道はない。

(本稿は、2月1日、神奈川県日本中国友好協会主催で開かれた「2012新年会―日中国交正常化40周年を迎えて」における記念講演の記録に補筆したものである)