宮城県女川町 地元民の助けで中国人研修生約百人が生還

 「地元の人々の助けがなければ、私たちはとっくに死んでいたでしょう。」

 中国・大連出身の研修生・衣亜男さんとその仲間は宮城県女川町で目に涙をためながらこう語った。

 女川町はこのたびの地震で、人口約1万人のうち半数以上が今も行方不明となっている。町内は一面の廃墟と化し、海岸線にはいくつもの遺体が打ち寄せられた。鉄道車両は津波で真っ二つとなり、レールから数十メートル離れた山に打ち付けられた。これほど深刻な被害を受けた女川町で、約百人の中国人研修生が難を逃れることができた。多くの人は地元の人の助けにより九死に一生を得たという。

 地震発生時、地面が激しく揺れた。佐藤水産株式会社の中国人研修生20人は宿舎付近の高台に避難した。まもなく、同社の佐藤充専務が「津波が来たぞ!」と叫びながら走ってきて、彼女たちを連れてさらに高い場所にある神社へと避難した。研修生を避難させた後、佐藤専務は妻と娘を探すため宿舎に戻った。しかし、宿舎はまもなく津波に呑まれ、佐藤専務はそれっきり戻ることは無かったという。

 衣亜男さんは涙に咽びながら「佐藤専務は逃げ道がなくなり、屋上で右往左往しているうちに水に巻き込まれてしまいました。何度かは持ちこたえましたが、すぐに見えなくなってしまったのです」と語った。研修生の張軍燕さんがデジタルカメラで撮影した映像には、命の恩人である佐藤さんが津波に呑まれるのを、「早く逃げて!」と泣き叫びながら見守るしかない女の子たちの姿が記録されていた。張軍燕さんによると、佐藤専務の妻と娘もまだ行方不明のままだという。

 災害当日の夜は大雪となり、研修生たちは行き場が無かった。佐藤専務の兄、佐藤水産の佐藤仁社長は家族を失った悲しみに負けず、山の上に住む友人の家を一晩中かけて探し、そこに研究生を避難させてくれた。佐藤水産の研修生管理を担当する杜華さんは「地震の翌日、佐藤社長は私を見て『杜華、20人全員助かったぞ!』と言いました」と述べる。

 岡青株式会社の社長と部長も中国人研修生を助けてくれたという。彼らは地震後すぐに車で5人の研修生を付近の山に運んだ。大連出身の曹晶さんは「その夜、社長は私たちを山頂の温泉旅館に避難させてくれました。彼らはその時、自分のお子さんすら見つかっていなかったのです」と述べる。状況が安定した後、彼女たちは現地で最大の避難所に連れて行かれ、数十人の中国人の仲間と合流したという。

 避難所では、彼らは1日に2食から3食の食事が保証されている。情報が広まるに伴い、ますます多くの救援車両が到着し、補給も次第に足りてきた。

 曹晶さんは「皆さんの助けが無ければ私たちは一体どうなっていたことか。想像することもできません」と述べる。時間との戦いとなる避難の中、地元の人々は全ての命を同様に扱い、尊重してくれた。研修生たちはこのことを一生忘れないだろう。(編集SN)  (「人民網日本語版」2011年3月16日)