映画 「嗚呼 満蒙開拓団」 と趙喜晨さんが語る歴史
                   Writer・翻訳  小林さゆり                                    (2010.01.24 Sunday   北京にて)

    

 なぜ、このような悲劇が起きたのか、そして今の時代に生きる私たちは、どうすればいいのだろう――。
 そんなことを、改めて深く考えさせられました。

 2008年に日本で製作・公開され、大きな話題を呼んだドキュメンタリー映画 嗚呼 満蒙開拓団 (羽田澄子演出、自由工房製作) の鑑賞会が23日午後、北京市内のホールで開かれ、日中両国の研究者や学生、会社員、マスコミ関係者ら約60人が会場をいっぱいに埋めました (主催: 「嗚呼 満蒙開拓団」 鑑賞会・実行委員会、協力: 自由工房、北京日本人会)。
 主催者の北京日本人会から横田恵三郎会長が、来賓として中日関係史学会の丁民名誉会長らが出席しました。 満蒙開拓団とは1931年の満州事変以後、日本政府の国策によって、中国大陸の旧満州、内蒙古、華北地方に入植させられた日本移民のこと。
 「王道楽土」 や 「五族協和」 という夢のようなプロパガンダを信じ、広大な土地の開拓と自由を求めて大勢の日本人が中国東北地方に渡りました。 45年の太平洋戦争敗戦までに送り込まれた開拓民は約27万人。 うち約8万数千人が、ソ連の参戦、日本敗戦によって、帰国できずに亡くなっているそうです。
 そして戦後もこの悲劇は、中国残留日本人の訪日調査や帰国者の定着促進、中国残留孤児への国家賠償など、さまざまな課題となって残されています。

 映画は、自身も旧満州の大連に生まれ、旅順で育った羽田監督が、「同じ満州でも最南端の都会に暮らしていた私は、満州の奥地で起きていたことを知らなかった」 とメガホンを取りました。
 中国東北地方、黒龍江省方正 (ほうまさ) 県に建設された日本移民の共同墓地 方正地区日本人公墓 の存在を中心に、満蒙開拓団の関係者のインタビューを丹念にまとめています。 監督自らがナレーターを兼ねていますが、その語り口は淡々としながらも、背景となる歴史は重く、つらく悲しい事実として、観る者の心を打ちます。
 映画は、09年文化庁映画賞・文化記録映画大賞、08年キネマ旬報文化映画ベストテン第1位など数々の賞に輝いています。

 上映に続いて、「方正地区日本人公墓」 の建設に携わったという趙喜晨さんをゲストに、会場との意見交換が行われました。
 趙喜晨さんは1935年生まれ。 黒龍江大学 (ロシア語専攻) 卒業後、中央ラジオ局勤務を経て黒龍江省人民政府外事弁公室に入り、渉外案件を担当。 日本処の課長、処長を歴任されました。
 63年、方正に日本人公墓を建設する話が持ち上がった際、外事弁公室の担当者として、中央政府との連絡、石碑の選定、墓碑銘の揮毫依頼、墓碑の運搬、墓地の決定など、あらゆる場面で陣頭指揮にあたられました。 83年から84年まで、新潟県日中友好協会などの招きで、新潟大学に研修留学。 帰国後は85年まで外事弁公室に在籍、現在は北京に在住されています。

 「方正地区日本人公墓」 は趙喜晨さんら地元の人々の理解と尽力によって、63年に建設されました。
 その地――松花江の沿岸である方正地区には、ソ連軍の進駐や日本の敗戦により、満州の奥地から多くの開拓民が避難しましたが、真冬の酷寒や飢え、疫病により数千人もの人がここで命を落としたそうです。
 その後、広大な大地に打ち捨てられた白骨の山を見つけた残留婦人、松田ちゑさんが、これをなんとかして埋葬したいと思い、その願いが県政府から省政府、中央政府まで届いて、当時国際関係を重視した周恩来首相が、中国政府として共同墓地建設を許可したのでした。
 日本人開拓民の遺骨 (約4500人) が祀られた公墓は、広い中国でもここ方正にあるものだけだそうです。 建設されたのは戦後まだ間もないころで、日中国交正常化 (72年) よりも前のこと。 文化大革命 (66〜76年) の混乱を経て、いまでも現地の人々に管理・維持されている公墓なのです (近くには、ソ連軍の攻撃で集団自決した麻山事件の日本人被害者を祀った公墓もあるそうです)――。

 「映画は、当時の日本人開拓民のつらい歴史を物語ってくれました。 羽田女史 (監督) は、今年84歳になるそうですが、戦争を経験した世代として、若い世代に歴史を伝える義務があるといわれていた。 この映画は貴重な歴史の教科書です。 日中両国は今後、戦争をせずに、平和を維持することが重要だと伝えているような気がします」。 趙喜晨さんはそう、映画の意義を話していました。

 当時の中国政府の外国人墓地に対する方針は、「遺骨の親族が引き取るなら取り出して、引き取ってもらう。 そうでなければ、土深く埋める」 というものでした。
 「どうやってこの遺骨を処理するか。 当時、方正地区には多くの残留日本人がいて、地元の人と家庭を築き、社会に溶け込んでいた。 その人たちのことと中日両国の友好関係を考え、遺骨を深く埋めるよりも、記念碑を建てようと考えたのです」

 「中央政府に申請する際、記念碑になんと文字を刻むか、2つの意見に分かれました。 1つは、『日本侵略軍が来て (結果として) 亡くなった日本人の公墓』、2つめは、『1945年 亡くなった日本人の公墓』。 議論が分かれましたが、結局、両国が受け入れられる後者の内容となり、記念碑は63年8月に完成しました。 『方正地区』 と記したのは私の提案です。 公墓には方正県の日本人だけでない、松花江沿岸で亡くなった日本人の遺骨も含まれるので “地区” としたのです」

 「もちろん、当時は日本人公墓建設に対して、いろいろな意見がありました。 ただ、当時の中国は愛国主義教育と同時に、国際主義教育が進められていた。 (発展途上にある) 中国の建設は、国際社会の力も借りて行わなければならない、とするものです。 中央政府の同意により、その後は、公墓建設の方針が揺らぐことはなかった。 混乱した文革のころは、公墓を壊すという声も聞かれたが、『国家政策である』 とこれに対抗して、公墓を守ってきたのです」

 事実上、日本人が統治した旧満州で育った趙さんは、小さいころ地元の中国人に 「中国人と名乗るな」 といわれ、「満州人であることを自覚してきた」 といいます。
 また白い精米を食べることが経済犯罪となったので、旧正月には白いご飯と、トウモロコシを炊いたものを2種類用意し、日本人が来たらトウモロコシにすり替えるなど、「恐い経験もあった」 といいます。

 それでも、60年代に黒龍江省で半導体ラジオを作ったのは残留日本人技術者であったことなど、「日本人が地元に与えた好影響も、忘れてはなりません」 と趙さん。

 「60年代には方正県で、大規模な残留日本人の訪問調査をしましたが、彼らは苦しいながらも中国社会に溶け込んで懸命に暮らしていた。 『中国の人々は、貧しい中でも食べ物を分け与えてくれた。 私たちの命が今日まであるのは、中国の人々のお陰だ』 と感謝していました。 日本人は、非常に忍耐力があり、強い民族だと思う。 つらい中でも、なんとかやっていこうという、強い気力や意識がありました。 日本人は、外事弁公室に助けを求めに来たことはなかったが、(残留日本人に食料配給を多くするなど) 優遇措置を取ったとき、感謝の気持ちを伝えに来た人が多かったのです……」

 戦後生まれの世代にとって、こうした悲劇は遠い昔のできごとなのかもしれません。 しかし同時にそれは、たかだか60年前、70年前の生々しい事実でもあります。
 「嗚呼 満蒙開拓団」 がメッセージとして伝えていることは何か? 映画を通して、改めて考えてみたい。 しみじみとそんな思いを残しました。


 ※ 写真は@ 歴史の証言者、趙喜晨さん。A 映画 「嗚呼 満蒙開拓団」。 これは、方正地区日本人公墓の周辺風景。B 映画鑑賞会の後、趙喜晨さんを囲んで。 前列左から、映画製作時に通訳を担当した佐渡京子さん (在中国日本大使館)、趙喜晨さん、西本志乃さん (在中国日本大使館)。 後列左1番目は筆者、2番目は、北京日本人会・文化委員長の鈴木稔さん。

(「北京メディアウオッチ」 2010年1月24日付) 小林さゆりさんのブログhttp://pekin-media.jugem.jp/?eid=786