竹内 好 (たけうち・よしみ) 1910~1977

評論家・中国文学者 ~ロマン的・民衆的ナショナリスト~





出生 1910 年(明治43)10 月2日、長野県南佐久郡臼田町(佐久市と合併)に生まれる。税務署員だった父武一の転勤により3歳で東京に移住。その後、父が事業家に転ずるも成功せず、苦しい家計の中で育つ。

履歴 1931 年、大阪高校から東京帝大文学部支那哲学・支那文学科に入学。終生の友となる武田泰淳と知り合う。在学中に初めて中国を旅行、中国文学に取り組む決意をする。卒業を前に武田らと中国文学研究会を結成、卒業後もその中心として活動を続けた。1943 年、陸軍に召集され中国に出征、大陸で敗戦を迎える。戦後は、慶応大学講師、東京都立大学教授等を務めながら、評論家としても活発に論文を発表。安保改定反対運動に積極的に関わり、1960年5月には衆院の安保批准強行採決に抗議して都立大教授を辞職した。その後は「中国の会」に拠り、雑誌『中国』を10 年にわたり発行。晩年は魯迅作品の個人訳に精力を傾けた。

事績 現代中国文学、殊に魯迅研究を原点として評論活動を展開した。それは、近代化に立ち遅れ苦闘する現代中国を対象としつつ、対比的に日本の近代を批判的に検討するものだった。ここから民族の独立や思想の土着性を重視する竹内独自の思想が生まれ、近代日本思想史の検討や国民文学論の提起、さらに戦後日本の政治や社会への発言として結実した。一貫して反権力的な立場にあったが、いわゆる進歩的文化人の「革新」性とは明確に一線を画した。また、中国への罪責感と熱い思いを終生持ち続けたが、その政治指導者に追随するようなことはなく、文革期には沈黙を守った。

評価 グローバル化の中で経済発展を続ける現在の中国は、竹内の期待した姿とは程遠いだろう。総じて竹内の思想家としての予測はあまり的中していない。しかし、民族や民衆に重きを置く、その思想の質は今日のグローバリズムに対する一つの反論として意義を失っていないといえる。また、若き日の中国文学研究会をはじめ、思想の科学研究会、魯迅友の会、中国の会など様々な団体で中心的役割を果たし、多くの人に影響を与え、その廉直で誠実な人柄が各方面から慕われた。

代表作

『魯迅』 戦時下に刊行された最初の著書。明日の生命がわからない時期に「遺書」に近い気持ちで書いたという。原稿の完成直後に召集令状が届き、竹内は校正と跋文を武田泰淳に託して出征した。処女作というにとどまらず、戦中の日本文学の数少ない収穫の一つとされる。全集第1 巻に収録。

『国民文学論』 1954 年刊行の評論集。タイトルは評論集のためのもので、同名の論文があるわけではない。国民文学の提唱は、竹内の日本近代及び近代主義への批判の一環をなし、民族の伝統に根ざした独自の文学作品の創造を訴えるものだったが、実現には至らなかった。全集第7巻に収録。

「近代の超克」 1959 年発表の長編評論。太平洋戦争を根拠づける理念だった“近代の超克”を中心に当時の知識人の思想や発言を詳細に分析する。「大東亜戦争は、植民地侵略戦争であると同時に、対帝国主義の戦争でもあった」という竹内自身の戦争観を示すことばで有名。全集第8巻に収録。

キーワード 近代主義批判 西欧近代を価値基準として日本やアジアを見る思想を、マルクス主義を含めて、竹内は近代主義と呼び、民族や伝統の固有性を軽視する欠陥があるとした。近代日本の思想と文学への反省から、竹内は戦後の思想状況においても共産党や進歩的知識人をこの観点から批判した。

エピソード 中高年スポーツが今ほど盛んでなかった時代、竹内は50 歳を過ぎてからスキーを始めた。捻挫や骨折も経験したが、本人は「老人スキー」と称し、橋川文三によれば相当な腕前だったという。

最期 1977 年(昭和52)3月3日、食道がんのため武蔵野市の森本病院で死去。享年66 歳。

Great Works 34
竹内好全集 全17 巻 筑摩書房 1980~82 <081.8/82>
解題 竹内の没後、「著者の執筆し、公表した文章をすべて収録する」方針で編纂された。翻訳・講演・対談・座談会等は原則として収録されていない。各巻の構成は、単行本として刊行された著作をそのまま収録したものと、単行本及び雑誌等の文章をテーマによって集成し、本全集としてタイトルを付けたものとから成る。なお、死の直前まで改訳・新訳に心血を注いだ魯迅の個人訳は、『魯迅文集』全6巻(筑摩書房 1976~78 928.7/6)として刊行されている。

筑摩書房提供
内容
第1巻 魯迅[日本評論社 1944 年 底本は1961 年の未来社版]魯迅雑記Ⅰ(1946―1956)[同名の単行本のほか雑誌等に発表の魯迅関係の文章を編年体で集成]
第2巻 魯迅入門[東洋書館 1953 年]世界文学はんどぶっく・魯迅(抄)[世界評論社 1948 年 『魯迅入門』の原型。『魯迅入門』で削除された部分を収録]魯迅雑記Ⅱ(1956―1973)
第3巻 現代中国の文学[20 世紀の中国文学と作家についての解説・書評等を集成]中国文学と日本[日本における中国文学の研究・翻訳に関する文章を集成]魯迅雑記Ⅲ(1973―1977)
第4巻 現代中国論[河出書房 1951 年]中国の人民革命[中華人民共和国成立期を扱った論文・書評等を集成]中国革命と日本[中国革命と明治維新を対比した論文、日中関係に関する図書の書評等を集成]
第5巻 方法としてのアジア[アジアのナショナリズムに関する論文を集成。同名の単行本(創樹社 1978 年)とは別もの]中国・インド・朝鮮[各地域にかかわる文章・書評等を集成]毛沢東[「評伝毛沢東」(1951 年)を中心とする毛沢東関係の論文・解説等を集成]
第6巻 日本イデオロギイ[筑摩書房 1952 年 戦後の政治情勢下の知識人論]民衆・知識人・官僚主義[『日本イデオロギイ』と同主題の文章を集成]国の独立と思想[1950 年代の時評的文章を集成]
第7巻 国民文学論[東京大学出版会 1954 年]近代日本の文学[日本の近代文学を論じた文章を集成]表現について[言葉や表現についての随想的文章を集成]
第8巻 近代日本の思想[「近代の超克」(1959 年)を中心とする近代日本の思想・思想家論を集成]人間の解放と教育[教育や教師を論じた文章、同和教育に関する講演等を集成]
第9巻 不服従の遺産[筑摩書房 1961 年 60 年安保反対運動をめぐる評論集]一九六〇年代[1950 年代末から60 年代にかけての時評的文章を集成]
第10 巻 中国を知るために 第1集~第3集(上)[勁草書房 1967~73 年]
第11 巻 中国を知るために 第3集(下)[勁草書房 1973 年]国交回復の条件[日中国交問題についての文章を集成]
第12 巻 作家について[同時代の文学者についての随想を集成]書物について[書評・推薦文等を集成]
第13 巻 自画像 わが著作 魯迅友の会・中国の会[各テーマ別に小文を編年体で集成]
第14 巻 戦前戦中集[単行本『魯迅』以外の戦前戦中に発表された文章を集成]
第15 巻 日記(上)[1932 年、1934~35 年、1937~40 年、1946~47 年の日記]
第16 巻 日記(下)[1948 年、1960~64 年の日記。一部は『転形期』(創樹社 1974 年)として出版された]
第17 巻 補遺 初期習作 著作目録 年譜 人名索引

◆ 参考文献 ~この人をもっと知るために~
<図書>
􀀉 竹内好―ある方法の伝記(シリーズ民間日本学者 40)/鶴見俊輔著
リブロポート 1995 年 268,10p <910.26DD/1438> 資料番号20733689
􀀉 竹内好の文学と思想/中川幾郎著
オリジン出版センター 1985 年 265p <289.1T/2299> 資料番号12363446
􀀉 追悼竹内好/魯迅友の会「竹内好追悼号」編集委員会編
魯迅友の会 1978 年 291p <289.1K/1466> 資料番号10535185
􀀉 竹内好論―亜細亜への反歌/菅孝行著
三一書房 1976 年 273p <H289/T43> 資料番号70442587
􀀉 竹内好論―革命と沈黙/松本健一著
第三文明社 1975 年 278p <H289/T43> 資料番号70442595
􀀉 竹内好著作ノート/立間祥介編著
図書新聞社 1965 年 197p <027.3/103> 資料番号21351176
<図書(部分)>
􀀉 「血ぬられた民族主義」の記憶―竹内好/小熊英二著(<民主>と<愛国>)
新曜社 2002 年 p394-446 <121.6MM/175> 資料番号21561758
<雑誌論文等>
􀀉 戦後史のなかのアジア主義―竹内好を中心に/上村希美雄著
歴史学研究(青木書店)561[1986.11] <Z205/4>
􀀉 竹内好研究 *論文14 編、追想文18 編
思想の科学(思想の科学社)91(第6次、通巻299 号)[1978.5] <Z051/14>


  たけうち  よしみ
 竹内好 研究よ興れ
               
井出孫六
 (Ⅰ)

 竹内好(よしみ)という思想家がいたことを、最近の若い人たちはほとんど知らない。年譜の冒頭に「1910年長野県南佐久郡臼田町に生まれる」とあり、わたしは同郷のよしみもあって何度かご自宅にうかがう機会があったが、いまにして思えばもっとあけすけに郷里とのかかわりを聞いておくべきだったと悔やまれる。
 幸い『竹内好全集』巻末の年譜にその出自は詳細されており、旧臼田町に戦後まで残っていた木造三階建ての旅館料亭風の建物が母堂の生家で、竹内さんはここに誕生したことがわかる。父君の東京転勤で幼少の思い出は刻まれなかったはずだが、夏の墓参は欠かさなかったというところに、竹内さんの郷土意識をかいま見ることができる。
 竹内家に婿養子として迎えられた父君の実家は松本近在の郷土で、縁戚にアララギ派の歌人・鋳金工芸作家の香取秀真(ほつま)や柳田国男の高弟楜沢勘内のいることなども年譜で初めて知った。
 柳条湖事件に端を発する「満州事変」の起こった1931年、東大文学部支那文学科に入学した竹内好は、郁達夫や魯迅の作品にめぐりあうことで、漢籍偏重の支那学とは全く異なる新しい潮流が大陸に生まれつつあることを知り、武田泰淳、岡崎俊夫、増田渉、松枝茂夫らと語らって「中国文学研究会」を組織していくことになる。滔々たる大陸侵略の潮流に叛く若い仲間の前途には、多くの障害が次々にまちかまえていたであろう。
 わけても日中戦争が泥沼化する中で、中国文学研究会のメンバーには狙い撃ちされるように「赤紙」がやってきて、大陸の戦場に駆りだされていくことになる。武田泰淳の『司馬遷』、竹内好の『魯迅』は召集令状にそなえて遺書のようにして書きあげられた記念碑的な作品であった。出生の直前『魯迅』を脱稿した竹内好は一兵卒として中国戦線に送られ、1945年8月、湖南省岳州で敗戦を迎え、1946年7月に復員した。
 戦後、竹内さんの評論活動はきわめて多面的であったが、戦時中の体験を踏まえて日本の思想、日本人の精神の根源的改造への希求にあった。その竹内好の著作が、いま中国で熱心に読まれ始めているという。 (信濃毎日新聞06.2.9夕刊)


 (Ⅱ)

 戦後を代表する思想家の一人、丸山真男さんの父君が信州松代の出身ということもあって、竹内さんと丸山さんは後に同じ吉祥寺に居を構えて親しく交わった。
 敗戦が目前に迫ったころ、ポツダム宣言の中に「基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とあるのを知って喜びを他に知られないように苦労したという丸山助教授(当時)の回顧談に対して、湖南省の戦地で敗戦を迎えた竹内一等兵は「天皇の放送は、降伏か、それとも徹底抗戦の訴えかであると思った。ここに私の日本ファシズムへの過重評価があった。私は敗戦を予想していたが、あのような国内統一のままでの敗戦は予想していなかった」とし、「よろこびと、悲しみと、怒りと、失望のまざりあった気持ち」で迎えた8.15は「私にとって屈辱の事件」だったと回想している。
 『竹内好という問い』(岩波書店刊)の著書、孫歌氏(中国社会科学院文学研究所研究員)は、すでに日本人の多くが塵箱(ごみばこ)に投げ捨てようとしている61年前の敗戦体験と、微妙に異なる政治感覚の違いに踏み込みながら、2人の戦後思想家の思考の軌跡を後づけており、そこに自(おの)ずと中国の新しい世代の竹内好への問題意識が浮き彫りとなっていて刺激的だ。
 -戦後思想は、日本人が日本人の歴史を批判する、自己批判というかたちで構築されてきました。これはおそらく東アジアのなかで唯一のケースだと思います。
 -丸山真男の早い時期のやり方は「分析」という意味ではうまくいきました。けれども、問題を解決することはできない。すなわち、日本という「主体」をどう形成するかという問題は、その分析だけでは出てこない。
 -ナショナルな感情について、竹内は何度も問題を提起しましたが、同時代の人たちはそれにうまく対応することができませんでした・・・(略)・・・中国でなら、竹内好の努力は危ういことにはほとんどならない。しかし、日本の場合にはこれは非常に危険に見えるのです。危険に見えるから否定するのは賢明ではない。今こそ竹内をお粗末な「日本主義」から選び出すチャンスだと思います(『世界』2月号から)。
 竹内好のアジア主義に佐久間象山が唱えた「東洋道徳、西洋芸術」を重ねてみたい。    (信濃毎日新聞06.2.16夕刊)


<参考>
『竹内好という問い』(孫歌)の紹介

竹内好という問い 著者/訳者名 孫歌/著
出版社名 岩波書店
発行年月 200505
サイズ 321P 20cm
価格 3,780円(税込)


本の内容

本書は、『アジアを語ることのジレンマ』(岩波書店、二〇〇二年)によって日本のアジア研究の主体性を鋭く問題化した著者による、一〇年におよぶ竹内好との思想的格闘の記録である。竹内は魯迅から、思想において重要なことは内容それ自体ではなく、それが主体的であるかどうかだということを学んだ。著者によれば、竹内は政治的正しさを引き換えにすることを恐れず、その課題にまっすぐぶつかったのである。間違うことを恐れて常に模倣のためのお手本を求めてきた優等生文化の近代日本においてはいうまでもなく、魯迅を生んだ中国においてさえも、このような思想実践は稀有のことに属する。著者の願いは、魯迅を最も深いところでつかんだ竹内の思想実践を、いま新たにアジアの思想遺産として学び直し、その作業をつうじて普遍的な思考営為への展望を切り開くことにある。


目次

第1章 魯迅との出会い(支那学者たちとの論争
『魯迅』の誕生)
第2章 文化政治の視座(近代をめぐって世界構造としての文学
民族独立の文化政治)
第3章 戦争と歴史(歴史的瞬間における「誤った」選択
主体が歴史に分け入る渇望)
第4章 絡み合う歴史と現在(敗戦体験の深化戦争責任論と文明の再建
安保運動戦争体験の「現在進行形」
内在的否定としての「伝統」)
第5章 「近代」を求めて「近代の超克」座談会の射程(座談会の基本的論郭
竹内好の「近代の超克」
荒正人の「近代の超克」
広松渉の『「近代の超克」論』
西尾幹二の『国民の歴史』)



書評

竹内好という問い [著]孫歌

[掲載]2005年07月24日
[評者]中西寛

かつて竹内好(たけうちよしみ)という、型にはまらない知識人がいた。戦前に、在野で中国文学研究を始め、戦後も一時期大学に勤めた以外、在野で活動したが、田中角栄内閣と国交回復した中国政府に失望して中国研究を止(や)めた人物である。対象について正確な判断や予測を下す人を専門家というなら、彼は中国専門家として優秀ではなかったし、今の日本では過去の存在と受けとる向きが多いだろう。しかしその竹内が、今海外で広く注目を集めている。国際シンポが開催され、その論文集が中国を含めた各国で翻訳され、反響を呼んでいるのである。

 本書の著者こそ、中国で竹内の論文集を刊行した人物である。著者は竹内の死後10年ほどして来日して竹内の著作に出会い、10年以上かけて研究を仕上げた。そのテキスト読解の深さ、表現の巧みさは瞠目(どうもく)すべき水準であり、一流の思想研究作品と呼ぶにふさわしい。

 しかし竹内のどこが今日、魅力的なのか。一つには主張と行動において首尾一貫しながら、しかも安易な分類を許さない彼の独自性にあるだろう。竹内はアジアにこだわり続け、その結果、右翼とも左翼とも言えない存在となった。太平洋戦争開始直後にはアジアを解放する戦いとして歓迎する文章を書き、戦後も悔いなかった。しかし安保改定時には反対運動に参加し、安保改定を阻止できなかったことをきっかけに大学を辞した。

 現在、日本で竹内好研究をリードする松本健一は、こうした竹内をアジア主義的民族主義者として捉(とら)える。著者の視点は少し違うようである。安直な概念化を徹底的に問い直そうとする竹内の文学論の中に、アジアをめぐる既存の言説を乗り越える可能性を探り出そうとする。平板で、しばしば西洋から借用された科学的観念によるのではなく、実践的で含みをもつ文学的手法こそがアジアへの接近に新たな地平を開くのではないか、と著者は問う。

 日中間で硬直した論争が繰り返される今日、著者の問題提起を受けとめ、実りある対話を成立させることのできる知識人が日本にも居て欲しいものである。