四川大地震支援募金ご協力ありがとうございました!

     義援金は総額700万円に達しました。

 このたびは、四川大地震義援金の呼びかけに対し、大勢の皆様から心のこもったご協力を賜り心より感謝申し上げます。

5月12日、中国四川省を突然襲った巨大地震は8万人超えると見られる人命を奪い、被災者総数も4500万人を超えるものと報じられています。被災から3ヶ月を経過する中で当初の被災者救助、ライフラインの確保、二次災害の発生防止を経て、復興に向けての本格的な歩みへと重点を移しつつあります。北京オリンピック開催という国際的責務を果たしながらの復興はまさに想像を絶する困難な道のりであろうと想像されます。

犠牲者のご冥福を祈り、生き残った人々の一日も早い平穏と、地域の復興を願わずにおれません。

長野県日中友好協会は(社)日中友好協会の呼びかけに応えてすぐさま行動を起こし、緊急支援の募金活動に取り組むこととなりました。5月15日に開催された第46回2008年度県協会定期大会では「四川省大地震緊急支援募金の呼びかけ」を採択し、友好協会一丸となって義援金に取り組むことを決定いたしました。

隣国中国国民のこうむった未曾有の災害に対する日本国内における、同情と支援の動きは極めて鋭いものがありました。県協会が支援募金を呼びかけましたところ、大変大きな反響を呼び、1か月ほどで400万円を超え、8月10日現在、協会に寄せられた義援金は、700万円に達しました。年配者から小学生まで尊い気持ちがこめられていて感動を禁じえません。

協会は一刻も早くの気持ちを抱いて第1次分として、5月20日長野県日中友好の翼訪中団で訪中した井出会長より中日友好協会の許金平副会長に50万円を託しました。許氏は「長野県の友人の皆様のあたたかいご支援は本当にありがたく中国人民を代表して深く感謝申し上げます。早速被災者救援部門に届けます」と述べました。

また第2次分として、5月31日、(社)日中友好協会全国本部の村岡久平理事長立会いの下に、西堀理事長が中国大使館友好交流部に150万円を手渡しました。更に、県議会日中友好促進議員連盟の倉田竜彦会長が大使館を訪れ40万円を届けました。長野県にもなじみの深い孫美嬌参事官は長野県民の友情に心からの謝意を表しました。

県協会では、更に7月3日、井出会長が崔天凱中国大使にお会いして300万円をお渡しました。大使は深く感動し、県協会並びに県民の皆様に感謝の意を伝えてほしいと述べました。(写真) 席上感謝状をいただきました。また8月24日には、西堀理事長より130万円の義援金を孫参事官にお渡ししました。

 県協会では、ご協力いただいた皆様の氏名を、「日本と中国」県内版8月号に掲載させていただきました。ご支援に再度感謝申し上げます。

(資料@)

中国四川省大地震に対する緊急支援募金の呼びかけ

5月12日午後発生した四川省文川県を震源とする四川大地震はマグニチュード7.8の巨大地震で、阪神大震災の約30倍のエネルギーに相当すると言われ、14日現在、死者は1万2000人を超え、ガレキに埋まっている人が2万3000人、負傷者は2万6000人、倒壊損壊家屋346万戸と報じられています。1976年の唐山地震(死者24万人)以来最悪の被害となっています。被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

中国政府は、温家宝首相が直ちに現地入りし陣頭指揮を執っているほか、国際社会からの支援を要請しております。余震や雨、山間地にある被災地への道路の寸断など条件の厳しい中で救助活動が懸命に続けられています。

長野県日中友好協会は(社)日中友好協会全国本部(平山郁夫会長)の呼びかけに応えて、中国四川大地震に対する緊急支援活動に取り組んでいきたいと存じます。皆様のご支援ご協力を切にお願い申し上げます。

2008年5月15日   第46回長野県日中友好協会定期大会 

(資料A)

激震 中国全土を揺るがす

 五月十二日午後二時二十八分、四川省北西部の文川県(北緯三一度、東経一〇三・四度)でマグニチュード8の大地震が起きた。この地震により、吉林省、黒龍江省、新疆ウイグル自治区を除く中国全土が揺れた。その影響はベトナムやタイにまでおよんだという。

廃墟化した震源地

 四川省北川県に住む余文群さんは、小高い場所にある公園でお茶を飲んでいた。すると突然地面が激しく揺れ、立っていることができなくなってその場に倒れた。

 しばらして立ち上がってみると、周囲の山が激しい勢いで崩れていた。「私の目の前で旧市街区が消滅していきました。あたり一面に塵埃が巻き上がり、谷底は真っ暗になりました」

 余文群さんは県城の広場に運ばれた。ここでは、三、四千人の人々が背中合わせに座ったままで一晩を過ごした。岩石が崩れる音がひっきりなしに響き、誰一人として目を閉じることができなかった。

 北川県は中国唯一のチャン族(羌族)自治県だ。今回の四川文川大地震で死傷者がもっとも多い地域の一つでもある。県城の建物の八十%が倒壊し、人口一万三千人のうち、四千人あまりしか逃げ延びることができなかった。

 北川県の県城はくぼ地にあり、周りは標高五〇〇メートルから一〇〇〇メートルの山に囲まれている。県城と外界を結ぶのは一本の山道のみ。地震の発生後、県城に近い区間はねじ曲がり、路面の断裂は数メートルにも達した。また、山崩れによる落石があるため、県城は外界とほぼ断絶されて陸の孤島となってしまった。

 県内の楊家街自由市場は、被害がもっとも深刻な場所のひとつである。地震によって平行移動してきた建物で押しつぶされ、その前後にあったいくつかの建物は影も形もなくなった。ここに店を構えていた向世勇さん(四十二歳)は、ちょうど別のところにいて難を逃れたが、店にでていた妻は帰らぬ人となった。

 地震発生時、北川中学の生徒たちは授業の最中だった。六、七階建ての校舎は崩れ落ち、人と同じぐらいの高さになってしまった。二十一あった教室の中にいた約千人の先生と生徒たちの多くがこの中に埋もれた。

 北川県で地震に遭遇した人によると、建物自体の揺れや崩れは言うまでもなく、もっと恐ろしかったのは山崩れだという。山崩れによって、山麓の建物はほとんど埋まり、その中にいた人は逃げる時間もなく、生き埋めになったのである。

 震源地近くの文川県に位置する映秀鎮、旋口鎮、臥龍鎮など八つの集落は、ほとんどが廃墟と化した。とりわけ映秀鎮は、人口一万人あまりのうち生き延びたのはわずか二千三百人あまりだった。

 都江堰市から映秀鎮までの道路は全線が麻痺状態に陥り、映秀鎮に入るために必ず通らなければならない白花大橋は完全に崩れ落ちた。

 交通が寸断されたため、被災地の食料や薬、飲用水、そして救急器具は極度に不足した。人々は戸板やはしご、タンスの板を担架の代わりにして死傷者を運び、被災者たちは木の板を使って臨時の避難所を作り、生存者たちは水源を探し求めた・・・。

 そのうえ、余震も絶え間なく発生。五月十九日午後一時までに、地震発生地域で起こったマグニチュード4以上の余震は百五十五回、マグニチュード5以上の余震は二十四回に達した。もっとも大きな余震はマグニチュード6・1だった。

 四川省のほか、震源地から比較的遠い陝西省の西安市や甘粛省の一部でも死傷者が出た。三十二年前の唐山大地震に比べると、今回の四川文川大地震のほうがマグニチュードの値は大きく、影響がおよんだ面積や被災面積などもはるかに広い。

 五月二十一日十九時の時点で、四川文川大地震による死亡者は五万五千二百三十九人、負傷者は二十八万一千六十六人に達している。(「人民中国」6月号) *文中の文川県の文はさんずいに文です。余文群さんの余はさんずいに余です。

(資料B)

大震災から2ヶ月・悲しみを乗り越えて

 中国・四川省で史上まれに見るマグニチュード8という特大地震が発生し、死者、行方不明者八万人以上を出した四川文川大地震から早くも二ヶ月近くになる。しかし被災地はなお余震が続き、巨大な堰き止め湖が数多くできて、二次災害の恐れが続いている。

 廃墟と化した被災地には、家を失った数百万の人々のために、テント村や仮設住宅が建てられ、中国国内はもとより国際的な救援の手が差し伸べられた。日本の医療チームは多くの負傷者を助けた。中国各地から来た若いボランティアも活躍している。大地震は確かに不幸な出来事だが、その中から同胞愛や連帯感が生まれてきた。

 肉親を亡くし、家を失った人々は、悲しみと恐怖感を乗り越えて、歯を食いしばって家の再建に取り組み始めた。復旧と復興は次第に軌道に乗り始めた。(「人民中国」7月号)