中国人初の芥川賞受賞に思う

井出正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長、長野県日中友好協会会長

23歳で来日してから21年、働きながら日本語学校へ通い、お茶の水女子大を卒業、日本人との結婚、離婚を経て、現在は中国語教師として高2の長男と中1の長女の母である楊逸さんが、中国人として初めての芥川賞を受賞した。
 平和友好条約締結30周年、北京五輪開催の今年の快挙として欣びたいし、母国語でない日本語を成人してから習得し、駆使するまでに至った努力に驚きとともに敬意を表したい。
 受賞作「時が滲む朝」は、89年の天安門事件で民主化運動に参加した地方の大学生だった若者の人生を通して理想と現実の落差を描いたものである。60年安保世代の私にとっても、清水良典氏が、「夢や理想がまだ熱く信じられた時代の青春から、現代に届けられた直訴状のようである」と、ある新聞の書評で述べられているが同感である。

者の楊さんは、「事件そのものではなく、影響ですね。天安門事件は確かに国際社会から非難を浴びた大事件ですが、歴史の結論は誰にも出せるはずはないというのが私の考え方。それでも影響は受けるんですよ。その時代を生きた一人一人に、あらゆる歴史は多かれ少なかれ影響していて、その意識・無意識の影響を書きたかった」と語っている。(『週間ポスト』9・15号)
 天安門事件から来年で20年になるが、中国ではまだ口にすることが憚られる政治問題だ。受賞のニュースは『人民日報』も報じたそうだが、改革・開放を打ち出して30年、そろそろ論じられて然るべき頃だし、「大国」としての存在感を増している中国にとっても、世界からの信用を高めることになるのではあるまいか。

「日本に来て良かった。日本語を習い、無理やりそれをツールにし、小説を書いて良かった。生きていて良かった。全てが良かったのだ。‥‥人生で出会った全ての方、人生にさせられた全ての苦労に感謝します。そして私を温かく包んでいただいた日本  この小さな島国の大きさに心を込めて、ありがとうございます。」受賞作が掲載された『文芸春秋』9月号の「受賞のことば」である。
 なんと素直な、大らかな、人生に対して前向きな発言であろう。記者会見で、一番好きな日本語はと聞かれ、「土踏まず」と答えた彼女は、作家専業では書いたものが「青白くなる」から、中国語教師はやめるつもりはないそうだ。この逞しさで、変貌する中国に生きる人たち、急増している在日中国人が心の奥でどう考え、行動しようとしているのかをこれからも書き続けて欲しい。

(「日本と中国」08.10/25号)