北京五輪と華国鋒元主席の死去
井出正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長、長野県日中友好協会会長

子の「朋あり遠方より来たる」で始まった北京五輪は、その壮麗、絢爛豪華さに驚嘆、圧倒された開会式のあと、完備した施設と見事な運営のもと、興奮と高揚、熱狂の一方で、緊張と厳戒が交錯した17日間であった。
 聖火が消え、世界各地から集った選手や応援団が去っていったとき、私は華やかな宴のあとの寂しさを覚え、芭蕉の「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」の一句が思い浮かんだ。
 閉幕後、マスコミでは多くの「中国異質論」が展開されているが、北京五輪の開催は、アヘン戦争以来、屈辱と苦難の歴史を歩んできた中国にとって、世界の檜舞台に登場する、まさに「百年の夢」であり民族の悲願であったであろう。しかも急速な経済成長による大気汚染をはじめとする環境問題、食品の安全性、交通渋滞、少数民族問題や人権に関する批判・抗議への対処、四川大地震の発生など様々な問題を抱えての開催であった。成功裡に終了した安堵感、達成感は私たちの想像以上に大きいことだろう。そして何より、「世界が中国を知り、中国も世界を知った」とIOCのロゲ会長が語っているように、互いを肌で感じた意義は大きい。

輪が終盤に入った8月20日、華国鋒元主席が87歳の波瀾に富んだ生涯を閉じた。
 私が初めて訪中した80年7月、天安門の正面に毛沢東主席と並んで掲げられていた肖像額は彼であった。76年4月、周恩来首相の死去直後、毛主席の指名で首相に就任、同年9月毛主席が死去した後、「四人組」の逮捕に踏み切り10月には党主席と中央軍事委員会主席に就任した。
 ところが帰国して間もなく、華氏の額が取り除かれたという報を耳にした。後年判明したことだが、「毛氏の決定は全て擁護し、指示は全て守る」という「二つの全て」路線は、復活し是々非々の立場から毛沢東を評価し直そうとしたケ小平氏と対立、80年9月に首相を、81年には主席も辞任して事実上失脚した。しかし「文革」終結に大きな役割を果たしたとして02年まで党中央委員に名を連ねていた。

本との係り合いは、「平和友好条約」が締結された30年前の首相・主席は彼であったこと、80年5月に中国の首相として初めてわが国を公式訪問されていることは、もっと記憶されて然るべきだと思う。
 「平等社会を目指す毛路線堅持を主張した老毛沢東主義者は、貧富の差が拡大し、腐敗が深刻化する今の中国をどう見ていたのだろうか」と、北京から「共同」の塚越記者は、その訃報を伝えている。(「信濃毎日」8・21)

(「日本と中国」08.9/15号)