◎1月30日の残留孤児訴訟東京地裁判決(加藤謙一裁判長)は訴訟に係わっている関係者だけでなく、帰国者支援に関心を持つ国民なかんずく歴史的にかかわりの深い(身近に帰国者の多い)長野県民にとって、首を傾げざるをえないものであった。それは原告敗訴だったからだけではない。昨年12月の神戸地裁判決と正反対の内容で、いわく、「国には早期帰国を実現する義務はなかった。孤児の発生の直接的な原因は旧ソ連兵や現地住民の犯罪行為で、日本の植民地政策や戦争政策は司法審査の対象外。孤児には日本人の両親と暮らせず、日本語を母国語にできないなどの共通の損害が生じたが、原因は国の違法行為ではない」。残留孤児の生まれた経緯にたいする片手落ちの断定と孤児の皆さんに対する同情の跡が全く見られない冷酷非情な判決であったからだ。(通常、このようなときの判決では、国の一定の責任は認めつつ、和解勧告をおこなうといった手法も考えられるはずであるにもかかわらず、である。)知り合いの帰国者は、この判決に絶望の表情で「悔しい」と涙をぬぐっていた。
◎翌日、原告団団長の池田澄江さんと会った安倍首相は判決にかかわらず、新しい生活支援策をこうずると表明した。「昨日は地獄、今日は天国」と語る池田さんの言葉に、ほっとしたものの、加藤裁判長の判決に対する怒りは収まらなかった。信濃毎日新聞の2月8日の夕刊に井出孫六氏の文章が載った。大きくうなずきながら、何度も読み返さずにおれなかった。

(資料)
 
冷酷非情な判決に思う

井出 孫六

 裁判長がうつむいたまま「原告らの請求をいずれも棄却する」と、聞きとることのできぬほど低い声で主文を読み始めた途端、席を蹴って一斉に記者たちが廷外に駆けだしていったあと、呆気にとられたような静けさの中で、「訴訟費用は原告らの負担とする」という冷酷非情な主文の二行目が追い打ちとなってつづいた。「中国残留孤児」が国に対して賠償を求めて提訴した裁判で、一月三十日東京地裁が原告側の主張を全面的に否定し、棄却した瞬間だった。

 二ヶ月前に出た神戸判決文とこの日の東京判決文とでは、天と地ほどの差があらわになった。前者が日露戦争以来旧満州に展開した国のゆがんだ植民地政策の非を客観的に描きあげてみせたのに対して、後者の歴史把握は千々に乱れて統一性を欠いた揚げ句、孤児の生み出された原因をひたすらソ連参戦のみに求めるという視野狭窄(きょうさく)に陥った。

 前者が原告である孤児の経歴に百十ページを費やしたのに対して、後者がわずか十二ページ足らずですましているところに、両者の立脚点の差がはっきりと示されている。後者には孤児の顔が見えない。従って孤児たちが戦後半世紀にわたって父祖の侵略の刻印「日本鬼子(リーベン・グイズ)」の名を背負ってきた痛哭(つうこく)の永い年月がくみとられていないのである。神戸判決文が孤児の戦争損害を直視したのに対し、東京判決はああでもないこうでもないと言って戦争損害論の前で「躊躇」ということばをくりかえすばかりだった。

 当然のことながら、「国は孤児たちの早期帰国実現義務を怠ったか否か」「国は孤児たちの自立支援義務を怠ったか否か」について、東京判決はまるでそれを「厚生省引揚援護局」の一官吏には手に負えないことと矮小化して、原告の訴えをいとも簡単に退けてしまう結果となった。

 六十二歳から七十四歳になる「中国残留孤児」たちの年齢を思えば、神戸判決を基礎として政治決着に移す機に来ているといえるだろう。政権浮揚の具などではなく、この国の道義としてそれが求められているのだとわたしは考えている。(信濃毎日新聞2/8夕刊「今日の視角」)