「民を貴しと為し、社稷之に次ぐ」

井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長


が家の茶の間の壁に、「民為重 兆民生」と雄渾な筆致の大額が掛かっている。1892年2月に自由民権運動の遊説に来信した中江兆民が、当家で休息の折に揮毫したものだという。さすが民権主義の先覚者、この時期に早くも「主権在民」の意を、自ら翻訳されたルソーの『民約論』を参考に「民重きを為す」と表現されたのかと、私は勝手に想像し眺めていた。
 後年、孟子の一節に「民を貴しと為し、社稷之に次ぐ」とあるのを知って、さて兆民先生の「民為重」は孟子をアレンジしたのかなとも考えた。

近、私は孟子のこの一節について解説している2冊の著書に巡り合った。何れも日本(人)と中国(人)の考え方の違いを指摘していて興味深い。
 ひとつは県立長崎シーボルト大学教授の横山宏章氏の『中華思想と現代中国』(集英社新書、2002年)である。
 「社稷とは国家の意味で、人民がいるから国家が生まれ、国家を統括する君主がいる。軽重を問えば、民が最も貴いのだ。もともと、中国では天子は民のなかから一番優秀な聖人君子が選ばれるのであって、民があってその上に皇帝が存在する。ところが日本では中国と違って、天皇は万世一系で、民のなかから選ばれるわけではない。『民を貴し』とする中国と、天皇が絶対的に貴い日本とでは大きな違いがある」

う一冊は、法政大学教授の王敏氏の『中国人の愛国心』(PHP新書、05年)である。氏は横山氏の見解に同意されたあと、
「日本では天皇に叛旗を翻せば『逆賊』になるだろうが、中国では悪い皇帝に叛旗を翻しても、それが国を思い、民衆を思うゆえのことであれば、『正しいことだ』とされる。中国には『民は食を天となす』という言葉があり、皇帝は『天意』に基づいて、民衆の生活をよくするための政治をしなければならないと民衆は考えている。……皇帝が天意に沿わない政治をしたと感じたときには、皇帝を倒してでも、天意を満たしてくれる人を新しい指導者に担ぎ出そうとする。……(それゆえ)中国の民はときには暴動を起こす。もちろんこれは皇帝側から見て『暴動』ということであって、民衆からすれば『革命』である。……革命とは『天命を革める』という意味である。中国では歴史的に見ても、暴動は日常茶飯事だった。したがって現在の中国人も、多少はそうした感覚でデモ行為を見ている」
と述べている。
 ぜひ、ご一読されたい。