横浜事件から65年

井出 正一 元厚相、(社)日中友好協会副会長

の夏、雑誌『改造』の1942年8・9月号に連載された細川嘉六氏の論文「世界史の動向と日本」を読んだ。
 42年から45年にかけ、「共産主義を広めようとした」と、雑誌編集者や自由主義的知識人90人余が検挙され、特高警察の残忍な拷問による虚偽の「自白」だけを根拠に、治安維持法違反で有罪とされた典型的な言論弾圧といわれる横浜事件の発端となった論文である。
 資本主義の不均衡な発展と矛盾、ロシア革命後のソ連の動向、植民地・半植民地諸国の苦悩や抵抗など、その分析力はいま読んでも驚くほど鋭い。内閣情報局の検閲による伏字も一字もなく、「共産主義の宣伝」と思える箇所は見当たらないのに、あのような弾圧に遭遇した当時の状況は、現在の我々には想像もつかない。

川嘉六氏は戦後共産党の参院議員(全国区)に当選するも51年9月のレッドパージにより公職追放されたことは承知していたが、50年の日中友好協会設立発起人のひとりであられたこと、「日中国交回復国民会議」幹部として風見章、中島健蔵両氏らと58年7月に「反省声明」を公表、同年9月訪中、中国政府に民間として正式に謝罪されたことなどは、恥ずかしながらつい最近知った次第である。

検挙者のうち獄死4人、保釈直後の死者1人、拷問による負傷者30人余、そして改造社と中央公論社を解散に追い込んだ横浜事件は、敗戦直後の45年9月、形ばかりの裁判が行われ、約30人の被告に一律懲役2年・執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。当時の裁判記録は司法当局が連合国による追及を恐れて焼却、間もなく治安維持法は廃止されたが、有罪判決はそのまま残った。
 「有罪判決を撤回させ、名誉を回復し、殺された仲間の無念を晴らしたい」という被害者と遺族の思いが「再審請求」という形で初めて実現したのは、40年以上も経過した86年7月。最初の請求については、裁判記録が焼却された事実は認めたものの、「記録が存在しない以上審理のしようがない」と91年に最高裁は棄却。初の「再審開始」となった第3請求も、昨年2月横浜地裁は自白の強要に基づいた冤罪であると認めたにも拘らず、罪を問う根拠である治安維持法が廃止されていることを理由に「免訴(=裁判の打ち切り)」の判決を下した。
 普通の市民も事件を裁く「裁判員制度」が再来年に始まる。人を裁く自信がないから裁判員にはなりたくないが、横浜事件における司法の反省の欠如を見るとき、血の通った庶民の常識も必要なのかなとも考える。