日中共同声明における「反省」の意味

              

                                元厚相、(社)日中友好協会副会長    井出 正一 

中共同声明の前文に、「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という一項がある。
 これについて本紙3月5日号で略述した竹内好氏は、この共同声明が発表された直後に、「前事不忘、後事之師」と題する一文を遺しておられる。(全集第11巻)その一部分を紹介する。
 「『反省』といった語が政府間の外交文書に記されるのは、異例なことではないかと思う」が、「この句は非常に意味深長であり、将来ますます意味が深まるように思う」と説き出し、「共同声明は、実質的には平和条約に等しいか、少なくともその骨子というべきものである。そこに賠償放棄の一項が盛込まれたのは、これまたこの種の外交文書の異例と見るほかない」と述べ、「相手に反省を求めることと、みずから賠償請求権を放棄することとは、二にして一であり、そこに一貫した中国の外交姿勢を読みとることができる」

「問題は、おなじ『反省』でも、日本語と中国語では語感がちがうし、したがって期待するものがちがうはずだが、それを日本側はどこまでわかっているか、ということである。……反省するからには、当然、それが行為となってあらわれるべきだ、というのが中国語の語感でもあるし、中国側の期待でもある。それにひきかえ日本側は、『反省』という文字を記せば、それで反省行為はおわったと考えている節が見える。言いかえると、共同声明を国交正常化の第一歩としてとらえるか、それとも国交正常化の完了としてとらえるかのちがいである」

いて氏は、両首脳の挨拶の一部を引用したあと、「ここで問題としたいのは、未来のために過去を忘れるな、という中国側(周恩来首相)の見解に対して、日本側(田中角栄首相)は、過去を切捨て『明日のために話合う』ことを提起している相違点である。……過去を忘れては未来の設計が成立たぬのは常識である。歴史を重んずる漢民族にとっては、ことにそうである。……過去を問わぬ、過去を水に流す、といった日本人にかなり普遍的な和解の習俗なり思考習性なりは、それなりの存在理由があり、一種の民族的美徳といえないこともない。……ただそれは、普遍的なオキテではないことを心得て、外に向っての適用は抑制すべきである。……この相違を主観だけで飛びこえてしまうと、対等の友好は成立たない」と記す。
 そんなに長い文章ではない。国交正常化35周年にあたって、ご一読をお勧めしたい。

(「日本と中国」4/15より)