『マオ・誰も語らなかった毛沢東』を評す

                         矢吹 晋・横浜私立大学名誉教授

 **誤りに満ちた俗悪**
 日本の嫌中・反中感情が劇的に高まっていることは、内閣府の「外交に対する世論調査」等で明らかだ。その原因分析はさておき、嫌中・反中ムードに便乗した悪書が良書を駆逐するかに見えるのは、憂慮すべき事態に思われる。
 たとえばベストセラーの上位に並ぶユン・チアン夫婦著『マオ・誰も語らなかった毛沢東』も、率直に書けば俗悪の部類だ。前著『ワイルド・スワン』は著者3代の家族史を現代中国史に位置づけて好評であった。しかし今回の『マオ』は失敗作と決め付けざるを得ない。早い話が訳者は著者名の表記さえ間違えている。この欠陥商品を中国現代史に疎い素人教授たちが大新聞の書評などでもてはやすので、私のところにも真偽の問い合わせが少なくない。

 <示されていない新設の論拠>
 毛沢東の神格化否定や虚像破壊に対して私は反対ではない。個人崇拝が現代中国史を彩る悲劇の核心であることは明らかだ。しかし毛沢東を「スターリンよりも、ヒトラーよりも悪い梟雄(きょうゆう)」と見るだけの視点から、強引に通説を否定した『マオ』は、遺憾ながら三文小説の域を出ない。新設の論拠がまるで示されていないので信憑性が問われる。林彪夫人葉群と総参謀長黄永勝の情事を描いた部分は、済南で出たいかがわしい本の引き写しであること、国民党の張治中将軍が共産党のスパイであったとする新説の成り立たないことなどは、イェール大学ジョナサン・スペンス教授が『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』で論証済みだ。スペンスの書評を待つまでもなく、この分野に知識があるものが読めば、すぐ反論があげられそうな誤りに満ちている。
 毛沢東は「人の死を喜ぶサディスト」として描かれているが、これは中国古代の哲人荘子の話だ。荘子は「人の誕生が慶事ならば、生死はツイであるから、葬式も祝うべきだ」と喝破した。毛沢東がこの言葉を引いて「生と死の弁証法」をといた箇所を著者は誤読している。周恩来のいわゆる「転向声明」が国民党諜報機関のデッチあげによることは確認されているが、著者は毛沢東の陰謀かと疑う。この箇所は高文謙著『晩年周恩来』の誤読である。高は1930年代の「転向誤報事件」を文化大革命期に毛沢東夫人江青が利用し、周恩来の晩年に毛沢東自身が再度利用しようとしたことを論証したが、「転向声明」自体が毛沢東の陰謀でないことは高が明記した通りだ。江西ソビエト時代の内ゲバ殺人事件として有名な富田事件を中心とする江西ソビエトの死者を70万人とするのは、江西ソビエト地区の人口減を死者数と錯覚したものだ。赤色根拠地は蒋介石の包囲討伐作戦の過程で逃亡者が続出した。人口減をリンチ殺人の死者数と混同するのは初歩的なミスだ(なお私は旧著『毛沢東と周恩来』や『文化大革命』で、富田事件や大躍進期の餓死者数に言及しており、すでにタブーではない)。

 <日本に必要な対抗書評>
 中国共産党がコミンテルンの指導により誕生したことは史実だが、そのコミンテルンは間違った指導を繰り返した。毛沢東が「スターリンは猫であり、私は猫に命を狙われる鼠の運命だ」と述懐したことは有名だ。スターリンの代理人王明は毛沢東と指導権を争い、敗北ののちモスクワで死去した。『マオ』は王明の立場に立って毛沢東を断罪する。これは60年代に始まる中ソ衝突の過程で旧ソ連イデオローグたちが繰り返した論点にすぎず、その中身はモスクワで出た『王明回想録』を超えていない。10年を費やし関係者を多数インタビューしたというが、中国で取材を受けた人物の中には、取材の事実を否定したものさえある。このようなフィクションが史実と誤解されるのは困る。出版社の商業主義に利用されて恥じない、一知半解の教授たちの責任も大きい。いま日本に欠けているのは、出版社の虚偽宣伝に乗せられない独立した書評、あるいは対抗書評ではないか。

(「国際貿易」06.2/7号より)