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昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (日本経済新聞 7月20日)

<昭和天皇>A級戦犯の靖国合祀に不快感 元宮内庁長官メモ

 昭和天皇が1988年に、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝はしていない」などと語っていたとされるメモが、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)の手帳に残されていたことが分かった。昭和天皇は78年にA級戦犯が合祀されて以降参拝しなかったが、その理由はこれまで明らかになっていなかった。間接的なメモとはいえ、昭和天皇の合祀についての考えが公になったことで、今後のA級戦犯分祀論議や首相の靖国参拝問題などに影響を与えそうだ。
 メモは、日本経済新聞社が遺族から入手し、20日の同紙朝刊で報じるとともに、同日写真で公開した。遺族らによると、富田氏は、74年に宮内庁次長に就任し、88年6月に長官を退任するまでの間、昭和天皇との会話などを日記や手帳に残していた。
 靖国神社についての発言は88年4月の手帳にあった。メモはまず、「私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取(原文のまま)までもが、 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記している。
 「松岡」はA級戦犯で合祀されている日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相(東京裁判の公判中に死亡)、「白取」は白鳥敏夫元駐伊大使(同裁判で終身禁固刑、収監中に死亡)、「筑波」は66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取りながら合祀しなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)とみられる。
 メモはさらに「松平の子の今の宮司がどう考えたのか」「松平は平和に強い考があったと思うのに」などとしたうえで、「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と記している。「松平」は終戦直後の最後の宮内相、松平慶民氏(故人)。「松平の子」は、長男で78年にA級戦犯を合祀した当時の靖国神社宮司、松平永芳氏(同)とみられる。昭和天皇は松平永芳氏が決断した合祀に不満だったことを示している。
 富田氏は警察官僚出身で、72年の浅間山荘事件を警察庁警備局長として指揮し、74年に宮内庁次長、78〜88年まで同長官を務めた。その間の87年には昭和天皇が天皇として初めて開腹手術を受けた。退任後は国家公安委員を務め、03年11月、83歳で死去した。
 遺族によると、富田氏は昭和天皇とよく御所などで会話し、それらをメモなどに書きとめ本棚に保管していた。靖国神社をめぐる今回の発言については、富田氏が長官を務めていた当時、直接聞いたことがあるという。
 昭和天皇の不快感について、靖国神社広報課は「コメントは差し控えたい」と短く談話を公表した。【桐野耕一】
 ◇内容信用できる
 ▽「昭和天皇独白録」の出版に携わった作家の半藤一利さんの話 あり合わせのメモが張り付けられていて、昭和天皇の言葉をその場で何かに書き付けた臨場感が感じられた。内容はかなり信頼できると思う。昭和天皇は人のことをあまり言わない人だが、メモでは案外に自分の考えを話していた。A級戦犯合祀を昭和天皇が疑問視していたことがはっきり示されている。小泉純一郎首相は人柄からして、参拝するかどうかについて、昭和天皇の判断を気にしないのではないか。あくまで首相の心の問題で、最終的には首相が判断するだろう。
 ▽A級戦犯 第二次世界大戦後、ポツダム宣言に基づいて開かれた戦犯裁判で、「中心的指導者」とされた被告。終戦間際に連合国側が定めた「平和に対する罪」に該当するなどとして、首相経験者や陸海軍高官ら28人が起訴された。極東国際軍事裁判(東京裁判)での48年の判決では、全員有罪(公判中に2人死亡)で、東条英機元首相ら7人に絞首刑が言い渡された。78年10月に絞首刑の7人と公判中や収監中に死亡した7人の計14人が靖国神社に合祀されている。
 ◇分祀論議などにも微妙な影響
 昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことを裏付ける資料が発見されたことは、小泉純一郎首相の靖国神社参拝がクローズアップされる中、政界に根強いA級戦犯分祀論議に一定の追い風となりそうだ。ただ、靖国神社側は分祀について、これまで強く否定している。
 天皇参拝が途絶えたことは、78年のA級戦犯合祀に配慮したとの指摘がもともと政界に強かった。一方で、75年の最後の天皇参拝と合祀の間に約3年の空白があることから、国会で野党が天皇参拝を追及したことが原因、との反論も根強かった。安倍晋三官房長官は20日の記者会見で資料について「宮内庁からは『個人のメモに基づくもので、詳細を承知していない』と報告を受けている。天皇陛下の参拝については、そのときどきの社会情勢など諸般の事情を考慮しながら慎重に検討して宮内庁で対処してきた」と説明。小泉首相の参拝への影響については「首相自身が判断するものだ」と語った。
 A級戦犯については、自民党の古賀誠元幹事長、山崎拓前副総裁らが神社からの分祀論を提起している。かねて中曽根康弘元首相は「天皇陛下もお参りできるためには分祀が一番いい」と主張しており、今回の資料発見で天皇参拝の復活を求める観点からの分祀論が勢いを得る可能性はある。
 ただ、政界が分祀論議を提起することは政教分離原則に抵触するとの批判があるうえ、靖国神社側は分祀を強く否定しており、状況は複雑だ。【中川佳昭】

(毎日新聞) - 7月20日

<昭和天皇>靖国合祀不快感に波紋…遺族に戸惑いも

 「だからあれ以来参拝していない。それが私の心だ」。富田朝彦・元宮内庁長官が残していた靖国神社A級戦犯合祀(ごうし)への昭和天皇の不快感。さらに、合祀した靖国神社宮司へ「親の心子知らず」と批判を投げかけた。昭和天皇が亡くなる1年前に記されたメモには強い意思が示され、遺族らは戸惑い、昭和史研究者は驚きを隠さない。A級戦犯分祀論や、小泉純一郎首相の参拝問題にどのような影響を与えるのか。
 ■A級戦犯の遺族
 「信じられない。陛下(昭和天皇)のお気持ちを信じています」――A級戦犯として処刑され、靖国神社に合祀される板垣征四郎元陸軍大将の二男の正・日本遺族会顧問(82)=元参院議員=は驚きながらも、そう言い切った。
 正氏は昭和天皇が参拝を中止したのは、A級戦犯合祀とは無関係だとの立場を崩さない。「三木(武夫)総理(当時)が昭和50(75)年に現職首相として初めて参拝し、その秋の国会で論議になったため、陛下はその後参拝できなくなったのだと私は思うし、さまざまな史料からも明らかだ。A級戦犯合祀は、陛下の参拝が止まった後のことだ」と話す。その上で「(富田元長官が)何を残され、言われたかは関知しない」と言った。
 同様にA級戦犯として合祀される東条英機元首相の二男輝雄氏(91)=元三菱自動車工業社長=は「そんな話、いまだかつてどこからも聞いたことがない」と繰り返した。「信ぴょう性が分からない以上、言いようがない。個々の動きでいちいち大騒ぎしても仕方ないよ」とコメントを避けた。
 ■識者は
 昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康さんは「昭和天皇は東京裁判の結果を容認し、A級戦犯合祀はおかしいと判断していたから、想像できる範囲ではある」とし、影響について「参拝に反対の立場の人たちからは『昭和天皇でさえも否定的』という声が強まるのではないか。小泉純一郎首相と昭和天皇は靖国について考えが違うことがはっきりした。首相は参拝するのであれば、昭和天皇の判断に、政治の最高責任者として戦争について見解を改めて述べる必要があるのではないか」と語った。
 一方、一橋大大学院社会学研究科の吉田裕教授は「徳川義寛侍従長の回想で示唆されていたことが確実に裏付けられ、松岡洋右元外相への厳しい評価も確認された。今後は分祀論にはずみがつく。小泉首相も、少なくとも(終戦の日の)8月15日に参拝をしない理由になるのではないか。首相の参拝には多少の影響はあると思う」と話した。
 日本近現代史に詳しい小田部雄次・静岡福祉大教授は「昭和天皇の気持ちが分かって面白い」と驚き、「東京裁判を否定することは昭和天皇にとって自己否定につながる。国民との一体感を保つためにも、合祀を批判して戦後社会に適応するスタンスを示す必要もあったのではないか」と冷ややかな見方を示した。その上で「A級戦犯が合祀されると、A級戦犯が国のために戦ったことになり、国家元首だった昭和天皇の責任問題も出てくる。その意味では、天皇の発言は『責任回避だ』という面もあるが、東京裁判を容認する戦後天皇家の基盤を否定することもできなかったのではないか」と話した。
 ◇靖国神社とA級戦犯合祀を巡る動き◇
1945年8月 終戦の玉音放送
 46年4月 国際検察局がA級戦犯容疑者28人を起訴
   6月 松岡洋右被告が病死
 48年11年 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯のうち7人に絞首刑判決
 51年9月 サンフランシスコ講和条約調印
 56年4月 厚生省(当時)が「祭神名票」送付による合祀事務に対する協力を都道府県に通知
 66年   A級戦犯の「祭神名票」を靖国神社に送付
 75年8月 三木武夫首相が現職首相で初めて終戦記念日に参拝。私人としての「参拝4原則」を強調
   11月 昭和天皇が最後の参拝
 78年10月 靖国神社がA級戦犯14人を合祀
 85年8月 中曽根康弘首相が公式参拝。「宗教色を薄めた形式なら公式参拝は合憲」との官房長官談話を受けて
 86年8月 近隣諸国に配慮して中曽根首相が参拝断念
 01年8月 小泉純一郎首相が13日に参拝。以降、毎年参拝
 05年6月 小泉首相が衆院予算委員会でA級戦犯について「戦争犯罪人であると認識している」と答弁
 ◇内容を精査し、冷静な分析必要
 天皇の靖国神社参拝は1975年11月21日に昭和天皇が行って以来、今の天皇陛下も含め行われていない。同神社や遺族側は、その後も「天皇参拝」を求めているが、30年以上途絶えたままだ。これまでいくつかの理由が推測で語られていたが、今回の「富田元長官メモ」は、このうちの一つを大きくクローズアップした。
 宮内庁によると昭和天皇は、終戦に際し45年11月に同神社を参拝。その後も数年おきに訪れ、75年までに戦後計8回参拝した。また、今の天皇陛下は皇太子時代、69年までに戦後計4回参拝している。
 途絶えた理由に挙げられるのは(1)78年のA級戦犯合祀(2)対外関係の考慮(3)公人私人問題――など。靖国参拝推進派はこのうち(3)を取り上げることが多い。75年8月、三木武夫首相は「私人」の立場を強調して参拝。同年11月の天皇参拝では、政府は「天皇の私人としての行為」と国会答弁した。この点につき、「公人中の公人」の立場を昭和天皇が熟慮して、その後の参拝を取りやめたとの考えだ。
 だが、今回のメモは(1)が大きな理由だったと読める。天皇参拝を求める以上、遺族側でもこの発言を理由に、A級戦犯分祀論が強まる可能性がある。
 一方で、メモで取り上げられている松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使への昭和天皇の思いを考慮する必要もある。「昭和天皇独白録」で、松岡元外相について「恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思はれる」と辛らつに評価。白鳥氏が担当した日独伊三国同盟にも不満を述べている。信任していたとされる東条英機首相や木戸幸一内大臣らと比べ、冷ややかに見つめていたのは明らかで、それが発言に反映している可能性も否定できない。
 また、合祀されているA級戦犯14人の多くは陸海軍幹部で、2人は元々からの外務官僚。軍人でもなく、戦死でもなく、靖国神社にまつられることに違和感を語る向きもあった。昭和天皇が何を問題と感じ、それを今後我々がどうとらえていくか。内容について全文を精査し、冷静に分析していくことが必要だろう。【大久保和夫、竹中拓実】

(毎日新聞) - 7月20日