<長野県日中友好協会創立50年>
日中関係の今昔に学び、友好発展を目指そう
日中戦争に対する反省を踏まえ、軍国主義的錯誤を改めて、相互信頼に基づく日中関係をつくろうと内山完造先生をはじめ先覚者が友好協会をスタートさせたのが1950年10月1日でした。あの日中戦争の最中の上海で魯迅と深い友情を結んだ内山先生のほとばしる友好の思いは先生に接した人々の心を揺り動かさずにはおきませんでした。50年当時は朝鮮戦争の真っ只中でレッドパージが吹き荒れていた時であり、中国との友好を口にすること自体が危険視される時代でありました。内山先生は1954年長野県にも足をはこばれ県下各地で講演されました。「中国がどう変わろうとも、資本主義国家になろうと、泥棒国家になろうとも、それは中国人民の決定することである。私たち日本人は中国の変遷に関係なく、永久に日中友好運動を進めなくてはならない」と涙とともに語られたそうです。(故小穴武雄・元松本日中会長談)
満州開拓団送出日本一であった長野県は、旧満州現地訪問の希望が強く、そのためにはまずなすべきことがあると戦時中、中国河北省などから木曽川や天竜川水系の発電所工事に従事させるために強制連行され劣悪な条件の下で命を落とした240名余の中国人殉難者の遺骨収集と慰霊・遺骨送還事業に取り組んだのが始まりでした。初代会長の半田孝海先生(善光寺大勧進大僧正)をはじめ多くの関係者の努力によって1956年には県下の支部組織も13を数え、9月9日県連組織が正式に誕生しました。
その後の経過で感慨深いのは、誠意を持って尽力すれば、必ず相手の心も動かすということです。1963年には天竜村平岡に関係者の努力によって殉難中国人慰霊碑が建立され、それと連動する形で1964年には中国方正県に方正地区日本人公墓が建立されました。1966年には日本から初となった中国東北地区訪問が許可され長野県元開拓団友好訪中代表団がハルピンの松花江のほとりで開拓団犠牲者に慰霊のまことをささげたのでした。周恩来総理の「日本軍国主義は中国人民に多大な災禍をもたらしたが、日本人民もまた日本軍国主義の被害者である」との崇高な思想の実践でありました。
創立以来、協会は日中国交正常化を目指し民間友好運動を発展させてきました。紆余曲折はありましたが、そのつど日中友好を望む多くの県民の皆さんに支えられて、困難を克服し友好活動は継続され発展してきました。
1972年日中国交正常化が実現し、新しい歴史の一頁が開かれました。更に1978年日中平和友好条約の締結と同時期に中国も「改革開放」へと舵を切りました。中国はこれを機に大きく変化し、それは経済・文化・国民生活全般に及びました。日中関係も更に大きく発展する基盤ができました。
県協会の運動も客観情勢の変化に合わせて「官民あげての友好運動」へと転換しました。新しい条件のもとで日中友好運動は生き生きとした発展の道を歩み、県民ぐるみ市町村ぐるみの運動へと発展しました。県民の翼、友好都市提携、青年の船、スキー交流、留学生ホームステイ、長野オリンピックに中国友人を招く取り組み、希望小学校や緑化協力など枚挙にいとまがありません。
県協会創立から50年の今日、日中関係は大きく変化しました。日本も変わり中国も変わりました。昨年の日中間の往復貿易額は約20兆円(1844億ドル)に達し、両国の経済面での相互補完関係は史上最も深まっています。しかし靖国問題を最大のネックに政治的なギクシャクが続き首脳の相互訪問と対話が途絶えるという残念な状態が続いています。最近では「政冷経熱」から「政凍経冷」を心配する声も出始めています。アメリカの新保守主義の影響やバブル崩壊後の長期低迷や中国の急速な発展を受けて、偏狭な民族排外主義や過激な右翼的言論が幅をきかせています。1972年の国交正常化から33年が経過し、本来ならば戦争の傷も癒え、相互の信頼関係をもとに、多方面の協力が大きく花開こうとしているときに、トップが「靖国」で意地をはり、不信の連鎖の種を撒き続け、民族相互の反目をあおっているのですから国益のみならず「民族益」に反することであり許されることではありません。
しかし、協会創立当時の困難さと比べれば、たいしたことではない、という先覚者の声が聞こえてきそうです。物事は極まれば反転すのことわりの通り、政界・経済界・文化スポーツ界でも日中関係の現状を憂えて打開しようという動きが広がりつつあります。経済の回復を受けて、日本人が本来持つ精神的ゆとり(バランス感覚)が徐々に戻りつつあります。アメリカ追随一辺倒、アジア軽視路線は最後には多くの人々から見放されることになるでしょう。相互信頼関係を回復していくために、偏狭な民族主義に陥らないよう警戒しつつ民間交流を進め、第2の国交正常化を目指すほどの決意で進みたいものです。
具体的交流に取り組み、日中両国民間の友好信頼関係の再構築に努め、新たな発展を目指しましょう。
後継の壮年世代・青年世代に協会への参加を呼びかけ、日本にとって重要な意義を持つ日中友好事業がしっかりと続けられるようにしていきましょう。
長野県日中友好協会創立50周年の意義を全体のものとし、50周年記念事業を成功させましょう。
2006.3.15 長野県日中友好協会 事務局長 布施正幸