第16回中国帰国者日本語弁論大会
18名の帰国者が熱き思いを語る

 県中国帰国者自立研修センターは10月2日、第16回中国帰国者日本語弁論大会を長野市の信濃教育会館で開きました。1世の部、2・3世の部、学生の部に6人ずつに別れ、計18人が出場し、敗戦後の悲惨な逃避行の様子や平和を強く願っていること、言葉の面で苦労した体験や、支えになった人への感謝の気持ちを発表しました。

 10歳から日本で暮らす3世の林雪さん(16)=佐久穂町=は高校演劇班でせりふのイントネーションの違いに苦労しながらも、初舞台では「わくわくした」ことなどを発表。2世で3年前に帰国した熊谷美貴さん(20)=泰阜村=は「はじめは日本語がわからず後悔したが、勤めはじめてからはだんだんと言葉を話せるようになり、日本で生きていく自信が持てるようになった」と話しました。

 入賞者は、次の通り。
 ◎県知事賞 林萌(学生@)◎県日中友好協会長賞 唐沢寿美(1世@)◎信濃教育会長賞 熊谷美貴(2・3世@)◎県開拓自興会長賞 丹羽千文(1世A)◎県中国帰国者採用企業連絡会長賞 坂井太郎(2・3世A)◎県中国帰国者自立研修センター所長賞 林雪(学生A)◎各部門3位 山崎教子(1世)・張麗波(2・3世)・小島由佳(学生)◎奨励賞 宮嵜静子


◎各部門1位の皆さんの弁論内容を紹介します。



(長野県知事賞=学生の部1位)

  前向きに生きること

                    林 萌

  私は、中国残留孤児三世です。私の祖母は六十年前に中国で生れ、平成八年日本へ帰国できました。その三年後、私が十歳のときのことでした。日本のことは何も知らない、日本語も話せないまま、私の両親は私と姉、兄をつれて日本へやって来ました。
 その時の私は、なぜ日本へ行くのか、日本へ行ったらなにができるのか、どんな生活が待っているのか、全く考えられませんでした。ただ、親に付いてきました。
   日本に来た頃の私は何も知らなかったんです。だから、自分の将来のこと、学校のこと、生活のこと、全て人に任せることが多かったです。
 日本の生活が少し分かるようになって、いつまでも人に任せるのではいけないと思い始めました。どんな小さなことでもよいから自分からやってみようと決心しました。中でも言葉が人と人をつなぐ大切なことだと気付き、先ず、日本語の勉強をしようと思いました。  祖母は、中国でも学校教育を受けたことがありません。それでも、祖母は日本に帰国後、自分が努力をして覚えた五十音図と簡単なあいさつ言葉を教えてくれました。
  私は一つ一つの言葉をゆっくり覚えてきました。少しずつ日本語であいさつが言えるようになり、気持ちが楽になりました。
 一カ月ぐらい経ちました。小学校四年生に編入することができました。それでも言葉の問題が大きかったです。まだまだ日本語が分からなくって、先生やクラスメ−トにも伝えたいことが伝わらないし、やりたいことも進まないし、クラスの人が何言っているのかも良く分からない、毎日の学校生活はとても苦しかったです。
  家に帰っても祖父母を含め家族の中では日本語を話せる人はいません。両親は仕事と日本でのこれからの生活のことで精一杯でした。私のことを考えることができませんでした。私は孤独感と自分の無力さを感じ、泣きたいときもありました。
  しかし、「悩んでいても、泣いていても、なにも変わらない。前には進まない。私が、自分の今の状況を変えていくしかない。前向きにやるしかない」と思いました。
  そこで、考えたことは、友達と交流するときは、漢字や絵などを書いて、言いたい事を伝えるようにしました。時間がかかりましたが、友達が分かってくれるまで一生懸命絵を描いて伝えました。本気になって、私の言うことを聞いてくれた友達が何人もいて、とても嬉しかったです。そのおかげで、私は日本語をだんだん分かるようになり、自分の気持ちを伝えられるようになりました。友達も増えました。
  二年が過ぎて中学生になりました。勉強も難しくなり、授業に追いつけませんでした。テストもだんだん点数が下がりました。勉強が大変で、息抜きの時間もないと不満を感じることが多くなってきました。自分が無力なことにもどかしさを感じていました。
  しかし、一つ一つのことを日本の人達と一緒にやっていくことが大事だと思い、私は、毎日卓球部のお友達といろんな大会に勝つため仲良く部活動を休まずに頑張っています。  それから高校受験に合格するために、夜遅くまで勉強もしています。
  今の私は、日本のことは分からないことがまだまだいっぱいあります。だから、日本の大学や高校で日本の文化をしっかり学びたいです。
  それから、忘れかけた中国語も、もう一度やり直したいと思います。そうして、将来は日本語と中国語を自由に使えるようになって言葉で困っている人たちの役にたちたいと思います。
  高校受験まであと数カ月しかありません。一日一日無駄のないように努力していきたいと思います。前向きに考えてやっていけば、どんな困難があっても乗り越えられると信じて、自分の夢に向かって頑張っていきたいと思います。


(長野県日中友好協会長賞=一世の部1位)

    聞いて下さい、満蒙開拓団の叫びを

                             唐沢寿美

 皆さん今日は。下伊那郡高森町に住んでいます唐沢寿美と申します。どうぞ宜しくお願い致します。私は十年前に帰国し、年齢はこの六月で満八十才になりました。
  昭和二十年七月九日、開拓団本部から「一ケ月の食料と衣類等を準備し、直ちに避難せよ」という命令が出ました。団には、若い男性は兵役で、残っているのは老人と子供だけで、やっとのことで準備をして避難が始まりました。直後から空からはB29の攻撃、前後には匪賊の待ち伏せ、中でも匪賊の襲撃は酷く、金目の物から着ている物まで奪われ、中には銃で打ち殺されてしまう人さえいました。食料も無くなり子供達は衰弱するばかり、ついには母親が、我子の中で一番元気と思われる子だけを背負い、他の子供を荒野に置き去りにして進むのです。夜になると荒野のあちこちから、力のない声で母親を呼び求める泣き声がきこえてきました。この子達の中には、運良く中国人に拾われ育てられた子供もいましたが、殆どの子供は狼の餌食か飢え死にでした。
 幾日か過ぎ無人の集落に着きました。一軒の家に入った時です。婦人が横たわる傍らに四才位の男の子が座り、前には僅かばかりの食べ物が置かれていました。婦人を見ると口と鼻から、ウジが出入りしていました。「僕、お母さんどうしたの」と聞くと、「お母ちゃんねんね」と言って、母親の手を握ったのです。母親の死が分らず、起き上るのをじっと待っていたのです。母親は我が子の生き延びることを願って自分は食べずに、残り少ない食べ物を子供に添えてから、息を引き取ったのでした。罪もない子供達が何でこんな目にあうのか、お国の為にと言われて来た満蒙開拓団の悲惨な姿を目の前にして、皆涙が涸れるまで泣きました。結局は、その子を助けることができませんでした。私達は、その日一日を生きることに必死だったからです。今になっても、あの母子の光景が目に浮ぶ度に、心の優しい人に拾われたらよいがと、心の中で祈るばかりです。
  ある大きな村に着いた時でした。村の入口の看板に、日本が負けたという内容が書いてありました。この時点での私の家族はと言いますと、父はソ連の捕虜収容所で死亡、兄の子供四人は全滅、残るは私と姉嫂、そして弟三人となっていました。幾つかの収容所を点々とした後、十一月に奉天の収容所に入れられ、そこで冬を越すことになりました。酷寒の地での収容所生活で、多くの難民が伝染病に罹り亡くなりました。とうとう私も病に倒れ、連日四十度の高熱に苦しみ飢にも耐えられず、外に出て雪を食べている時、親切な中国のお祖母さんに助けられました。死ぬ一歩手前の私を、貧しい中どこからかお米を取りよせ、お粥を作ってくれる等、三カ月間我が子のように介護して頂いたお陰で、病気が治り元気になりました。その後迷いましたが、命の恩人への恩返しと考え、お祖母さんの息子と結婚しました。以後二人の子供に恵まれ、貧しいながらも幸せに過ごして参りました。  戦後六十年、平和になったと言われていますが、六十年前の悲惨な出来事について、私たちは訴え続けていく義務が有ると考えています。そのことが真の平和日本の建設に生かされるのではないかと考えるからです。その為にも残された人生を、精一杯生きたいと考えています。


(信濃教育会長賞=二世・三世の部1位)

           三年間を振り返って

                             熊谷美貴

  皆さんこんにちは。私は、下伊那郡泰阜村の熊谷美貴です。どうぞ宜しくお願いします。私は、平成十四年に、中国黒竜江省から、父母と兄の四人家族で、日本に来ました。私のおばあさんは、日本人です。残念ながらおばあさんは、一九六九年に、中国で三人の子供を残して病死しました。そしておじいさんも一九九三年に亡くなりました。おばあさんがまだ元気だった頃父に、お前達を連れて、一度日本へ行って見たいなあと、言っていたそうです。父はその言葉をずっと、胸の奥にしまってあったそうです。おばあさんは、時々自分が小さい頃、中国へ家族と一緒に行った時の事と、終戦後家族がバラバラになり、自分一人になってしまった時の事を、涙を流しながら聞かせてくれたようです。数年後父は結婚しましたが、どうしても母親が残した遺言を忘れる事ができず、日本にいるおじさんにお願いして、身元保証人になって頂き、日本へ来ることができました。私は、中国にいた時は中学生でしたので日本に来て、すぐ学校へ編入学してくれるのかと、思っていましたが言葉が分からない事もあり、学校へ行けませんでした。私は、どうしても学校へ行きたくて、毎日悲しくて泣いてばかりいました。「日本はもういや中国へ帰りたい」と言って親を困らせたことが何度もありました。それから少し経つと、父母と兄は仕事にいくようになりました。昼間は、私一人でいる時が多くなって、とうとう学校へ行けない悲しさで、日本での、生活する希望を失ってしまいました。と、その時、泰阜村に日本語教室が、ある事を知りました。でもこの教室は、一週間に一回、二時間しか勉強ができないので、困っていました。そんな時家の近くに電機会社がある事を聞き、早速、保証人の案内で面接に行きました。ところが、その会社側が、まだ、学生なので無理ですと断られました。これを聞いた私は、本当に大きな衝撃を受け、頭が真っ白な状態になりました。それでも、私は何としても働きたいと、保証人にお願いしましたら、その社長さんの好意で勤める事になりました。それからは少しでも日本語を覚えようと、日曜日は、日本語の勉強、普通の日は仕事をして一生懸命頑張りました。そのうちに自分の気持が少しずつ変ってきて、親を困らせないようになってきて、楽しく毎日を過ごせるようになりました。教室の先生が教科書の本だけではなく、近所の人との会話や日本の生活習慣も大事な事だと教えて下さいました。それから私は、会社へ行って大きな声で「おはようございます」と、挨拶をしますと社員達からも「おはようございます」と、返事がきました。その時の喜びは、私にとって、一生忘れる事ができません。こうして、毎日繰り返して挨拶しているうちに、会話も徐々にできるようになりました。私は十八才になり、自動車の免許証を取得する為、自動車学校へ通いました。一生懸命勉強した成果がでまして、自動車免許の試験に一発で合格しました。今後は悲しい事や困った事を克服して、少しでも、日本の社会に貢献したいと思います。今日、長野県日本語弁論大会に参加させて頂いた事は、私にとって、本当に良い励みになりました。皆さん、ご清聴ありがとうございました。