<新春友好メッセージ>
 戦後六十年の節目の年を迎えて
 

 
       長野県日中友好協会会長  井出 正一

 

 新年おめでとうございます。
 昨年一年間それぞれのお立場におけるご活動に敬意を表し、県日中へのご協力に感謝申し上げます。

 「政冷経熱」と表現される日中関係ですが、去年11月、APECが開催された南米のチリで、漸く一年半ぶりに首脳会談が実現しました。結果は残念ながら、問題の難しさを一段と際立たせるものになりました。折角実現したこの首脳会談を契機に、今年は両国が手を携えてアジアと世界の平和と安定のために、せめて「政温経熱」に進んで欲しいものです。

 昨年の暮れ、自衛隊のイラク派遣の延長が、世論を考慮することもなく、活動内容の検討もないまま、議論の深まりを避けるかのように、国会閉会直後の閣議で決まりました。
   先人が  注意深く  避けてこし
   ワナ泥沼に  足踏み込みぬ
 一昨年11月、イラク特措法が成立したとき詠んだ拙い一首が、現実味を帯びて来ました。
 出所進退は、個人の場合もそうですが、進むより退くときの方が難しいものです。メンツや情実が絡むからです。

 「歴史とは過去と現在の対話である」(E・Hカー)ならば、泥沼から抜け出せなかった経験は、20世紀前半のわが国の歴史、とりわけ日中関係史を顧みれば明らかです。
 時代の潮流は既に、「民族自決、国民国家」の時代に差しかかっていたのに、植民地支配抗争が続くと読み違えたわが国は、自らも列強の一翼たらんとしました。1915年の「対華21ケ条の要求」、19年の「ベルサイユ講和会議におけるドイツの山東利権の継承」、32年の「満洲国建設」、37年の「盧溝橋事件」と、"遅れてきた帝国主義国家"の末路は、自国民<のみ>ならず、中国をはじめとするアジア各国の大勢の人たちに、筆舌に尽くし難い苦痛を与えることになったことはご承知の通りです。

 今年は戦後60年、言い換えれば日中戦争終結60年という節目の年です。中国にとってはいやでも「日本」を意識せざるをえなくなる年です。私たちも歴史を正しく認識しなくてはなりません。ドイツのヴァイツゼッカー元大統領はこう言っています。「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる。」

 今年の四月、隔年ごとに日中相互で開催されてきた第10回日中友好交流会議を、長野市で私たち長野県日中友好協会も共催することになりました。日中友好協会の創立55周年にもあたるこの節目の年にふさわしい有意義な会議にしたいものです。皆様のご健勝とご活躍をお祈りして新年の挨拶とします。

                                       (2005年 元旦)

 最澄帰朝1200年記念祝賀会でのあいさつ

            (社)日中友好協会副会長
             長野県日中友好協会会長

                  
井 出 正 一


 我是日本中国友好協会副会長、長野県日中友好協会会長的井出正一。
40幾年以前、大学生的時候、我学習中文少一点、那時候日本和中国還没到国交正常化。可是我確信将来中国成為対日本最重要国家之一。以後我没有説和聴中国話的機会、大概都忘了、所以講日本話。(私は日中友好協会副会長、長野県日中友好協会会長の井出正一と申します。40数年前大学生のころ、中国語を少し勉強しましたが当時は日本と中国は国交正常化しておりませんでした。ただし私は将来中国が日本にとってもっとも重要な国の一つになるものと確信しておりました。以後私は中国語を話したり聞いたりする機会がなくほとんど忘れてしまいましたので日本語であいさついたします。)

 最澄伝教大師が御地天台山で修行を終え、日本へ帰国して1200年になります。その記念式典に続いて尊敬する浙江省人民対外友好協会前会長・沈祖倫先生はじめ友好人士の皆様ご参席のもと盛大な祝宴を開催していただきましたことに対して日本天台宗代表団、日中友好協会および各友好団体を代表して感謝を申し上げますとともに、一言ごあいさつを申し上げます。

 名古屋での「地球博」における中国館の展示後、この間まで東京上野の国立博物館で、昨年の秋西安で発見された日本人留学生井真成の墓誌を中心とした「遣唐使と唐の美術展」が開催されました。私たち日中友好協会も主催団体の一つでした。大変多くの日本国民が当時の中国皇帝の手厚い配慮に感銘し、日中友好の歴史の長さを改めて認識しました。

 隋から唐にかけて数百年の間、日本からは先進国の中国に多勢の留学生が苦難を乗り越えて、さまざまな分野にわたって教えを乞いに海を渡りましたし、中国からも鑑真和上はじめ多くの人たちが訪日、日本の文化の向上に力を注いでくれました。
 最澄伝教大師は帰国後、比叡山に延暦寺を開き、天台宗は日本仏教の元締めとしての役割を担っています。また最高幹部であられる小林隆彰老師は滋賀県日中友好協会の会長であり、半田孝淳老師は長野県日中友好協会の最高顧問であられまして、日中友好活動にも積極的に取り組んでくださっております。

 一昨日私たちは紹興で文豪魯迅先生の旧居を参観しました。昨日は魯迅先生の124年目の誕生日でもありました。清朝末期から民国初頭にかけて、中国の近代化を目指して一万余の青年が、欧米列強の植民地支配から免れた日本に学ぼうと留学しました。魯迅先生もその一人でありました。
 欧米諸国との不平等条約の改正に苦しんだ日本は中国の理解者となるべきでした。すでに時代の潮流は「民族自決」「国民国家の形成」になっていたにもかかわらず、まだ植民地支配抗争の時代が続くと読み違えたわが国は欧米列強陣営の一員たらんとしました。
 「遅れてきた帝国主義国家」の末路は、ご承知の通り、自国民のみならず中国をはじめとするアジアの多くの国の人たちに筆舌に尽くしがたい苦痛を与えることになってしまいました。私たちは、この反省の上に立って新しい近隣諸国との友好関係を構築しなくてはなりません。

 今年は戦後60年という節目の年です。現在日中韓の人的往来は年間400万人を超え、留学生の数も両国で10万人に達しようとしています。貿易額も1700億米ドルと、いまや日中双方ともお互いに相手なくしては存在できない関係となりました。
 政治的にはいくつかの解決しなくてはならないギクシャクとした状況にありますが、最澄大師のころには考えられもしなっかった発展であり、必ずや良い友好の道が拓けるものと信じています。

 その意味でも民間の私たちの交流は一層重要となっております。そして友好促進のためには相互理解が何よりも必要であり前提だと思います。
 今日この感激を、帰国してから今後の日中友好活動にいかしていこうと決意を新たにしておりますことを申し上げ、ご関係の地域とご参会の皆様のご発展をお祈りしてごあいさつといたします。ありがとうございました。

                                                  (2005年9月26日)