<資料>日本経済新聞2004年11月19日「経済教室」欄より

難局の日中関係打開、東アジア地域統合がカギ
                           小島朋之・慶応義塾大学総合政策学部長


冷却化した日中関係を改善するカギは、東アジア共同体の実現に向けた域内協力への日本の積極的取り組みにある。域内諸国間の協力を進めていけば、中核である日本と中国の関係も深まっていく。また歴史の共同研究を通じて相互理解を深めることも検討すべきである。


@日本領海侵犯微妙な時期に

 11月10日に発生した原子力潜水艦による日本領海侵犯について、中国政府は6日後の16日に中国の潜水艦であることを認めた。領海侵犯の理由を「通常の訓練過程で、技術的な原因から誤って入った」と釈明し、事件発生を「遺憾に思う」と述べた。小泉首相は中国側が「陳謝したと受け止め」、「日中友好の支障にならないよう再発防止をしっかり求めて行きたい」と語った。

 この原潜はグアム島沖から先島諸島・石垣島周辺まで北上して日本の領海に侵入し、水深が浅く地形が複雑な海域を一度も浮上せずに中国の基地に帰着した。これは中国の潜水艦が「通常の訓練過程」に日本近海と領海を組み込み、太平洋に進出して浮上せずに基地に帰港できることを示している。1980年以来の国防近代化により、中国海軍は沿岸警備隊から太平洋対岸の米国を視野に入れた遠洋海軍に変貌しつつあるということである。

 海軍力の増強は海洋大国化戦略の一環であるだけでなく、台湾独立という有事への対応、東シナ海の排他的経済水域で日本が主張する中間線付近における石油・天然ガスの開発、さらには中国側が係争中と主張する尖閣諸島の領有権なども関わり、日本の安全保障や資源確保にとっても極めて影響が大きい。

 このタイミングで日本の主権に関わる領海侵犯が「通常の訓練過程」として実施されたのか、あるいは軍の統帥権を掌握する中央軍事委員会の胡錦涛主席が了解して実施されたのか、なお議論の余地がある。領海侵犯が日本側の激しい反発を招くことは、中国側でも容易に予想できたはずである。それほど日中関係にとってタイミングが微妙すぎるのである。

 それは日中間で首脳会談が開けない現状に象徴される。10月にベトナムで開かれたASEM(アジア欧州会議)で小泉首相は温家宝首相と立ち話だけで終わり、20日からチリで開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)での胡錦涛国家主席との会談実現が懸案となっていた。首脳会談が実現するか否かが焦点になるほど、日中間の政治関係は冷却化しているのである。

 小泉首相が首相に就任した2001年以後、両国首脳による公式の相互訪問は途絶えたままである。毎年交互に首脳が相手国に公式訪問することは1998年の「日中共同宣言」に合意事項として明記されたが、99年に小渕首相が訪中し、2000年に朱鎔基首相が訪日したのが最後である。小泉首相は2001年10月に2回、そして翌年の4月にも訪中したが、いずれも公式訪問ではなかった。胡錦涛主席との首脳会談も2003年5月にロシアのサンクトペテルブルク、そして同年10月のバンコクでのAPECサミットで実現したにすぎない。

 こうした政治関係の冷却化をもたらした最大の理由について、中国側は小泉首相による靖国神社参拝ににあると主張している。首相による参拝は神社に合祀されたA級戦犯を悼む行為であり、中国を含むアジア諸国の人民の感情を傷付けると批判する。中国外交部の武大偉副部長は靖国参拝の「問題が解決すれば、他の日中間の問題は全面的に解決される」といい、「歴史問題を利用して残りの問題について何か要求する気持ちは毛頭ない」と語った。(『毎日新聞』10月13日)

@胡錦涛政権、反日を抑制

 しかし、靖国問題の解決だけで「問題は全面的に解決される」ほど日中関係は簡単ではない。東シナ海の石油・天然ガス開発、中国人による尖閣諸島への上陸、サッカーのアジアカップでの若い世代を中心とした反日騒動、日中戦争期の被害に対する補償請求の裁判提訴などの問題は、容易に解決されるとは思われない。1990年代後半に強化された愛国主義教育によって植え付けられ、中国政府が歴史問題を対日カードとして利用してきたことで、反日行動に免罪符を与えてしまい、政府による抑制が難しくなっている。

 こうした状況は中国側にとっても好ましくはないはずだ。胡錦涛政権は歴史問題にこだわってきた江沢民政権とは異なり、対日関係の改善に積極的な姿勢を示してきた。愛国主義教育についても、反日を抑制する措置をとっている。今年7月に「愛国主義教育基地」の「先進単位」に指定された37ヶ所、「先進工作者」に指定された50人の中で、日中戦争関連はそれぞれ2ヶ所、3人にすぎなかった。

 政権は2050年前後の「中華民族の偉大な復興」の実現を目指して、まず2020年には国内総生産(GDP)4兆jを達成する目標を掲げている。経済発展を最優先するために平和な国際環境を維持し、米国や東アジアそして日本とも協力する「全方位」協調外交を変えるわけにはいかない。胡錦涛主席は「歴史を鑑として未来に向う」との江沢民時代の常套句に言及しつつも、「中国政府が中日関係を高度に重視」し、「戦略的な視点」から「中日関係の発展を認識し、積極的に推進する」と強調している。(『人民日報』9月23日)。

 日本側も相互補完が構造化した経済関係の促進や、日中協力が不可欠な東アジア地域の協力・統合の発展を目指すならば、冷却化した日中関係の改善に向けた積極的な取り組みが求められる。そのカギは東アジア地域の協力と統合への日本の外交戦略の構築と実践にありそうだ。

 同地域では分散・分裂から協力・統合へのパラダイム・シフト(枠組みの変更)が本格化し、ASEAN(東南アジア諸国連合)+3(日中韓)サミットは将来の東アジア共同体の実現に合意している。協力レジームがまだ形成されていない北東アジア地域についても、昨年10月に日中韓三国間協力の促進に関する共同宣言が発表された。

@日本の姿勢は消極的な印象

 しかし、積極的に動く中国と比較すると、日本の姿勢はなお消極的との印象がぬぐえない。小泉首相が2002年1月に提唱した「共に歩み、共に進む共同体」ではあまりにあいまいである。中国側は日中協力を「東亜共同体」を促進する「核心」と位置づけ、日中の首脳交流の中断が「東亜共同体プロセスに悪影響を生むこと」への懸念さえ表明している。

 東アジア共同体に向けて協力を進めていくならば、日中関係が「友好協力パートナーシップ」にとどまっているわけにはいかないはずだ。中国はすでにロシアだけでなく、昨年にはEUやASEANとの関係についても「戦略的パートナーシップ」に格上げしている。日本との関係についても、「戦略」レベルへの格上げを提案してよい。

 中国側が両国関係への最大の障害にあげている首相の靖国参拝問題についても、一定の配慮が必要だろう。少なくとも、小泉首相が参拝直後に「中国も理解している」と語ったような、中国側の神経を逆なでするような発言は慎むべきであろう。

 より根本的な対応は歴史問題への率直な取り組みであり、両国政府が支援する歴史の共同研究を提案してもよい。すでに日韓間ではこうした取り組みが進んでおり、まもなく最終報告が提出される。もちろん、共同研究によっても、歴史、文化や生活が異なる日中間で認識の共有がえられるわけではない。しかし、互いに異なる認識をもっていることへの相互理解を深めることは可能である。それが相互信頼の道につながるはずである。こうした歴史の共同研究を日中二国だけでなく、韓国や東南アジア諸国を含めた多国間での試みとして提案してもよい。

 対中関係での「毅然とした態度」がしきりに語られる。外交において、自国の安全と繁栄の確保という国益を追求するのは当然である。しかし、外交はそれぞれが異なる国益を追求する国同士の交渉であり、妥協の技術である。優先順位の高い目標の実現のためには譲歩すべき点も出てくる。日中外交においても、こうした側面があることを再確認しておいてよい。日本と中国は、ともに譲歩しても良好な関係を維持する必要のある「重要な隣国」である。