平和を願って、中国人強制連行殉難者慰霊祭
   木曽・三岳と天竜・平岡で(03年9・10月)


 戦争末期、県内木曽川水系と天竜川平岡などには発電所建設工事のために2100名あまりの中国人俘虜が強制連行され、そのうち240名あまりが過酷な条件下で亡くなりました。内7割は河北省出身者と見られます。
 県日中友好協会は20年前、河北省との友好提携に先立ち、県、町村会、仏教会、勤労動員された旧制中学校の関係者とともに立派な慰霊碑を建立しました。以後、地元の三岳村をはじめ関係者の協力を得て平和友好の象徴として守られてきています。
 平岡の慰霊碑は1964年に友好協会・仏教会・華僑総会・町村会の協力によって建立されており、中国紅十字会代表団や河北省から強制連行生存者を招いて慰霊祭が実施されてきました。
 本年は日中平和友好条約締結25周年、長野県と河北省の友好提携20周年に当たります。この記念の年にあたり、両地区において中国人強制連行殉難者を追悼し、日中不再戦・平和友好を願って慰霊祭を開催することになりました。両地区とも実行委員会を組織し、中国大使館代表の出席をいただいて厳かに執り行われました。
○ 木曽谷の慰霊祭は9月27日(土)午後1:30〜慰霊碑前(三岳村大島橋脇)
○ 天竜村の慰霊祭は10月19日(日)午後1:30〜慰霊碑前(天龍村平岡ダム脇)
(写真はあいさつする井出正一県日中会長)

戦争の教訓をくみとり友好を
三岳村で強制連行で殉難した中国人の慰霊祭
  

 太平洋戦争末期に中国から木曽谷に強制連行されて亡くなった中国人182人に対する慰霊祭が27日、三岳村の大島橋脇にある「中国人慰霊碑」で行われました。
 木曽郡内の町村長や三岳村の皆さん、県内の日中友好協会会員のほか、県、中国大使館の郭寧二等書記官ら約150人が出席して日中両国の不再戦と友好を誓いました。
 慰霊祭は日中平和友好条約25周年と長野県と河北省との友好県省締結20周年も記念して開催されました。主催者を代表して、県日中友好協会の井出正一会長と慰霊碑維持管理委員長の下野戸豊三岳村長があいさつし殉難者を追悼し、平和を誓いました。続いて慰霊法要が行われ、参列者が一人一人菊の花を祭壇に手向け冥福を祈りました。追悼のあいさつに立った郭書記官は「(両国関係の)節目に立って、戦争の教訓をくみとり、中日友好に共に力を注ぎたい」と述べました。
 第2部の慰霊斉事は三岳村交流促進センターに場所を移して行われました。

<木曽谷殉難中国人慰霊祭次第>
第1部 慰霊祭(慰霊碑前)
         (司会)外戸賢二/三岳村住民課長
1.開式のことば    田中今朝春/楢川村長・同日中友好協会長
2.黙    祷
3.主催者あいさつ  井出正一/長野県日中友好協会会長
              下野戸豊/慰霊碑維持管理委員会会長・三岳村長
4.来賓追悼のことば 郭寧/中華人民共和国駐日本国大使館二等書記官
              小池茂見/長野県木曽地方事務所長
5.慰霊法要と献花  日野秀麿/木曽仏教会代表
               小島啓宗/大泉寺前住職
               小島宗徳/大泉寺住職
6.閉式のことば    小林正美/王滝村長

第2部 慰霊斉事(交流促進センター)
        (司会)原山茂夫/旧制長野中学同窓会代表
1. 開  会     佐々木金三/上松町長
2. 代表あいさつ  下野戸豊/慰霊碑維持管理委員会会長
3. 経過報告    布施正幸/長野県日中友好協会事務局長
4. 来賓あいさつ  楯種臣/木曽郡町村会長
             村上淳/県議会議員
5. 献  杯      桑原昭一/三岳村議会議長
6. 閉  会      西堀正司/長野県日中友好協会理事長      
                                            

     <主催者あいさつ>   
                   長野県日中友好協会会長  井出 正一

 昨年5月、堀内巳次会長からバトンを引継ぎました長野県日中友好協会会長の井出正一です。主催者を代表して一言ご挨拶申し上げます。
 日一日と秋が深まりつつあるここ木曽谷は、私たちの思いが通じたのでしょうか、いや地元の殉難者の諸霊がもたらしてくれたに違いありません、数日来の悪天候が嘘のように、今日は北京秋天ならぬ木曽谷秋天であります。
 過ぐる太平洋戦争末期、ここ木曽谷に、中国河北省などから2,000余名の中国人の方々が強制連行され、御岳、上松発電所の建設工事に従事させられました。劣悪な環境のもと、無念の死を遂げられた182名の方々の御魂を追悼し、日中両国の永遠の平和と友好を祈って、長野県、木曽の関係町村、地元仏教会、勤労動員された旧制中等学校同窓生、日中友好協会などが発起して、広く県民、関係企業の協力のもとに「木曽谷殉難中国人慰霊碑」が建立されて、今年は20年にあいなります。5年毎の節目の年に催される慰霊祭でありますが、今年は日中平和友好条約締結25周年、長野県と河北省との友好提携20周年の年でもあります。中国大使館からは、中日友好協会の一員として長年日中友好活動に取組んで来られた、つい2ヶ月前大使館に赴任されたばかりの郭寧書記官が、慣れない日本の右ハンドルの自動車を運転して高速道路を走っておいで下さいました。中国の女性の勇気に敬意と感謝の意を表します。県側からは地元の小池木曽地方事務所長さんと村上県会議員さんが参加して下さっておられます
 そして恒例とはいいながら、地元の関係町村、とくに慰霊碑の維持管理を担って下さっている三岳村の下野戸村長さんはじめ村当局、議員各位、老人クラブの皆さん等村を挙げてのご尽力に心から御礼を申し上げたいと思います。
 日中友好協会の仲間も県下各地から、とくに今年は飯山、諏訪、上田の皆さんが大勢参加して下さっています。皆さま遠路ご苦労さまです。この慰霊祭建立に至るまでの、殉難者の調査、遺骨収集、慰霊法要、遺骨の送還等々が、長野県日中友好協会の原点、スタートであったことを銘記したいと思います。
 更に原山茂夫さんはじめ当時勤労動員され、中国人の皆さんと一緒に作業に従事した旧制中等学校同窓生の皆さまもご参加下さっておられます。この皆さまが、この慰霊碑の建立の発起人であることを私たちは忘れてはなりません。この先輩方も齢い古希を超えられました。歳月は休むことなく過ぎ行きます。「年年歳歳花相似たり、歳々年々人同じからず」とはいいますが、歴史の彼方に葬ってはならないこともあります。
 平成7年6月、東京の九段で催された厚生省主催の「中国残留邦人問題への理解を深める中央大会」、とくに若い世代の皆さんを対象にした会でした――で、当時厚生大臣の職にあった私は、挨拶に「戦後50年という節目の年にあたって、戦争に直接関わらなかった私たちの世代も、まして、まだ生まれてもいなかった皆さま方次の世代の人たちも、歴史を正しく認識しなくてはなりません。ドイツのヴァイゼッカー前大統領はこう言っています。『過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目になる』」で結びました。
 今日、ここ木曽谷に、過去に目を閉ざさない、こんなに大勢の皆さま方がお集まり下さいました。おそらく、殉難者の御魂も欣んで下さっていることと思います。
 来月下旬、私は、長野県・河北省友好提携20周年記念の式典に出席するため、田中知事を団長とする長野県日中友好の翼訪中団の一員として河北省へ参ります。今日ご参会の方の中にもご一緒下さる方がおられます。中国、河北省の皆さまに今日の催しの様々をご報告させていただきます。
 最後に、改めて中国殉難者の皆さまのご冥福をお祈りしつつ、ご参会の皆さま方とご一緒に、日中友好の井戸――前日中友好協会全国会長の宇都宮徳馬先生の言われたことですが、これこそ日本の最大の安全保障であります――を堀り続けることをお誓いして挨拶と致します。

     <主催者あいさつ>
                    慰霊碑維持管理委員長・三岳村長    下野戸 豊

 日中平和友好条約25周年にあたり木曽谷殉難中国人慰霊祭を開催いたしましたところ、中国大使館郭寧二等書記官、小池紀夫地方事務所長、村上県議会議員をはじめとし、関係する多くの皆様の御参加をいただき慰霊祭の開催を出来ますことを深く感謝申し上げます。
 殉難された182名の方には戦争という誠に不幸な事態の中で尊い命を失われました。
 ここに日中平和友好条約25周年を機にあらためて、心から御冥福をお祈り申し上げます。
 昭和58年11月に殉難された方々を追悼するため、ここに慰霊碑が建立されましたが、日中友好親善と国際平和を願い、地元老人クラブ会員により、手厚く管理をさせていただいており、感謝を申し上げたいと思います。
 今後ともこの碑を守り、永遠に中国との友好親善と平和を誓い、御多用にもかかわらず御参集いただきました皆様に感謝申し上げ、主催者のことばといたします。
 

     <追悼の言葉>
                     中華人民共和国駐日本国大使館二等書記官   郭 寧

 長野県木曽谷殉難中国人慰霊祭が執り行われるに当り、中国大使館を代表いたしまして、この地に永眠されている殉難者の皆様に心より追悼の意を表します。同時にこの慰霊祭のためにご尽力頂いた長野県日中友好協会を始め関係各位の皆様に深甚なる敬意と感謝の意を表します。
 中日両国は海一つを隔てられた一衣帯水と譬えられる隣国であります。両国は二千年に及ぶ悠久なる友好交流の歴史を持っています。しかし近代に入って不幸な一時期を経験しました。日本軍国主義の中国に仕掛けた侵略戦争が両国人民に多大な災厄をもたらしました。その期間中、多くの中国人が強制連行され、過酷な環境の中で、非人道かつ想像を絶する重労働をさせられました。その内、たくさんの尊い命がこの地に落とされました。戦争が終わって58年経った今思っても、心を痛めて止みません。
 戦後両国の識者たちは大所高所に立って、両国人民の根本的利益から出発し、当時の困難極まった情況の下で、命を懸ける気概を持って、棘の道を切り開き、多くの心血を注ぎ、骨身を削り、中日関係の改善に努め、両国の国交正常化を実現させました。以来、両国各界の方々のご努力により、中日友好協力関係は全面的な発展を遂げ、史上かつてないほど幅広くて深いものになりました。
 「前事を忘れず、後事の戒めとなす」。今年は終戦58周年で、中日平和友好条約締結25周年でもあります。我々はこの節目の年に立って、戦争の教訓を深く汲み取り、先駆者たちが切り開いた友好の道を大切にし、今日の得難い中日友好の大局を守り、皆様と手を携え、世界平和の擁護と中日友好事業の発展のためにともに力を捧げて参りたいと存じます。
 終わりに、中国殉難者の皆様のご冥福をお祈り申し上げると同時に、中日両国の世世代代
の友好をお祈り申し上げます。(2003年9月27日)
  

     
<追悼の辞>
               長野県木曽地方事務所長  小池 茂見

 日中平和友好条約25周年という記念すべき年に、中国大使館郭寧先生のご臨席の下に、木曽谷殉難中国人慰霊祭が挙行されるに当たり、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
 殉難者の皆様は、先の大戦中に住み慣れた故郷を遠く離れ、発電所建設に徴用されたのでありますが、戦時中という誠に不幸な事態の中で、飢え、病気、不慮の事故等により多数の尊い命が失われたものであります。ここに心からご冥福をお祈りいたします。
 本日、このゆかりの地に建立されております「在木曽谷殉難中国烈士永垂不朽」の碑の前におきまして、多数の関係者が集い、慰霊祭が営まれますことは、誠に意義深いものでありあます。
 戦後我が国は、平和を国是として国際平和の構築に努めてまいりました。
 とりわけ一衣帯水の隣国であります中国とは、昭和47年の日中国交正常化以来、緊密な関係を図ってまいりました。 
 本年は、日中平和条約25周年でございまして、条約締結から早4半世紀が経過したわけでございます。その間、様々な分野で中国との交流を進めております。
 私達は、いま改めて殉難者の皆様に思いをいたし、その尊い教訓を深く胸に刻み、不幸な歴史を二度と繰り返すことのないよう、より一層、日中両国の平和友好に努力していくことをここにお誓いするものであります。
 終わりに、遠く異郷の地に眠る殉難中国烈士の御霊の安からんことをお祈り申し上げまして追悼の言葉といたします。(平成15年9月27日)


           
<経過報告>
                   長野県日中友好協会事務局長
                         布施 正幸

 本日は、関係各位150名のご参列のもと、慰霊碑の前において厳粛に慰霊法要が営まれましたことに事務局の一員として感謝申し上げます。
 本年は、碑建立20周年にあたり、格別に意義深い慰霊祭であります。2月に三岳・王滝・上松・楢川・木祖・開田・木曽仏教会・勤労動員の旧制中学代表・県日中友好協会によって実行委員会の会議を開催以来準備が進められてまいりましたが、地元三岳村下野戸村長さんはじめ皆さまには大変なご尽力をいただきました。心より御礼申し上げます。
 20年前の慰霊碑建立の経緯について私たちは、あらためてその精神を思い起し、先輩諸兄の平和への思いを私たち自身の思いとして受け継いでいかねばならないと思います。
 いまは亡き羽生田源三先生は、建立記念誌「霊泉の流れは永遠に」の巻頭あいさつの中で次のように述べておられます。引用が長くなりますが紹介させていただきます。
「去んぬる太平洋戦争の末期、軍需用の電力を確保せんとして、木曽川、王滝川で三岳並びに上松の発電工事が進められ、その際、軍は河北省を始めとした中国人捕虜2,014名を、あたかも囚人の如く強引に連行して、右発電工事の現場に投入したのでありますが、この内、実に182名が、厳しい労働、粗食、加えるに極寒、酷暑に耐えかねて、不幸異国の地に至りて死を遂げられたのであります。誠に以って言語に絶する非道なことをしたものであります。幸い、良識ある長野県始め、日中友好協会、仏教会、地元町村は戦後逸早く生き残った人々を本国に送還し、また犠牲者の遺骨を収集し、慰霊祭が行われ、また慰霊観音像が仏教会の手で上松の臨川寺に建立されました。日中国交回復の際は、地元日中友好協会、仏教会、町村の手で御岳発電所近くに供養柱がたてられ、慰霊法要もおこなわれております。しかしながら、慰霊碑の建立にはいたりませんでした。当時中国人と一緒に動員されて工事現場で働かされた、旧制長野中学の同窓生の有志は、これはなんとかしなければ、できたら早く慰霊碑をと言い出したのが抑の始まりで、時偶々、本年は日中平和友好条約締結五周年の年でもあり、また長野県多年の懸案である河北省との友好県省締結を行おうとしている年でもあり、旁がた運動は急速に発展して、一気に挙県的木曽谷中国殉難者慰霊碑建立の実行委員会の設立となり、このように見事な碑の建立をみるに至った次第であります。
 国また県のこの記念すべき年に、期せずしてこのような立派な慰霊碑が建立されたことは、誠に偶然とは言え、我々日中友好運動に携わっている者としては勿論、我長野県にとって、天、我に幸いしてとでも申しましょうか、実に良き秋に、大事な仕事を解決したものだとつくづく感激いたしておる次第であります。」
 1983年11月8日にあのような立派な慰霊碑が建立され、1993年の建立10周年には、殉難者の墓碑と案内板が設置されました。また、1984年11月には河北省友好協会代表団の甄三禄(しんさんろく)会長もこの地を訪れ記念の植樹をされたことがあります。先生は目に涙をいっぱいためお参りされておられました。先生は平和の大切さを強調され、碑の建立にたずさわった人々への心からの感謝を述べておられました。
 慰霊碑のまわりは清楚な厳粛な美がおおっております。これは建立以来20年の長きにわたり、慰霊碑とその周囲の美化に努めてこられた三岳村老人クラブの皆さまのまごころのこもったご配慮のたまものであります。
 私たちは、この慰霊碑を建立し、これをお守りし記念するとりくみを通じて、日中間に存在していた負の遺産をプラスの友好の力に変えていくことができました。今後とも、河北省をはじめとした中国との平和と友好に努めることを亡くなられた諸霊に誓い、経過の報告とさせていただきます。


<資料>

<中国人の犠牲思い不戦誓う>(03.9.30信濃毎日新聞建設標)
                      小林 弘業 75(会社役員)
 あのいまわしい太平洋戦争の末期、昭和19年夏から年末まで、国策の電力確保のため、15歳から16歳の県内の旧制中等学校生が木曽谷の発電所建設に動員されました。川原のバラックに宿泊し、建設資材の砂や小石をトロッコで運ぶ毎日、食事は玄米に塩味の菜っ葉汁でした。 
 これに対し、中国河北省などから強制連行された中国人の皆さん二千余名の食事は、小麦をひく時に出る皮のくずであるふすまに食塩だけ。中国人の中には、この食材で「まんとう」を作り、学生にプレゼントしてくれた人もいました。
 劣悪な生活環境の下で、しかも、危険な場所での過酷な重労働に従事し、182人の中国人が無念の死を遂げられました。
 9月27日、木曽郡三岳村では日中平和友好条約25周年を記念し、殉難中国人慰霊祭が開催されました。私は旧制中等学校同窓会代表として、ごめい福を祈りました。
 昨今、人命が軽視され、治安が乱れています。また、食料が無駄にされる時代でもあります。約60年前を思い起し、現在の平和のありがたさを身に染みて実感し、末永い平和と不戦を心から願望しています。


<強制連行訴訟 心痛めた境遇> (98.11・15信濃毎日新聞建設標)
                       荒井芳雄 70(無職)

 第二次大戦末期、県内に強制連行され労働を強いられたとする中国人の、強制連行損害賠償請求訴訟の記事を読み、当時の思い出が強烈によみがえった。
 昭和19年10月、日本の敗戦色濃厚となる中、私たち旧制中学4年生徒も、勤労動員により木曽上松発電所の建設工事に従事して苦闘した。 
 食料は乏しく、大豆入りご飯、蒸しパンなどで、ノミやシラミ、皮膚病に悩まされながら、工事材料の運搬、ウインチ操作、危険なダイナマイト木箱の運搬などの重労働をこなしていた。中国人捕虜、朝鮮人労働者も、食料不足には同様に困っていた。
 このような状況下であったが、いつしか中国人とは休みのひとときに交流が始まり、中国語や歌を教わった。今でもその歌を口ずさむことができるほどである。当時、私は中国の指揮官の人格に心打たれ、中国民族の偉大さに感銘を受けたことを忘れない。
 私たちは三ヶ月ほどで彼らとも別れ、上松を去り、さらに軍需工場、兵役にと散ったが、中国人のその境遇には心痛めていた、平和な今日、多感な少年時代の一時期を過ごした上松でのことを思い、大変感慨深い。