万葉故地を訪ねて


太宰府

わが盛り また変若めやも ほとほとに 寧楽の京を 見ずかなりなむ(巻3 - 331番)
天ざかる 鄙に五年 住まひつつ 都の風習 忘らえにけり(巻5 - 880番)

「遠の朝廷」であった大宰府は、最初博多地方に置かれた。斉明天皇の7年(661年)百済救済のために新羅征討の軍を起こし、女帝自ら朝倉の広庭の宮まで進まれたが、その年に朝倉宮で亡くなられた。中大兄皇子の称制となった2年目(663年)、日本軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、百済の滅亡とともに日本は朝鮮半島での勢力を失った。国防上の危機に直面し、太宰府は博多から内陸に後退した。太宰府址は、西鉄都府楼前駅から東に1qほどのところにある。
神亀4、5年(726年頃)から天平2年まで、太宰帥として大伴旅人が赴任し、ほゞ同時期に筑前国守であった山上憶良等とともに、筑紫歌壇を形成するに至り、歌壇は大和から筑紫に移った感さえあった。しかし、やはり鄙にあっては都が恋しく、記述した歌にもその思いが込められている。


写真:都府楼跡の礎石(昭和46年3月8日撮影)

私が都府楼について記憶があるのは、高校時代の古文だか漢文の教科書に載っていた菅原道真の詩だけであった。その詩について調べてみたら、「不出門」と題する詩の一節に「都府楼はわずかに瓦色を看 観音寺はただ鐘声を聴く」というのがあった。学生時代に博多在住の友人を訪ね、都府楼跡を案内してもらったことがあったが、ただ礎石が並んでいるだけであった。

 
写真左:観世音寺の鐘楼(昭和46年3月8日撮影) 写真右:太宰府天満宮(昭和46年3月8日撮影)

西暦2019年平成天皇が退位され、元号が「令和」と改まった。その「令和」という元号の出典が万葉集ということで、俄か万葉集ブームが起こっているようだ。大伴旅人の官邸が何処にあったのか定かではないが、都府楼跡のすぐ北西にある坂本八幡宮ではないかとされている。以前は訪れる人もまばらな静かな社であったが、俄か万葉集ブームで大勢の人が押しかけているらしい。