
大学時代に仲が良かった友人たちと、「獅子の会」なる会を発足させたのは昭和から平成に年号が改まって間もない平成2年3月のことだった。以来33年という月日が流れ、毎年1回、各地の温泉場を旅しながら旧交を温めてきた。それが新型コロナウィルスというわけの分からない感染症のため、令和2年3年と連続で開催できずにいたが、令和4年ようやく3年ぶりでささやかながら顔を合わせることができた。これからまた毎年開催できると楽しみにしていた矢先、今度は会員各位に体調不良が続出し、30回目の記念開催も実現がままならない状況になってきた。思えば私も後期高齢者の仲間入りし、運転免許証の更新にも認知機能検査が義務付けられるようになってしまった。病院で検査をすれば、悪い所のオンパレード。異常値であっても前回と大きな変化が無ければ異常値ではないというおかしな理屈で納得している。気温だって35℃や36℃は今や異常値ではないのだ。何種類も薬を飲みながら、何とかもう一度皆で旅行ができることを願ってやまない。
今年になって、「獅子の会」のグループLINEにヤノのバカを除いた6名が参加できるようになって、お互いの近況のやり取りができるようになったのがせめてもの慰めか。そんな中でときどき昔話が出るのだが、今年、昔旅した萩・津和野を旅行してこようかと計画している。そんなこともあって、学生時代の旅の思い出等を中心にちょっと綴ってみようかと思い立った。写真に残っている場面は記憶にも残っているのだが、写真と写真の合い間の記憶は曖昧である。その隙間は勝手な思い込みで埋めることになるのだが、合っているのかどうかは定かではない。記憶なんてものは所詮そんなものだろう。
そもそも、我々が初めて顔を合わせたのは昭和44年、大学に入学した年だった。当時は学生運動華やかなりしときで、大学はロックアウト状態で、入学式だけは厳戒態勢の中で行われたが、1学期はとうとう一度も授業ができない状況だった。そんな中、クラスの有志の呼びかけで自主的に勉強会を開いたりしていて、初めてのクラスコンパがキャンパスに近い御茶ノ水で開かれた。そのときにたまたま近くに座ったのが現在の「獅子の会」の会員である。思えば、以来54年よくもこんな連中と付き合ってきたものだと、お互いにそう思っているに違いない。
こんな写真が残っていた。何ていうこともない写真なのだが、普段キャンパスで見たこともなかったとっつぁんが写っているのが不思議な気がする。
(令和5年記載)
一度も授業が行われないまま1学期は終了し夏休みに入ってしまった。その夏休み中に、駒ヶ根のユースホステルで合宿をやろうということになって、クラスの大多数が参加した。ところが当時の写真を見たら哲ちゃんは参加していなかったようだ。どうせ哲ちゃんのことだから、何処かほっつき歩いていたに違いない。当時の貧乏学生の移動手段と言えば夜行列車である。新宿駅に集合して多分松本行の夜行列車に乗車したのだろう。翌朝茅野駅で下車し、バスで白樺湖に行った。白樺湖から車山登山。
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写真左は白樺湖、写真右は車山山頂
車山から何処に下山したのかは記憶はないが、バスで茅野駅に戻ったのだと思う。
駒ヶ根ユースホステルは池の畔にあった。2日目には近くの河原までハイキング。最終3日目には空木岳の登山道を中腹まで登ったりした。当時の乏しい知識では「空木岳(うつぎだけ)」が読めずに、「からきだけ」じゃねえかとか「そらきだけ」だろうとか勝手なことを言い合っていたように思う。[後日談]
平成23年、木曽駒ヶ岳登山後、あのときのユースホステルはどうなっているのだろうかと探し求めてみたことがあった。ようやく訪ねあててみたのは、大沼湖という池の畔にある建物だった。当時記念写真を撮った玄関前の雰囲気が残っていた。このときもちろん写真を撮ってきたのだが、残念ながら保存しておいたHDDが故障して取り出せなくなってしまっている。
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写真左は当時の駒ヶ根ユースホステル、写真右は平成23年に撮影した大沼湖
途中で私は長野に帰り、参加者の何人かは山梨の丹ちゃんの実家に立ち寄っていったらしい。
大学1年時の授業が終わり春休みに入った頃、スキーはやったことがないという丹ちゃん、とっつぁん、ヤノのバカの4人で野沢温泉スキー場に行ったことがあった。予定ではチューも一緒に行くはずだったのだが、直前に住宅火災に遭ってスキーどころではなくなってしまった。上野駅での写真を見ると、乗車したのは当時運行されていた急行「信州号」だった。
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写真の日付等から野沢温泉の「中野屋」という民宿に4泊していることが分かる。当時の宿泊料金は1,000円/1泊もしていなかったのではないだろうか?スキーは二の次で、雪が降っているとか寒いとか言いながら一日中宿で麻雀をしていて、宿の女将を呆れさせた。丹ちゃんはゼミのレポートが間に合わないと言って、宿に籠りきりでレポートの作成に精を出していた。夜は近くの外湯に入浴に行っていたが、丹ちゃんはそこで時計を置き忘れた。あの時計は結局紛失ということになってしまったのだろうか?
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野沢温泉から戻った翌日、善光寺に参拝してから3人は帰途に就いた。
写真は当時の長野駅。仏閣型の駅舎だった。
大学2年になった4月、伊豆大島の三原山に登ろうということになった。何で三原山だったのか、その辺の事情は記憶に無い。大島から下田に渡って、テントを担いで伊豆半島を巡ろうという計画だった。メンバーは丹ちゃん、チュー、フナキと私の4人だった。当時、竹芝桟橋から「カトレア丸」という夜行の渡船が出ていた。夕方から私の中野の下宿に集合し、飯を炊いて塩だけのおむすびを作った。何故かヤノのバカも手伝いに来てくれた。
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写真は「カトレア丸」船内。若い頃から禿げていたわけではないことは分かり切ってはいるが、丹ちゃんにこんなに髪の毛があったなんて、何となく不思議だ。
未明に伊豆大島元町港到着。地図も何も用意していなかったのだから、おそらく港にあった観光地図でも見ながら歩き始めたのだろうか?当時ファンタオレンジの自販機ができたばかりで、そんなものを飲みながら歩いていく。当然のことながらガラス瓶だった。途中にゲートがあって、そこから先は有料だったが、いくらだったのかは覚えていない。有料の歩道なんて初めてだと思ったが、あれは入山料だったのだろうか?
「火口茶屋」という土産物店兼食堂で、用意してきた塩むすびを食べた。茶屋を出る頃から雨と霧が酷くなってきて、火口付近では視界はほゞゼロ。隣にいるはずの友人の姿さえ確認しづらくなってきていた。
しばらく佇んでいると、霧の中から蹄の音がしてくる。いきなり観光客用の馬を引いた馬子が姿を現わす。間伏への道を尋ねると、馬の足跡をたどって行けばいいと教えてくれる。その足跡もすぐに見失ってしまったが、島なんだから下って行けば海に出るだろうと、そんな簡単な気持ちでドンドン下っていく。霧の中で野グソをしたり、風で飛ばされた帽子を追いかけたりしながら、どのくらい下ったのだろうか、地層切断面を通過し、ようやく海縁を走る自動車道に出た。バス停を見つけると、間伏という名前が記してあったので、目指したところと大差ないところに下れたようだった。
写真は間伏付近の地層切断面。
バスで波浮港に向かう。同級生の下平は確か波浮の出身だと思ったので、昼食を採った食堂で訊いてみたら、この辺には下平姓は多く、こちらでは「シモヒラ」と読むことが多いのだとか。
波浮港からバスで、下田に渡る船に乗るため岡田港に向かう。疲れたのか岡田港に着くまで車中で熟睡。岡田港に着いたときには土砂降りの雨。下田行の舟は大揺れで、タフが取り柄の丹ちゃんですら顔色無し。下田もやはり土砂降り。テントを張る場所があるはずもなく、お寺にでも頼んで泊めてもらおうかと2ヶ所ばかり頼んでみたが、当然のことながら断られる。大人の常識では断られるのは当然なのだろうが、学生時代は甘えがあって、お寺に頼めば当然のように泊めてもらえるものだと思い込んでいた。途方に暮れた挙句、下田から伊東に移動して、チューの親父さんの官舎に転がり込むことになった。
翌日、伊豆半島旅行は取りやめて、伊東駅前の雀荘で麻雀に興じてから帰京。麻雀はまだ覚えたてで、とっつぁんがいないときは点数も正確には計算できなかった。
大学2年の夏休み、哲ちゃんとチューと3人で能登半島を旅行した。当時、信越本線、北陸本線経由で金沢や福井まで行く「能登」とか「越前」という夜行列車が走っていた。私は長野から乗車して、車内で哲ちゃんとチューと合流した。これからどうやって能登半島に入ったかははっきりとは覚えていないのだが、計画時に使用したガイドブックが残っていて、それによると津幡駅から船で福浦港に渡ったようだ。そこから能登金剛方面への移動に関してははっきりした記憶はないのだが、バスだったか船だったか?テントを張ったのは、後年近くを通ったときにキャンプ場があったので、多分関野鼻海岸のキャンプ場だったのだろうと思う。関野鼻海岸は「ゼロの焦点」の舞台となった「ヤセの断崖」の近くだった。
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翌朝、歩いてバス通りに出る。剣地というバス停の前の売店で顔を洗わせてもらっていたら、店のおじさんだったかおばさんだったか、これを持って行きなとトマトをくれた。何処でバスを降りたのかも思い出せないが、ここから山を越えて猿山岬に向かう。時間もどのくらいかかったのか定かではないが、とにかく猿山岬にたどり着いた。売店でもらってきたトマトがとても美味かった。
このときの灯台をもう一度見たいと思っていたのだが、平成30年に獅子の会が能登半島で開催されたのを機に、当時一緒に旅した哲ちゃんと、丹ちゃんを加えた3人で猿山灯台を探し求めた。皆月海岸から、当時歩いたのであろう道をたどって灯台近くにあった駐車場へ。ここから道を間違えて山道を1時間近くもさまよった挙句、ようやく灯台にたどり着く。灯台の周囲には立ち入りができないように柵がしてあったが、写真を撮るために柵を乗り越えて侵入。ただ、何となく当時とはイメージが重ならなかった。後で写真を比較してみたら、灯台そのものが当時とは変わってしまっていた。
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写真左は当時の猿山灯台。写真右は平成30年に撮った猿山灯台。灯台自体が変わってしまっていては、当時の雰囲気を思い起こすことができなかったのも無理はない。
猿山岬から、炎天下を海岸線沿いにひたすら歩く。ようやく皆月海岸に到着し、港にあった小さな旅館に泊まることにした。3日目、輪島行のバスに乗車。途中下車して門前の總持寺別院を見学。
その後輪島でバスを乗り換えて、今夜テントを張る予定の曽々木海岸に向かう。
写真は、バスを降りる前に撮った曽々木海岸。当時は車が入れたり、テントを張るスペースも十分あったのだが、その後何度かこの付近を通過したが、海岸線がかなり後退していてこんなスペースは無くなっていた。
悲劇はこの夜に起こった。夜降り始めた雨は、金沢でも床下浸水が発生するというほどの大雨になり、テントも次第に浸水。一睡もできないどころか、横にもなれない有り様。哲ちゃんが指で水深を測ると、第一関節の上辺りまできている。
夜も明けきらないうちにテントを撤収。雨はもう止んできていたので、近くの「垂水の滝」で写真だけ撮る。
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写真は「垂水の滝」。右の写真は平成30年当時の「垂水の滝」
残っている写真は、「垂水の滝」の後は「禄剛崎灯台」である。移動手段はバスしかないはずだが…。濡れたテントをキスリングに括り付けて、かなりバテている様子の写真があるが、平成30年に「禄剛崎灯台」を訪れてその理由が理解できた。駐車場から灯台までかなり急勾配の坂道が続いていたのだ。
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写真は「禄剛崎灯台」。右は平成30年当時の「禄剛崎灯台」
この日は国鉄穴水駅前の小さな旅館だった。写真も何も残ってはいないのだが、穴水駅前で泊まったことは覚えている。前夜一睡もできなかったので、かなり疲れていたのだろう。但し、その穴水駅までの移動に関しては記憶が曖昧である。何処かのバス停の場面がちょっと頭に浮かぶのだが…。
5日目、国鉄で金沢へ。金沢城(当時は金沢大学のキャンパスがあった)、兼六園を観光した後、富山から高山線で飛騨高山へ。高山では民宿を予約してあって、ここで2連泊した。
旅行6日目、高山からバスで乗鞍岳へ。乗鞍岳で初めて雷鳥を見つけ、ちょっと興奮した。
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7日目、高山市街観光。上三之町の「山車」という造り酒屋で、チューと哲ちゃんは、丹ちゃん宅への土産を購入。
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8日目、高山から美濃加茂経由で中央線に出て、最後の観光地となった「恵那峡」へ。ここでボートに乗った。
この後、チューと哲ちゃんは丹ちゃん宅に向かい、私は長野に戻った。
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紅葉を見に行こうということになった。何で安達太良山だったのか理由ははっきりしない。日曜夜行列車に乗ったのだが、テレビの日曜洋画劇場で「昼下がりの情事」を放映することになっていて、それが見られないのが残念だった。つまらないことを覚えているものだと、我ながら感心する。参加者は哲ちゃんとヤノのバカと私の3人だった。哲ちゃんが野地温泉に宿泊予約をしてくれてあった。
翌早朝、二本松駅に着いたときにはかなり強い雨が降っていた。訊けばもう3日も降り続いているとのことだった。バスの路線は何本かあったのだが、とにかく一番早く出るバスに乗ろうということになった。
私は長い間、このときのルートが分からずにいたのだが、あるとき山岳地図でルートを確認してみた。記憶にあるのは渓谷沿いの登山道だったこと。途中立ち寄った山小屋の真新しい木の階段。風雨の中で見た白木の標柱。野地温泉に下山したことくらいだった。この断片的な記憶に合致するルートは、塩沢温泉から湯川渓谷沿いに登って「くろがね小屋」に至り、そこから尾根に出て「鉄山」「箕輪山」「鬼面山」を越えて野地温泉に至るというルートだった。
バスを降りたのは塩沢温泉だったのだろう。ポンチョを被り歩き始める。バス道路から登山道に入り、湯川渓谷沿いに登っていく。ところどころに滝への案内板もあったのだが、この雨の中を滝まで下りていく気にはならなかった。3日間も雨に洗われた紅葉は間違いなく綺麗だった。雨のためカメラを取り出す余裕もなく、この登山の写真は1枚も無い。写真を撮ったとしても、カメラに入っていたのはモノクロフィルムだったのだから、紅葉の美しさは撮れてはいなかったはずだ。写真が残っていないからそう思うのかもしれないが、私はこのときの紅葉が一番美しかったと今でも思っているのだ。
登山コースも何も検討したこともなく、地図も持たず、とにかく登山道にある案内板だけが頼りだった。思いがけず現れた山小屋に、救われたような思いで中に入ってみると、目の前に真新しい木の階段があって、この階段が長い間私の記憶の片隅にあった。[後日談]
秘湯ブームが沸き起こった頃、温泉に入れる山小屋として「くろがね小屋」が紹介されたとき、私の脳裏にあのときの真新しい木の階段が蘇った。そのときから、何時か機会があったらまたあのときのコースを歩いてみたいと思うようになった。
そんな機会が訪れたのは平成22年、獅子の会が裏磐梯で開催されることになったときだった。薬のおかげで何とか生命を長らえているヤノのバカはさておき、当時一緒に登った哲ちゃんに話を持ちかけたところ、一も二もなく賛同を得た。
思い出の中にあった木の階段
「くろがね小屋」を出ると、風雨はますます強くなってきていた。おまけにガスも濃くなって視界も悪くなってきた。心細くなって、皆口数も少なくなっていたのだが、小高い所に一本の道標らしいものがぼんやりと見えて、「あそこまで行けば先が見えるかもしれない」という、哲ちゃんの何の根拠もない言葉に励まされて、とにかくその道標まで登った。古びた白い道標に何と書いてあったのか、まったく記憶にもないのだが、多分「鉄山」とか書いてあったのかもしれない。
降り続く雨の中をどのくらい歩いたのだろうか、薄暗くなりかけた頃、かすかに車の音が聞こえるようになって、いきなりホテルの前に下り立った。何とかたどり着いたから良かったものの、今思うと、あれは間違いなく遭難の一歩手前だった。
フロントでチェックインしようと思ったら、予約は受けていないと言われてしまった。それでも部屋は空いていると言うことで、とにかく泊まることはできた。冷えた体を温めようと早速大浴場に向かった。長い廊下の先に混浴の大浴場があった。混浴とはいっても入っているのはおじいちゃんおばあちゃんばかりだった。[後日談]
平成22年に哲ちゃんと再訪したときは、「くろがね小屋」から一旦下山して、車で「野地温泉ホテル」に向かった。ホテルのすぐ前に、鬼面山への登山口があったので、おそらくここに下山してきたのだろう。
部屋に案内してくれたおねえさんに、「昔ここへ来たことがあるんですよ」と話したところ、「随分変わったでしょう」って、あんたその頃のことは知らねえだろうが…。
大浴場に続く長い廊下には、何となく見覚えがあった。当時混浴だった大浴場は、「千寿の湯」という時間制で男女別浴になっていた。
翌朝、ホテル前から五色沼方面に向かうバスに乗った。すぐに「新野地温泉」という看板が目についた。哲ちゃんが予約したっていうのはこっちだったんじゃないかな?五色沼を散策した後、会津若松市内に戻り、鶴ヶ城を見学。
五色沼
鶴ヶ城
会津若松駅前で、東京に戻る列車を待つ間、おでんで一杯やりたいなということになったのだが、当時の若松駅前は繁華街から外れていて、そういう店が見当たらなかった。「交番で聞いてみろ」と哲ちゃんにそそのかされて、駅前の交番を覗いた。「この辺におでん屋さんはありませんか?」と聞くと、「私はあんまりそういうものを食べないもんで…」と言われてしまった。
会津若松から郡山に出て、夜行列車で東京に戻った。獅子の会メンバーの中でも、ヤノのバカとは結構つるんで遊び歩いたものだ。
私が初めてヤノの実家を訪れたのは、大学2年から3年に上がる前の春休みだった。休みに入る前に、「遊びに来いよ」、「ああ行く行く」とは言ったものの、確かな約束をしたわけではなかった。
昭和36年3月、フラッと旅に出た。九州に渡って、途中でヤノに連絡を取って、いなければいないでいいやと言うくらい気楽なものだった。大坂から夜行の船で別府に渡った。当時はまだ温泉にこだわっていたわけではなかったので、折角別府に渡りながら、温泉に入浴することもなかった。以来、別府には一度も行ったことがない。
別府から山並みハイウェイを通って熊本に向かう観光バスに乗った。バスは途中阿蘇にも立ち寄り、噴煙を上げる中岳の火口縁にも立った。熊本ではどの辺の旅館に泊まったのかまったく記憶がない。宿からヤノに、「明日そっちへ行くがいいか」と電話する。家族にしてみればさぞ迷惑だったことだろうと、今になればそう思うのだが…。
翌日、熊本城と水前寺公園を見学してから、列車で博多駅に向かう。ヤノと妹が博多駅まで迎えに来てくれた。ヤノの実家に転がり込んで、翌日太宰府方面を案内してもらった。
まず案内してくれたのは「太宰府政庁跡(都府楼跡)」だった。ヤノは性格的にバカのくせに、意外に博識のところがある。都府楼には私にも思い出があって、高校の古文の教科書に、「菅原道真」の「不出門」という漢詩が載っていて、「都府楼はわずかに瓦の色を看、観音寺は只鐘の声を聴く」という一節だけが、何故か記憶にあったのである。「都府楼跡」から「観音寺」にも立ち寄って、日本最古と言われる梵鐘も見学した。
都府楼跡
観音寺の梵鐘
最後に「太宰府天満宮」に参詣してからヤノ宅に戻る。
翌々日、今度は唐津方面に案内してもらった。
国鉄筑肥線で、唐津手前の虹ノ松原駅で下車。「虹ノ松原」を歩いて、唐津湾越しに「唐津城」を遠望。
ここから「名護屋城跡」と「呼子」にも行ったのだが、どうやって行ったのか、どちらが先だったのか、「呼子」での写真が残っていないのではっきりしない。
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名護屋城跡
当時一緒に暮らしていた親戚のおじいちゃんが倒れたという連絡をもらって、慌ただしくヤノ宅を辞去したのだが、こんなことがなかったら、まだどのくらいヤノ宅に居候していたのか分からない。
[後日談]
私はこのとき案内してもらった「都府楼跡」や「名護屋城跡」、「呼子」をぜひもう一度訪れてみたいとずっと思っていた。
平成6年11月、その思いを実現させるべく佐賀旅行を計画した。福岡空港でレンタカーを借りて、まず向かったのは「都府楼跡」だった。当時はただ叢の中に礎石だけが載っていたと言う感じだったが、公園としてかなり整備されていた。ついでに「令和」の年号の元になったと言う万葉集の梅花の宴が営まれた「坂本八幡社」に立ち寄ってから、「観音寺」に行った。
旅行二日目に「虹ノ松原」を通って唐津に向かった。当時遠望した「唐津城」を今回は間近に見ることができた。
昭和46年撮影
令和6年撮影
「名護屋城跡」も、当時は何もなかったが、名護屋城博物館ができていた。
波戸岬で宿泊して、三日目に「呼子」に行った。
令和6年撮影の呼子港
大学3年の夏休み、ヤノと四国の「石鎚山」に登る計画を立てて、伊予西条駅で待ち合わせをしていた。台風が近づいていて、天候を気にしながら待っていると、ヤノが手ぶらで現れた。親父さんも一緒だ。台風が心配だから、「石鎚山」登山は中止して博多に遊びに来いと説得されて、一緒にまたヤノの実家に転がり込むことになった。
丹ちゃんも呼ぼうということになって、山梨の丹ちゃんの実家に電話してみる。桃の収穫に忙しい時季だったらしいが、両親の許可をもらって来るとのこと。博多駅に出迎えに行くと、急行を乗り継いできた丹ちゃんは、流石に疲れ切った様子で下りてきた。サンダル履きはいつものこと。平戸、長崎、島原方面を回ろうということになって、国鉄筑肥線に乗る。4人掛けのボックス席に、たった一人座ってしまったおばちゃんは気の毒だった。3人のバカ話に付き合わされたのだから…。ごちそうになったガムの残りを、「これもらっていいですか?」と言い放つヤノ。この非常識さが好きだ。
平戸口という駅で降りて、船で平戸に渡ったような気がしているのだが、この記憶には自信がない。
まず、「平戸ザビエル記念教会」に行く。
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その後、近くの海水浴場で海水浴。後で調べてみたら、千里ヶ浜という海水浴場だったらしい。かなり遠浅の海水浴場で、かなりの沖合まで続いていた。
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海水浴場から高台に上がったところにキャンプ場があって、今日はここで泊まろうということで、歩いてこのキャンプ場を目指した。
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キャンプ場でバンガローを1棟借りる。近くに何だか分からなかったけれど、石碑があった。
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後日、この写真を手掛かりにいろいろ調べてみた。キャンプ場があったのは「川内峠(かわちとうげ)」という景勝地で、石碑は歌人・吉井勇の歌碑で、「山きよく海うるわしとたたえつつ 旅人われや平戸よく見む」と刻んであったらしい。
翌日、平戸の港まで戻って、船で長崎に向かう。九十九島を巡って、佐世保行の船で長崎で下船したような気がしている。この日、佐世保で藤圭子と前川清の結婚式があったのではなかったか?九十九島も、「つくもじま」ではなくて「くじゅうくしま」というのだというのもこのときに知った。
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長崎で手配した宿は、丸山遊郭の跡じゃないかなと思われるところで、窓を開けてみると、すぐ隣の建屋の窓があって、一目でそれと思しきお姐さんたちが顔を出して嬌声を上げていた。まだ初心だった学生時代のことで、慌てて窓を閉めた。
オランダ坂やグラバー邸等、市街観光に出かけた。大浦天主堂は閉館時間になってしまって、門の前で写真だけ撮った。
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夜は宿の近くでスマートボールに興じて、あまり夢中になりすぎて、宿の門限ギリギリに走って帰った。
翌日は出島や外人墓地を見て歩いてから、バスで島原に向かう。
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島原での宿泊は、ヤノの親父さんの紹介で、親戚だったのか知人だったのか、ヤノも初めて訪れる家だと言うことだった。いくら学生時代のこととは言え、よくも図々しく見知らぬ家に泊めてもらったものだ。
夕方近くに散歩に出ると、田んぼの畦道に隠れ切支丹の墓があったり、遠く原城が見えたりしていた。翌日ヤノ宅に帰る。
大学3年の秋、ヤノが長野に遊びに来たことがあった。夏休みでも何でもない時季に、何で来たのだろうかと思うのだが思い出せない。
志賀高原に遊んで、草津白根山から万座温泉を通って、万山望まで歩いた。とにかくあの頃はよく歩いた。一緒に上京するついでに木曽路を歩こうと言うことになった。
当時の長野駅前
松本城を見学してから、日出塩駅近くの「是より南木曽路」の碑を見に行った。碑は国道19号線と奈良井川(北上して犀川になる)に挟まれた場所に建っていた。ここから国道を走る車に気を遣いながら贄川駅まで歩く。
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「是より南木曽路の碑」
贄川から奈良井までは列車で行くことにして、贄川関所跡を見学したりして時間調整。
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贄川関所跡
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贄川駅
贄川駅から列車で奈良井駅に行く。奈良井宿は、現在でこそ宿場の復元が成って、大勢の観光客で賑わっているが、当時の奈良井宿は観光客の姿はほとんど見当たらない寂れた宿場町だった。
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奈良井宿
奈良井宿から、中山道の難所の一つでもある鳥居峠の登りにかかる。山また山の峠道を革靴で登っていくのだから大変だ。どくくらい歩いたものか記憶も定かではないが、何とか鳥居峠にたどり着く。鳥居峠は日本海と太平洋の分水嶺にもなっていて、北上すれば奈良井川から犀川と名前を変えて、千曲川と合流して信濃川となる。南下すれば木曽川である。
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鳥居峠
鳥居峠を下って藪原駅に向かう途中で雨になった。
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藪原駅
藪原駅からまた列車に乗って木曽福島駅へ。駅前の観光案内所で今日の宿を紹介してもらってから「寝覚ノ床」に向かう。
「寝覚ノ床」
「寝覚ノ床」から、紹介された宿に向かうため上松駅へ。駅前に宿屋があって、部屋も空いていると言うので、紹介された宿に向かうのも面倒になって、ここで泊まることにした。紹介してもらった宿は無断キャンセルで、今になって思うと若気の至りでは済まないことで、大変ご迷惑をかけたと反省している。
翌日、上松駅から列車で南木曽駅まで行き、歩いて妻籠宿に向かった。
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妻籠宿
妻籠宿を観光してから馬籠宿に向かう。島崎藤村の故郷である馬籠は、越県合併によって岐阜県中津川市になってしまったが、やはり木曽路は信州であってほしい。途中、吉川英治の「宮本武蔵」に登場する「雄滝・雌滝」を通過し、馬籠峠を越えて馬籠宿に至る。
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雄滝
馬籠峠
馬籠では藤村記念館を見学してから、岐阜県境を越える。
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藤村記念館
「是より北木曽路の碑」
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岐阜県境石畳の道
しばらく歩いて、水を満々と湛えた木曽川縁の落合川駅にたどり着く。ここから列車に乗り名古屋に向かう。
名古屋からは東名高速バスで上京するつもりだった。ちょっと遅くなるのを覚悟すれば、その日のうちに上京できたのだが、東名高速バスは昼間乗った方が綺麗かもしれないと、もう一晩名古屋で泊まって、翌日上京した。ヤノと天城峠を歩いたことがあった。伊豆とか天城峠とか言うと、何処となく文学の香り高い感じがする。川端文学なんてあまり読んだこともなかった私の本棚にも、やっぱり「伊豆の踊子」の文庫本が鎮座していた。そんな天城峠を旅しても何の疑問もないのだが、その同行者が何故ヤノだったのか、その疑問は今でも消えていない。
当時はネットで何かを調べるなんていうこともなかったし、宿の予約もなかなか大変だった。中野ブロードウェイの2階だったか3階だったかに旅行代理店があって、そこで大沢温泉の民宿を手配した。どうやって伊豆までいったのか、その道中の記憶はまったくない。最初の写真は石廊崎の海を見下ろす場所でのものである。石廊崎ではかなり風が強かったことは覚えている。
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石廊崎から裏石廊と呼ばれる場所を通って、小さな神社の横の石段を登った。そこは仲木、入間という地域で、昭和49年5月に発生した伊豆半島沖地震で、あのとき歩いた仲木、入間といった集落が壊滅的な被害を被った。あのときの石段も崩れてしまったのだろうなと思うと胸が痛んだ。
千畳敷という景勝地を見学してから、何処かのバス停からバスで大沢温泉に向かったのだが、直接行けたのか、何処かで乗り換えたのかも覚えていない。大沢温泉口でバスを降りて、予約してあった民宿に向かった。何と言う民宿だったのかも覚えていない。夕食後、宿の女将に勧められて、集落の外れにある露天風呂に入浴に行った。川を渡ったところに粗末な湯小屋が建っていた。温泉は露天風呂だけだったが、誰もいない風呂にゆっくり浸かったものだった。[後日談]
温泉が大好きになって、いろんな温泉の写真なんかを見ているうちに、かすかに記憶に残っていた川を渡る橋の写真を見出した。調べてみるとここは「大沢荘山の家」という露天風呂だった。この温泉、一時期混浴だったこともあるらしかった。ヤノと行ったときは竹の塀で仕切られていたが…。
そんなこともあって、もう一度この温泉を訪れたいと思っていたので、獅子の会が伊豆・土肥温泉で開催された平成25年に、哲ちゃんと伊豆を回ろうという話になって、大沢温泉の民宿に予約の電話を入れた。電話に出たおばあちゃんが、「まだ先の話しなので、間近になったらまた電話をください」と言う。その後丹ちゃんも加わって3人で旅行することになったので、結局大沢温泉に泊まることはなかった。伊豆旅行の初日、食事中にスマホに電話がかかってきて、あのおばあちゃんが、「明日はお見えになりますか?」だって。正式に予約したわけじゃないのでキャンセルも必要ないと思っていた。それにしても、確認するんならもっと早く電話寄越せよ。「明日来ますか?」ってこたあねえだろ。翌日、またあの露天風呂の脇を通って、池代という集落から山道に入る。長九郎山という山に登る登山道だったらしい。
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長九郎山への登山道
どのくらい登ったものか、長九郎山山頂との三叉路に至る。確か山頂まで30分と書いてあったような気がするのだが、先を急いでいたので、山頂には寄らずに北上を続けた。何処かで何かの工事をしているのか、ドカーンという発破の音がしていて怖かった。
平成25年に再訪の計画をしたときに買った山岳地図には、この分岐から北上する道は無かった。諸坪峠からは、ほとんど高低差の無い山道をグルグルと巻いていく。すぐ目の前に見えるところに行くまでに30分も40分もかかってしまう。先を歩いていたヤノと同じところに足を置いたとき、その足場が崩れ、危うく崖下に落ちるところだった、ヤノの悪意を感じた。
滑沢峠を過ぎて、二本杉峠(旧天城峠)にたどり着いたときにはかなり疲れ切っていた。
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二本杉峠(旧天城峠)
ここから天城隧道に下るにはまだまだ時間がかかった。途中、自生のものか、栽培しているものか、山葵田を所々で見かけた。暮れなずんでいく空に富士山も浮かんでいた。
やっとの思いで天城隧道まで下る。
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天城隧道
ここからバス通りに下る途中、オレンジ色の東海バスがバス停を通過していくのが見え、すっかり暗くなって冷え込んできたバス停で1時間近くも待つことになった。
ここから多分修善寺に向かったのだと思うのだが、東京に帰り着くまでの記憶もない。学生時代最後の夏休み、またヤノのところに転がり込むことになった。今度はチューも一緒だ。まったくおとうさんおかあさんには迷惑をかけたものだと汗顔の至りである。
博多までどうやって行ったのか、記憶も定かではないのだが、名古屋駅から乗り込んだ列車の中で合流したような気もしている。ヤノ宅に転がり込んだ後、別行動で旅行していた哲ちゃんとシイノも、旅行途中にヤノのところに転がり込んできた。まったく酷い話だ。
ヤノのところでお世話になっていたある夜、おとうさんが中洲の料理屋でご馳走してくれた。座の手配だけしてくれて、後は自由にやりなさいと、同席はしなかった。ただ感謝である。食事後、酔った勢いでスト○○プを見に行った。入口で、学割は利くのか?と騒いだ記憶はあるが、実際に学割が利いたのかは覚えていない。ショーの途中で音楽が聞こえなくなり、ちょうどそのときかかっていた「高校三年生」を、手拍子を加えながら大合唱した。翌日の昼間、また中洲をブラブラしていたとき、前から来た女性の一団が、前夜の踊り子さんたちだったのにはびっくりした。それから哲ちゃんとシイノは、また旅行を続け、丹ちゃん、チュー、ヤノと4人で萩・津和野を巡ることになった。おとうさんが車(マークUだったか?)を借りてきてくれて、車で回ることになった。私は数日前に免許を取ったばかりで、もちろん運転させてもらえるはずもなく、ヤノは免許を持っていなかったし、丹ちゃんとチューが交替で運転していくことになったのだが、チューもまだ運転に成れておらず、チューの運転では生きた心地だしなかった。
関門トンネルを抜けて、秋吉台を通って萩に向かう。萩での宿は、橋本川の畔の宿だった。
秋吉台(?)
翌日、毛利家の菩提寺である東光寺に行く。立派な伽藍で、歴代藩主の廟には無数の燈籠が立ち並んで印象的だった。
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東光寺
[後日談]
令和5年に萩から津和野に旅行した。計画を立てるのに参考にしたガイドブックに東光寺が載っていなかった。毛利家の菩提寺であり立派なお寺だったのに、何で載っていないのだろうかと疑問に思っていたのだが、行ってみて理由が分かった。東光寺は無住の寺になっていて、拝観料も取られることはなかった。毛利家の菩提寺だというのになあ。
東光寺から松陰神社、松下村塾を見て、萩城址を見学。
萩城址
武家屋敷の周辺はただ車で走っただけ。
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武家屋敷
写真の順番からすると、萩で2泊したことになるのだが、記憶が曖昧である。
萩から津和野に向かう。山口県から島根県に入った途端、国道が狭く悪路になる。これも有力政治家を多数輩出しているかいないかの差だったのだろうか?
津和野では太鼓谷稲成にお詣り。太鼓谷稲成と言えば、麓から続く赤い鳥居が有名なのだが、当時はそんなことも知らぬまま車で上がった。その帰り、丹ちゃんが側溝にタイヤを落とした。幸い皆で持ち上げて事なきを得たのだが、私は指を擦りむいた。丹ちゃんにそのことを話しすると、「そんなことあったか?」と、まったく忘れているようだった。
その後、乙女峠マリア聖堂に行った。
令和5年の旅行時、どうしてもこのマリア聖堂に行きたくて何とか訪ねあてたが、駐車場から急な坂を登った。昔こんなところを歩いたのだったのか?
太鼓谷稲成
乙女峠マリア聖堂
津和野での宿は、津和野駅近くの宿だったと思う。チェックインしてから殿町通りを散策。掘割に鯉が泳いでいて、屋敷の内まで引き込んであった。
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殿町通り
翌日、三本松城址(津和野城址)に上がる。石垣の上に立ったところを下から撮ろうということになって、ジャンケンで負けたチューが撮影係りとなった。
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津和野城址(三本松城址)
津和野から山口を通って、再び関門トンネルを抜けてヤノ宅に戻る。
翌日、今度は熊本から阿蘇方面の旅行に行く。
水前寺公園
熊本城
水前寺公園、熊本城を観光してから阿蘇へ。雄大な外輪山を見てちょっと感激。
快調に飛ばしていた丹ちゃんが、「やっぱり、あそこが一番だな」と、車をUターンさせる。何事かと思ったら、道端で焼きトウモロコシを売っていたお店で、売り子のおねえちゃんが一番可愛いところに立ち寄り。
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阿蘇では「コスモス荘」という国民宿舎に泊まった。この「コスモス荘」、調べてみたら、「オーベルジュ・コスモス」という宿泊型レストランに変貌しているようだ。
翌日、太宰府天満宮に立ち寄ってからヤノ宅に戻る。
太宰府天満宮
旅行後も何日間かヤノ宅に居候させてもらって、遊ばせてもらった。
いよいよ別れの日が近づいてきた。大学の卒業式当日、卒業式も出ないで伊東のチューの親父さんの官舎に集まった。真面目(?)なフナキだけはちゃんと卒業式に出席したようだったが、残りの獅子の会メンバーに山田正志を加えた8名が参集した。私は学生時代最後に、四国へ墓参りに行って、その帰りに伊東に向かった。何ていうことはない、ただひたすら麻雀に興じていたのだった。ちなみに、卒業証書は後日郵送されてきた。