獅子の会

大学時代に仲が良かった友人たちと、「獅子の会」なる会を発足させたのは昭和から平成に年号が改まって間もない平成2年3月のことだった。以来33年という月日が流れ、毎年1回、各地の温泉場を旅しながら旧交を温めてきた。それが新型コロナウィルスというわけの分からない感染症のため、令和2年3年と連続で開催できずにいたが、令和4年ようやく3年ぶりでささやかながら顔を合わせることができた。これからまた毎年開催できると楽しみにしていた矢先、今度は会員各位に体調不良が続出し、30回目の記念開催も実現がままならない状況になってきた。思えば私も後期高齢者の仲間入りし、運転免許証の更新にも認知機能検査が義務付けられるようになってしまった。病院で検査をすれば、悪い所のオンパレード。異常値であっても前回と大きな変化が無ければ異常値ではないというおかしな理屈で納得している。気温だって35℃や36℃は今や異常値ではないのだ。何種類も薬を飲みながら、何とかもう一度皆で旅行ができることを願ってやまない。

今年になって、「獅子の会」のグループLINEにヤノのバカを除いた6名が参加できるようになって、お互いの近況のやり取りができるようになったのがせめてもの慰めか。そんな中でときどき昔話が出るのだが、今年、昔旅した萩・津和野を旅行してこようかと計画している。そんなこともあって、学生時代の旅の思い出等を中心にちょっと綴ってみようかと思い立った。写真に残っている場面は記憶にも残っているのだが、写真と写真の合い間の記憶は曖昧である。その隙間は勝手な思い込みで埋めることになるのだが、合っているのかどうかは定かではない。記憶なんてものは所詮そんなものだろう。

そもそも、我々が初めて顔を合わせたのは昭和44年、大学に入学した年だった。当時は学生運動華やかなりしときで、大学はロックアウト状態で、入学式だけは厳戒態勢の中で行われたが、1学期はとうとう一度も授業ができない状況だった。そんな中、クラスの有志の呼びかけで自主的に勉強会を開いたりしていて、初めてのクラスコンパがキャンパスに近い御茶ノ水で開かれた。そのときにたまたま近くに座ったのが現在の「獅子の会」の会員である。思えば、以来54年よくもこんな連中と付き合ってきたものだと、お互いにそう思っているに違いない。

こんな写真が残っていた。何ていうこともない写真なのだが、普段キャンパスで見たこともなかったとっつぁんが写っているのが不思議な気がする。

駒ヶ根合宿(昭和44年8月)

一度も授業が行われないまま1学期は終了し夏休みに入ってしまった。その夏休み中に、駒ヶ根のユースホステルで合宿をやろうということになって、クラスの大多数が参加した。ところが当時の写真を見たら哲ちゃんは参加していなかったようだ。どうせ哲ちゃんのことだから、何処かほっつき歩いていたに違いない。当時の貧乏学生の移動手段と言えば夜行列車である。新宿駅に集合して多分松本行の夜行列車に乗車したのだろう。翌朝茅野駅で下車し、バスで白樺湖に行った。白樺湖から車山登山。

 

写真左は白樺湖、写真右は車山山頂

車山から何処に下山したのかは記憶はないが、バスで茅野駅に戻ったのだと思う。
駒ヶ根ユースホステルは池の畔にあった。2日目には近くの河原までハイキング。最終3日目には空木岳の登山道を中腹まで登ったりした。当時の乏しい知識では「空木岳(うつぎだけ)」が読めずに、「からきだけ」じゃねえかとか「そらきだけ」だろうとか勝手なことを言い合っていたように思う。

[後日談]
平成23年、木曽駒ヶ岳登山後、あのときのユースホステルはどうなっているのだろうかと探し求めてみたことがあった。ようやく訪ねあててみたのは、大沼湖という池の畔にある建物だった。当時記念写真を撮った玄関前の雰囲気が残っていた。このときもちろん写真を撮ってきたのだが、残念ながら保存しておいたHDDが故障して取り出せなくなってしまっている。

 

写真左は当時の駒ヶ根ユースホステル、写真右は平成23年に撮影した大沼湖

途中で私は長野に帰り、参加者の何人かは山梨の丹ちゃんの実家に立ち寄っていったらしい。

野沢温泉スキー場(昭和45年2月)

大学1年時の授業が終わり春休みに入った頃、スキーはやったことがないという丹ちゃん、とっつぁん、ヤノのバカの4人で野沢温泉スキー場に行ったことがあった。予定ではチューも一緒に行くはずだったのだが、直前に住宅火災に遭ってスキーどころではなくなってしまった。上野駅での写真を見ると、乗車したのは当時運行されていた急行「信州号」だった。

 

写真の日付等から野沢温泉の「中野屋」という民宿に4泊していることが分かる。当時の宿泊料金は1,000円/1泊もしていなかったのではないだろうか?スキーは二の次で、雪が降っているとか寒いとか言いながら一日中宿で麻雀をしていて、宿の女将を呆れさせた。丹ちゃんはゼミのレポートが間に合わないと言って、宿に籠りきりでレポートの作成に精を出していた。夜は近くの外湯に入浴に行っていたが、丹ちゃんはそこで時計を置き忘れた。あの時計は結局紛失ということになってしまったのだろうか?

  

野沢温泉から戻った翌日、善光寺に参拝してから3人は帰途に就いた。

写真は当時の長野駅。仏閣型の駅舎だった。

三原山登山(昭和45年4月)

大学2年になった4月、伊豆大島の三原山に登ろうということになった。何で三原山だったのか、その辺の事情は記憶に無い。大島から下田に渡って、テントを担いで伊豆半島を巡ろうという計画だった。メンバーは丹ちゃん、チュー、フナキと私の4人だった。当時、竹芝桟橋から「カトレア丸」という夜行の渡船が出ていた。夕方から私の中野の下宿に集合し、飯を炊いて塩だけのおむすびを作った。何故かヤノのバカも手伝いに来てくれた。

 

写真は「カトレア丸」船内。若い頃から禿げていたわけではないことは分かり切ってはいるが、丹ちゃんにこんなに髪の毛があったなんて、何となく不思議だ。

未明に伊豆大島元町港到着。地図も何も用意していなかったのだから、おそらく港にあった観光地図でも見ながら歩き始めたのだろうか?当時ファンタオレンジの自販機ができたばかりで、そんなものを飲みながら歩いていく。当然のことながらガラス瓶だった。途中にゲートがあって、そこから先は有料だったが、いくらだったのかは覚えていない。有料の歩道なんて初めてだと思ったが、あれは入山料だったのだろうか?
「火口茶屋」という土産物店兼食堂で、用意してきた塩むすびを食べた。茶屋を出る頃から雨と霧が酷くなってきて、火口付近では視界はほゞゼロ。隣にいるはずの友人の姿さえ確認しづらくなってきていた。

しばらく佇んでいると、霧の中から蹄の音がしてくる。いきなり観光客用の馬を引いた馬子が姿を現わす。間伏への道を尋ねると、馬の足跡をたどって行けばいいと教えてくれる。その足跡もすぐに見失ってしまったが、島なんだから下って行けば海に出るだろうと、そんな簡単な気持ちでドンドン下っていく。霧の中で野グソをしたり、風で飛ばされた帽子を追いかけたりしながら、どのくらい下ったのだろうか、地層切断面を通過し、ようやく海縁を走る自動車道に出た。バス停を見つけると、間伏という名前が記してあったので、目指したところと大差ないところに下れたようだった。

写真は間伏付近の地層切断面。

バスで波浮港に向かう。同級生の下平は確か波浮の出身だと思ったので、昼食を採った食堂で訊いてみたら、この辺には下平姓は多く、こちらでは「シモヒラ」と読むことが多いのだとか。

波浮港からバスで、下田に渡る船に乗るため岡田港に向かう。疲れたのか岡田港に着くまで車中で熟睡。岡田港に着いたときには土砂降りの雨。下田行の舟は大揺れで、タフが取り柄の丹ちゃんですら顔色無し。下田もやはり土砂降り。テントを張る場所があるはずもなく、お寺にでも頼んで泊めてもらおうかと2ヶ所ばかり頼んでみたが、当然のことながら断られる。大人の常識では断られるのは当然なのだろうが、学生時代は甘えがあって、お寺に頼めば当然のように泊めてもらえるものだと思い込んでいた。途方に暮れた挙句、下田から伊東に移動して、チューの親父さんの官舎に転がり込むことになった。

翌日、伊豆半島旅行は取りやめて、伊東駅前の雀荘で麻雀に興じてから帰京。麻雀はまだ覚えたてで、とっつぁんがいないときは点数も正確には計算できなかった。

能登半島旅行(昭和45年8月)

大学2年の夏休み、哲ちゃんとチューと3人で能登半島を旅行した。当時、信越本線、北陸本線経由で金沢や福井まで行く「能登」とか「越前」という夜行列車が走っていた。私は長野から乗車して、車内で哲ちゃんとチューと合流した。これからどうやって能登半島に入ったかははっきりとは覚えていないのだが、計画時に使用したガイドブックが残っていて、それによると津幡駅から船で福浦港に渡ったようだ。そこから能登金剛方面への移動に関してははっきりした記憶はないのだが、バスだったか船だったか?テントを張ったのは、後年近くを通ったときにキャンプ場があったので、多分関野鼻海岸のキャンプ場だったのだろうと思う。関野鼻海岸は「ゼロの焦点」の舞台となった「ヤセの断崖」の近くだった。

 

翌朝、歩いてバス通りに出る。剣地というバス停の前の売店で顔を洗わせてもらっていたら、店のおじさんだったかおばさんだったか、これを持って行きなとトマトをくれた。何処でバスを降りたのかも思い出せないが、ここから山を越えて猿山岬に向かう。時間もどのくらいかかったのか定かではないが、とにかく猿山岬にたどり着いた。売店でもらってきたトマトがとても美味かった。

このときの灯台をもう一度見たいと思っていたのだが、平成30年に獅子の会が能登半島で開催されたのを機に、当時一緒に旅した哲ちゃんと、丹ちゃんを加えた3人で猿山灯台を探し求めた。皆月海岸から、当時歩いたのであろう道をたどって灯台近くにあった駐車場へ。ここから道を間違えて山道を1時間近くもさまよった挙句、ようやく灯台にたどり着く。灯台の周囲には立ち入りができないように柵がしてあったが、写真を撮るために柵を乗り越えて侵入。ただ、何となく当時とはイメージが重ならなかった。後で写真を比較してみたら、灯台そのものが当時とは変わってしまっていた。

 

写真左は当時の猿山灯台。写真右は平成30年に撮った猿山灯台。灯台自体が変わってしまっていては、当時の雰囲気を思い起こすことができなかったのも無理はない。
猿山岬から、炎天下を海岸線沿いにひたすら歩く。ようやく皆月海岸に到着し、港にあった小さな旅館に泊まることにした。

3日目、輪島行のバスに乗車。途中下車して門前の總持寺別院を見学。
その後輪島でバスを乗り換えて、今夜テントを張る予定の曽々木海岸に向かう。

写真は、バスを降りる前に撮った曽々木海岸。当時は車が入れたり、テントを張るスペースも十分あったのだが、その後何度かこの付近を通過したが、海岸線がかなり後退していてこんなスペースは無くなっていた。

悲劇はこの夜に起こった。夜降り始めた雨は、金沢でも床下浸水が発生するというほどの大雨になり、テントも次第に浸水。一睡もできないどころか、横にもなれない有り様。哲ちゃんが指で水深を測ると、第一関節の上辺りまできている。
夜も明けきらないうちにテントを撤収。雨はもう止んできていたので、近くの「垂水の滝」で写真だけ撮る。

  

写真は「垂水の滝」。右の写真は平成30年当時の「垂水の滝」

残っている写真は、「垂水の滝」の後は「禄剛崎灯台」である。移動手段はバスしかないはずだが…。濡れたテントをキスリングに括り付けて、かなりバテている様子の写真があるが、平成30年に「禄剛崎灯台」を訪れてその理由が理解できた。駐車場から灯台までかなり急勾配の坂道が続いていたのだ。

  

写真は「禄剛崎灯台」。右は平成30年当時の「禄剛崎灯台」

この日は国鉄穴水駅前の小さな旅館だった。写真も何も残ってはいないのだが、穴水駅前で泊まったことは覚えている。前夜一睡もできなかったので、かなり疲れていたのだろう。但し、その穴水駅までの移動に関しては記憶が曖昧である。何処かのバス停の場面がちょっと頭に浮かぶのだが…。

5日目、国鉄で金沢へ。金沢城(当時は金沢大学のキャンパスがあった)、兼六園を観光した後、富山から高山線で飛騨高山へ。高山では民宿を予約してあって、ここで2連泊した。

旅行6日目、高山からバスで乗鞍岳へ。乗鞍岳で初めて雷鳥を見つけ、ちょっと興奮した。

 

7日目、高山市街観光。上三之町の「山車」という造り酒屋で、チューと哲ちゃんは、丹ちゃん宅への土産を購入。

 

 

8日目、高山から美濃加茂経由で中央線に出て、最後の観光地となった「恵那峡」へ。ここでボートに乗った。
この後、チューと哲ちゃんは、丹ちゃん宅に向かい、私は長野に戻った。