獅子の会珍道中第26回獅子の会旅行会顛末記(於 和歌山県・みなべ) |
平成29年6月15日(木)発行
発行者:久米昇 |
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序章
今年は私が久しぶりに幹事を務めます。去年の獅子の会の席上で、来年は南紀はどうかという意見があり、南部にはロイヤルホテルもあるということなので、今年は是非南紀でやりたいと考えておりました。実は私、まだ和歌山県には行ったことがありません。私が行ったことがない県は、東北の青森、岩手、秋田と四国の高知、それに和歌山県ということであったのですが、先月四国旅行に出かけて高知県を訪れ、残すは4県になっておりました。獅子の会を機会に、和歌山県にはどうしても足を踏み入れておきたいと思っており、今年の年賀状にも日程と場所を記載して、メンバーをその気にさせるように仕向けてきたのであります。 …と言うわけで、今年は六人の参加で、前乗り旅行はいつもの三人ということになりました。前乗り旅行の計画を立ててみたところ、和歌山県って遠いなアとつくづく思うわけでありました。初めて訪れるということもあって、あそこもここもと行程に組み入れてみると、宴会の翌日に長野まで戻るのも大変だと言うことで、結局もう一泊して、四泊五日ということになりました。おまけに哲ちゃんから、和歌山へ行くならあそことこことと、八ヶ所も追加されてしまったのであります。日本中行ったことのない所を探す方が大変だと言う哲ちゃんが行きたいと言うのだから、これはもう絶対行かざるを得ないのであります。 |
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第一日目
例年のことながら、わずかな高速料金を惜しんで深夜割引が利く4時前に乗り入れるため、3時45分出発です。前日に関東甲信越地方も梅雨入りして、天候がちょっと心配です。出発時はまだ雨は落ちてきていませんでしたが、岡谷JCTから中央道西宮泉に入り駒ヶ岳SAでトイレ休憩をする頃から強い雨が降ってきました。その後雨と霧で最悪の道路状況になって、慎重の上にも慎重に車を走らせます。この雨は、絶対のハゲ男、否違った、晴れ男を自認する丹ちゃんの能力をもってして何とかなるのでありましょうか? 8時半、計画通りの時間に名古屋駅を出発です。名古屋高速の渋滞でかなり時間をロス、東名阪自動車道の亀山ICで降りたときには30分の遅れであります。ここで運転を丹ちゃんに代わってもらいます。いつの間にか雨も上がったどころか、青空も覗いてまいりました。我らがハゲ男の神通力は絶大であります。
道の駅から九度山の真田庵までは5分ほどです。真田庵は関ヶ原の戦い後、真田昌幸・信繁父子が蟄居させられていたところでありますが、もっと山の中というイメージを抱いていたのに、意外と麓にあったんですね。これなら、大阪城入城の際に抜けだすのもそんなに大変じゃなかったような気もします。敷地内に昌幸の墓がありました。 真田庵の近くに幸村庵という蕎麦屋がありました。紛らわしいなア。その幸村庵の先に真田古墳があり、信繁がこの抜け穴を通って大阪に向かったと伝えられているそうですが、ぜ〜ったいに嘘だな。誰かがそういうことにしておこうと言っただけだな。 駐車場を出るときに、高野山とは反対側に車を向けてしまったところ、NAVIの奴め、ずっと先でUターンさせるように指示を出しやがった。まア、そのおかげで予定にはなかった慈尊院というお寺にもお参りすることができました。高野山が女人禁制であったのに対し、女性もこの慈尊院までは上れるということで、女人高野と云われているお寺なのです。境内には安産、授乳、子育ての無事を祈願する乳房を模った絵馬がたくさん奉納されておりました。おっぱい星人チューがいなくてよかったと、ホッといたしました。
近くを紀ノ川が流れていて、紀ノ川の写真も撮っておきたいとは思ったのですが、予定より1時間も遅れていることもあり、また帰りもこの近くを通るだろうと思い写真は後回しにいたしました。これが、この旅行でいくつか心残りができてしまったうちのひとつになったのです。 九度山から1時間ほどで高野山に到着です。まず奥の院から参拝します。一の橋駐車場から奥の院まで、参道の両側には各地の大名家の墓所が建ち並び、苔むした大きな石塔が、歴史の重さを感じさせてくれます。中には雑草が生い茂ったところや、崩れかけたものもある中で、長州毛利家の墓所だけは整然としています。何だい、これも安倍晋三の意向を忖度したものかい?
奥の院を参拝を済ませてくると、もう駐車場が閉まる寸前の時間でありました。もう我々の車しか残っていません。窓口のお嬢さんは、早く閉めたいオーラが満載です。丹ちゃんがちょっとおべんちゃらを言ってみましたが、まったく無視されてしまいました。
寶城院では離れの二間続きの部屋に通され、何だか特別待遇のようであります。やっぱり山の中で、日が落ちると寒くなります。すぐに風呂で温まってから夕食です。夕食時には住職の方から焼酎の差し入れまでいただいて恐縮の限りであります。
夕食後、私は倒れ込むように眠りについてしまいました。考えてみれば、今日は長野から、岐阜県。愛知県、三重県、奈良県、和歌山県と走ってきたのですから…。 |
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第二日目
いつもの通り4時過ぎには起き出します。以前高野山の宿坊に泊まったことがあるという丹ちゃんは、5時からのお勤めで大変だったと言っておりましたが、今日は6時半からというので、丹ちゃんも哲ちゃんも安気に眠っております。私は宿坊体験は初めてのことで、5時からのお勤めでも一向構わないのですが…。6時半までの時間つぶしに朝の散歩に出かけることにいたしました。人気のない壇上伽藍は、それだけで荘厳さが増すような気がいたします。高野山の街並みを歩いて、街の入口にある大門まで行ってみました。 二人はまだ寝ております。起きろ!お勤めの時間だぞ。 今日はこれから、熊野古道のポイントを車で巡りながら熊野本宮大社まで行く予定ですが、そのポイントをNAVIにどうやって設定したらいいか分かりません。仕方がないので本宮大社を目的地に設定して出発です。
正午ちょうどに熊野本宮大社到着。まず昼食をとります。昨日は精進料理だったので、ガッツリと熊野牛で栄養補給です。そして、目の前にはためく黒飴ソフトの幟旗を目ざとく見つけて、旅行中二ヶ目のソフトであります。こういう黒いソフトは、東尋坊で食べたイカスミソフト以来ですなア。
私の計画では、発心門王子から祓所王子を経て本宮大社に至るはずだったので、最後の祓所王子まで行ってみました。ちょうど発心門王子から歩いてきたというグループが集っていたので、どのくらいかかりました?と聞いてみたら、2時間ほどだったということであります。「これから行かれるんですか?」 行きません!
今度は温泉ですよ。本宮大社から10分ほどで湯の峰温泉です。熊野詣の湯垢離場として世界遺産に登録の温泉地であります。ここのつぼ湯に入っていこうという計画。30分の順番制ということで、若いカップルが入ったばかりだったので少し待つことになりました。我々の後は、浴衣を着た外人の老夫婦であります。待合所に二人の若い外人女性もおりましたが、彼女たちは入浴しないようです。だからどうした…ということでもありませんが…。我々の前に入った若いカップルは中国人らしかったのですが、入ってみると水は出しっ放しでぬるくなってしまっているし、まったく彼らのマナーはどうなっているのか腹立たしくさえ思えます。
つぼ湯の入浴料で、クスリ湯か一般湯のどちらかにも入浴できるのですが、丹ちゃんも哲ちゃんももういいというので、私だけザブンと一般湯に入ってきました。
速玉大社に参詣しましたが、エッ、あの山上に巨石があるのはここじゃないの?ガイドブックの同じページに記載があったので、私、てっきり速玉大社にあれがあるんだとばっかり思っていました。山上の巨石が御神体となっているのは、神倉神社という古宮で、後に山麓に遷された速玉大社が新宮と呼ばれ、新宮市の名の由来になったのだそうであります。それでは神倉神社にも行ってみましょう。
…というわけで神倉神社までやってきましたが、御神体の巨石がある権現山の山頂まで、長い石段が続いています。丹ちゃんも哲ちゃんも途中でリタイヤ。私、見栄を張ってもう少し登ってみましたが、先がまったく見えません。もういいや。ガイドブックの写真で見たから。 今日最後の見学地は、哲ちゃんの希望で見学地に加えた新宮城であります。ちなみに、哲ちゃんが今までに訪れた城の数は300を超えるということでありますよ。
さあ、いよいよ今日の泊まりの南紀勝浦温泉に向かいますよ。 船で行くホテルっていうのが売りなんだろうけれど、どう見たって陸続きで、車で行けるんじゃないの?
現在入浴可能な風呂は館内に四つ。スタンプラリーの用紙があって、三つ以上スタンプを集めると粗品がもらえるということらしい。玄武洞で一つスタンプを押して、部屋に帰る途中にもう一ヶ所浴場の前を通りかかると、浴場の入口にスタンプが置いてあります。これじゃ入浴しなくたってスタンプ捺せるじゃん…と哲ちゃんに話したら、「オレはもう捺してきたよ」 哲ちゃん、きたねエ。 夕食はバイキングです。今日は400人からの宿泊客で、マグロの解体ショーも本日二本目ということだそうです。チェックインの時間が遅かったため、7時半からの夕食ではあったのですが、9時までしっかり食べてまいりました。私はもう寝る時間なんですが、寝る前に日昇館にある二ヶ所の風呂にも入ってきました。忘帰洞という洞窟風呂は波打ち際に近く、押し寄せる潮騒を聞きながら、しばらく瞑想に耽っておりました。 |
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第三日目
今日も4時過ぎに目を覚ましますが、目の前は海、ちょっと散歩というわけにはいきません。忘帰洞は4時半から入浴可能というので早速入浴に行きます。もう大勢の人が、白々としてくる東の空を眺めながら入浴しております。4時40分過ぎ、水平線に日が昇ります。絶好のロケーションであります。営業用の撮影禁止って、こういうことね。私、趣味ですから平気で撮ってきます。
部屋に戻ってみると、二人はまだ惰眠を貪っております。私はもう清新な空気を胸いっぱい吸い込んできているというのに、こいつらはいったい何をしているのでありましょうか。昨日の朝のお勤めも、伝授された呼吸法も、こいつらにはまったく生かされておりません。起きろ〜。 今日は熊野那智大社を参詣してから、潮岬を巡って紀州南部ロイヤルホテルで皆と合流します。
大門坂から30分足らずで那智大社まで歩けるらしいのですが、我々は当然車に戻ります。車なら10分足らずで那智大社ですから…。
三重塔越しの那智の滝を撮れば、ここはもうこれで十分です。これで一応日本三大瀑布(華厳の滝、那智の滝、袋田の滝)制覇です。三大○○ってのには多々疑問もありますがね。
潮岬に向かって、太地町を通過。くじらソフト食べていこうぜ。そんなのがあるのか?あるかどうか分かんないけど、イメージ湧かねえな。
幟旗にやっぱりありました、蜜柑ソフト。でも、今食事したばっかりでお腹いっぱいです。明日は蜜柑で有名な有田も通るし、明日の楽しみにとっておきましょう。この判断が大きな間違いであったことを、このときまだ知る由もなかったのです。
さて今度は白浜温泉に向かいます。白浜温泉では「崎の湯」という外湯に入る予定をしています。この「崎の湯」は、斉明天皇が湯治に訪れたこともあることから、日本最古の温泉と云われております。孝徳天皇の遺児・有馬皇子が、蘇我赤兄に謀られて謀反を企てたということで、当時牟婁の湯と呼ばれていた白浜温泉に湯治に来ていた斉明天皇と中大兄皇子の尋問を受けるべく、ここに送られる途中に詠んだ「岩代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む」という歌が万葉集の巻の二に載っております。こういう故事から、最古の湯とされているのであります。中途半端な知識を振りかざし、うんちくを語りたいのよネー。
これで今日の予定は終了です。これから宿泊先の紀州南部ロイヤルホテルに向かいます。途中、ちょっと南光梅のお土産を買いたいので、ガイドブックに載っていた「中田食品」に立ち寄ります。塩分の量によって何種類もあるので、どれがいいのかよく分かりません。結局お店の人のお薦めを購入することにいたしました。 5時ちょうどにホテル到着です。あいつらはもう部屋でくつろいでおりました。 風呂に入った後、いよいよ宴会です。今年のお姐さんは、トモコさんとミユキさん。それ以上に強烈だったのが中居さん。これだけインパクトのある中居さんは、山中温泉「花つばき」のよし子さん以来でしょうか。否、それ以上だったかもしれません。配膳のため膝を折るたびにバキバキッてすごい音立てるもんで、皆びっくりですよ。年齢は41というけれど、30代前半でも通るんじゃないですか。「頭悪いから若く見えるんですよ。私、頭とコンドロイチンが足りないの」 と、言うこともなかなか洒落ています。「飲んじゃいけないの?」って訊けば、「いただきますよ」 とすごい飲みっぷりであります。「ブルゾンちえみ」風の髪型で、その名も「ブルゾンなほ」。今年は伊藤屋チュー兵衛もいないし、お代官様ごっこなんてやってる場合じゃネエぞ。
今年のお姐さん方、延長もなしで帰ってしまいました。これに関しましてはちょっと言い訳しておきます。お姐さんが指二本立ててきたもんですから、こっちは端から2時間延長のつもりをしているもんで、「OKだよ」って言ったら、伝票にサインしろって言うもんでサインしたら、挨拶して帰ってっちゃったんです。あれ、2時間経ちましたけど…?って言って、OKって言われたもんで、これでOKなんだと思ったんですね。どうもスイマセン。でもこの中居さんいればいいよね。 カラオケボックスが空いたっていうもんで、カラオケボックスで二次会です。私もう飲めないもんですから、ウーロン茶をお願いしたら、うーろんちゃ!って、ウーロン茶頼んでこんなにびっくりされたの初めてですよ。 もう11時を回っています。早く寝ないと起きる時間になっちゃいます。 |
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第四日目
昨夜遅くまで騒いではいたものの、今朝もゆっくり寝てはおられません。出発までの時間を利用して、有馬皇子の万葉歌碑を見に行かなくてはならないのですから。万葉歌碑があるというお寺にNAVIを設定したのですが、このNAVIまた間違えました。細い道をバックで逆戻りしたりしながら、何とか結松の碑と万葉歌碑を探し当てました。
有馬皇子が牟婁の湯に連行されていく途中、この岩代の松の枝を引き結んで、自らの無事を祈ったと云うのがこの結松であります。 有馬皇子自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
有馬皇子は藤白坂において自ら縊れて19歳の生涯を閉じるのであります。 ホテルに戻って、6時から風呂に行きます。 今日もスケジュールがたてこんでいるので、そんなにゆっくりしておられません。じゃ、とっつぁんもフナキも気をつけて帰ってね。遠くまできてくれてありがとう。また来年。
次は湯浅です。鎌倉時代に伝わった「金山寺味噌」の製造過程から醤油の醸造が始まり、江戸時代には92軒もの醤油蔵が軒を連ねていたという醤油の街湯浅であります。それにしては醤油ソフトが見当たらねえなア。
湯浅から有田を通って、海南市の長保寺に向かいます。長保寺なんて聞いたこともなかったのですが、紀州徳川家の菩提寺なんですね。流石は哲ちゃん、いろんな所知ってますなア。
長保寺から、ヤノを送って和歌山駅に向かいますが、まだ時間がちょっと早いので、先に昼食をとって、紀三井寺も参拝してしまいます。拝観料を払おうとすると、「70歳以上の方はいらっしゃいますか?70歳以上の方は半額になります」 「オレは来年70なんだけどね」 「いらっしゃらないってことですね」 そんな紋切型の言い方しなくたっていいじゃないですか。惜しかったですね…とか、おまけしときます…とか、他に言いようもあるじゃないですか。
随分余裕があると思っていましたが、和歌山駅に着いたときは、乗車予定の特急の発車時刻まで10分しかありません。間に合うかどうか、まア、降ろしてしまえば後のことは自分でやってもらうしかありません。気をつけて帰れよ! 紀州東照宮に向かう途中、「和歌の浦」という看板が目につきます。「和歌の浦」と言えば、風光明媚な景勝地で、万葉集にも歌われている所であります。時間があれば立ち寄りたいところでもあるのですが、今回は計画にも入れてないので割愛です。 これで和歌山県の見学予定地はすべて完了であります。私、和歌山県は初めての来訪でありましたが、もういっぱしの和歌山通であります。 5時40分、どうにか長谷寺の参道にある長谷寺温泉・湯元井谷屋に到着です。 |
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第五日目
いよいよこの旅行も最終日を迎えました。しかし、最終日だからと言って、この二人のように呑気に寝ているわけにはいかないのであります。今朝は、宿から車で20分ばかりのところにある宇陀へ行ってきます。宇陀の阿騎野は、軽皇子(後の文武天皇)が父であった草壁皇子の追悼のための狩に出かけた所で、そのときにお伴をしていた柿本人麻呂が、そのときの様子を一遍の長歌と四首の反歌に残しております。その第三反歌が、有名な ひむがしの野にかぎろひの立つみえてかへりみすれば月かたぶきぬ の一首であります。当時の阿騎野は、現在「かぎろひの丘公園」になっており、ここに万葉歌碑があります。宇陀市中央公民館のホールには、当時の様子を描いた中山正巳画伯の「阿騎野の朝」という絵画が飾られていて、是非これを見てきたいと思っていたのですが、この日はホールが使用されていて鑑賞不可ということでありました。それならば、朝早くても構わないので、早起きしてこの万葉歌碑だけでもみてこようという次第なのであります。
宿に帰る途中の信号に「吉隠(よなばり)」の表記があったりして、嗚呼、この辺は万葉の故郷でもあるのだなアと感じました。確か、雄略天皇の泊瀬朝倉宮もこの辺りだったのではないでしょうか。この辺りはまたゆっくりと歩いてみたいものです。 8時半の開門を待って長谷寺にお参りします。長谷寺も、これから行く室生寺も、まだ20代のころに訪れたことがあるのですが、寺の境内は写真が残っているので記憶にもあるのですが、参道の様子や、どうやってここまで来たのかは覚えておりません。昔と言ってもせいぜい40年ほど前の話で、寺の伽藍等が変わっているはずはありません。
長谷寺から30分ほどで室生寺です。何年か前に台風の被害に遭った五重塔もすっかり修復されていて、被害の跡などはまったく感じませんでした。
奈良は本当に奈良ナンバーばっかりだなア…と丹ちゃん。確かに周囲を走っている車は奈良ナンバーばっかりです。長野だって県外車は多いのに、何で奈良ナンバーばっかりなんだろう。「この間のお姐さんたちだって、奈良へはあまり遊びに行かないって言ってたし、閉鎖的な県民性で、周囲と交渉を持たないんだな。だから、あんな茶粥なんてものが生まれるんだ」 おいおい、こんなとこで茶粥を持ち出すことはないだろう。 奈良県から三重県に入ります。結局葛ソフトも見つかりませんでした。もうご当地ソフトにはありつけないかもしれません。伊賀なんだから忍者ソフトってのはないのかい?と、半ば自棄気味で伊賀PAに入ります。ところが冗談から出た真。忍者ソフトの幟旗があるじゃありませんか。それなら太地町でもクジラソフトを探してみればよかったか。とにかく昼飯を食べてからということで、折角三重県に入ったのですから松坂牛を食べましょう。何が忍者ソフトだって?ソフトクリームのコーンの中に、つぶあんが隠れているんだってさ、ただそれだけのこと。でも我々は大満足であります。
この旅行最後の見学地は、東海道の宿場町・関宿であります。どうせなら、ここにも孫六ソフトかなんかないかね?
まだ時間早かったので、一度は計画から割愛した養老の滝へでも行くかとの案もあったのですが、この五日間でかなり膝を酷使していたので、予定よりずいぶん早いですが名古屋に向かうことにします。この旅行で登った石段の数はどれくらいになるのでしょうか?まず千の位になっていることは間違いないでしょう。よく歩いたものですなア。 名古屋駅で二人と分かれて、名古屋高速から中央道に入ります。 |